第三話 龍馬の誘い
山あいの静寂を破るように、草履の音が土の道に軽く響いていた。陽の傾き始めた空の下、坂本龍馬に連れられて歩く神谷彦太郎は、ひたすら前を行く背中を見つめながら黙々と足を動かしていた。
道の両脇に茂る竹と杉。鳥のさえずりが風に乗って聞こえてくる。
彦太郎の額からは、止めどなく汗が流れていた。春とはいえ、山道を長く歩けば体は容赦なく疲弊する。現代の舗装路しか知らない足には、石の起伏ひとつが想像以上に堪える。
「息があがっちゅうな。……慣れん道じゃろうて」
龍馬が立ち止まり、振り返る。額に浮かぶ笑みは、心からのものだった。
「はい……ちょっとだけ、慣れてなくて」
彦太郎は、息を整えながらもなんとか笑顔を作る。無理にでも笑っておかないと、自分の正体が漏れそうな気がしてならなかった。
「けんど、不思議なやつじゃ。見たこともない着物……いや、そもそも着物と呼べるかどうかも怪しい格好やき」
龍馬の目がじっとこちらを見つめる。観察するような、値踏みするような、それでいて決して敵意を感じさせない眼差しだった。
彦太郎は喉の奥で乾いた笑いを漏らしながら、どう言い訳を繕えばいいか考えていた。だが、どれを取ってもあまりに突拍子がなく、通じるとは思えない。
(でも……この人、何となくだけど、話せば分かってくれそうな気がする)
龍馬の足取りは軽やかだった。刀を腰に差してはいるが、動きに一分の隙もなく、まるでその存在すら忘れてしまうほど自然だった。
やがて山道は緩やかな下り坂となり、遠くにいくつかの家並みが見え始める。木々の間から差す夕日が茅葺き屋根を照らし、白く立ち上る煙が、どこか懐かしい匂いを運んできた。
「ちくと、顔の利く者の家を借りとる。休んでいかんか。そろそろ腹も減ったろう?」
「……はい、すみません。助かります」
龍馬に続き、集落の外れにある一軒の家へ足を運ぶ。土間に上がると、囲炉裏の匂いが鼻をくすぐった。風に揺れる竹簾の音、どこかで煮炊きする味噌の香り。
龍馬は鉄瓶に湯を満たし、火にかける。彦太郎は戸口の隅に正座して、その手際を見つめていた。何気ない仕草ひとつにも、武士の気質が滲んでいた。
「どうも、わしは人の目を見るのが癖でのう。正直な目をしちょるか、嘘をついちょるか、そればっかり見てきたがよ」
龍馬が湯呑みに湯を注ぎ、そっと差し出してくる。
「おまんの目は、よう分からん。不思議と、怖くはないが」
「……それ、褒め言葉だと思っていいですか?」
「ふふ、悪い意味やないき」
その瞬間、彦太郎の緊張が少しだけ解けた気がした。
湯呑みの縁から立ち上る湯気を眺めながら、彦太郎は静かに息を吐いた。体の芯がじんわりと温まり、心もまた、不思議と落ち着きを取り戻していく。
「おぬし、ひとりで此処へ来たんか?」
「……はい。気がついたら、この神社のあたりにいて……。どうやって来たのか、自分でも分からなくて」
真実の一部だけを切り取り、慎重に言葉を紡ぐ。嘘ではない。けれど、すべてを語るにはあまりにも現実味がなさすぎた。
「なるほど。では、しばらくの間、行く宛てもないいうことか」
「……そうなります」
龍馬は顎に手を添え、しばらく考え込んだ。
「世の中は、いま騒がしい。京のほうでは何やらきな臭い話も増えちょる。……土佐にいても、これから何が起きるか分からんき」
その言葉に、彦太郎は思わず息を呑んだ。歴史書の知識が、脳裏に蘇る。だが、その知識をどう使うべきかは、いまだ自分の中で定まってはいなかった。
「何も言わんでもえい。無理に聞き出すつもりもないき。ただ――」
龍馬は湯呑みを傾け、湯を一口飲み下ろしてから、ゆっくりと口を開いた。
「もし行く当てがないなら、わしといっしょに来るか?」
その声は、決して強要ではなかった。だが、どこか抗いがたい説得力があった。
彦太郎は一瞬、何も答えられなかった。
だがその沈黙は、すでに答えを孕んでいた。
夕餉の支度は思いのほか早かった。土間の隅に吊るされた味噌壺からすくった汁に野菜と魚を放り込み、囲炉裏の火にかけただけ。それだけなのに、部屋に広がる香りは食欲を刺激するには十分すぎるほどだった。
彦太郎は膝を正して座りながらも、内心では落ち着きがなかった。龍馬の言葉――「いっしょに来るか?」が、ずっと頭の中に居座っていた。
(……どうする? この先、ついて行っていいのか?)
行く当てはない。戻る方法も見つかっていない。下手に離れれば、この時代の常識の中で自分が迷子になるのは明らかだった。
けれど、それ以上に気になったのは、龍馬という人物だった。
歴史書の中では幾度となく目にしてきた名。しかし、今目の前にいる坂本龍馬は、そのどれとも違った。強く、鋭く、それでいて、他人の痛みに敏い。書かれていない部分にこそ、その人間らしさがあった。
「口に合うかどうか分からんが、まぁ食べてみいや」
差し出された椀を両手で受け取る。湯気の奥から、焼き干しの出汁と味噌の香りが漂ってきた。箸を取ると、龍馬が嬉しそうに頷く。
「よう食べ、よう笑い。それができりゃ、大抵のことはどうとでもなるがよ」
「……はい、いただきます」
一口すすると、素朴だが、芯から染み渡る味だった。彦太郎はふっと目を細め、肩の力が少し抜けるのを感じた。
「迷うのも当然じゃ。知らん土地に、知らん人間。けんど……直感ってのは大事なもんぜよ」
箸を置いた龍馬が、ふと真顔に戻る。
「わしらがこれからどこへ向かうか、何をしようちゅうか……全部を語るには、まだ早い。けんど、おぬしが目の前で震えもせず、今ここに座っちゅうこと――それだけで十分やと思うがよ」
語調は穏やかだが、そこには確かな意志があった。
彦太郎は椀を置き、膝の上で手を握りしめた。迷いはまだあった。だが、答えを引き出すには、これ以上の材料は不要だった。
「……ついていきます」
龍馬は、驚くでもなく、頷いた。
「そうか。なら、明日からちくと歩くことになる。体、鍛えちょかんとのう」
冗談めかしたその一言に、彦太郎はようやく小さく笑った。
その夜、彦太郎は敷かれた布団に横になりながら、天井の梁をぼんやりと見つめていた。
(……ついて行くって言ったけど、これで本当によかったんだろうか)
不安はある。だが、それでも、誰の手も届かない孤独よりは、信じられる誰かと共にいる方がずっとましだと思えた。
ふと、枕元に置かれた風呂敷の中から、スマートフォンを取り出す。圏外の表示は変わらず、画面は何の情報も示さないままだ。
(現代に戻れる保証なんて、どこにもない)
けれどそれでも、今日の出会いだけは、確かに意味があった。
龍馬という男の歩みに、自分は――ほんの少しだけ、共鳴してしまったのかもしれない。
布団の中、冷えた指先でそっとスマートフォンの電源を落とす。
眠りにつくまでのわずかな間、彦太郎は静かに目を閉じた。重くのしかかる不安も、心の奥に生まれたかすかな決意も、すべてを抱えて。
夜の風が、障子の隙間から優しく吹き込んでいた。