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第二十七話 静かな朝

 

 襲撃から、四日が経っていた。


 八重菊の屋敷は、少しずつではあるが、日常を取り戻しつつあった。裏口の戸は直され、血の染みた畳は新しいものに替えられ、座敷の掃除も終わっている。だが、空気だけは、まだ完全には元に戻っていなかった。


 夜明け前の裏庭で、竹刀がぶつかり合う音が響いていた。


 彦太郎は、辰五郎と向かい合っている。息が上がり、全身から汗が噴き出している。四日間、毎朝この時間に稽古を続けていた。


「腰が高い!」


 辰五郎の声が飛ぶと同時に、竹刀が彦太郎の脇腹を打った。鈍い痛みが走り、彦太郎は思わず膝をついた。


「……っ」


「守りに入ったら終いや。攻めながら守る。それが、生き残る道や」


 辰五郎は竹刀を下ろし、彦太郎に手を差し伸べる。彦太郎はその手を取り、立ち上がった。掌が、痛い。四日間で何度も竹刀を握り続けた結果、水膨れが潰れ、新しい皮ができかけている。


「今日はここまでや。顔、洗うてこい」


 彦太郎は深く頭を下げ、井戸へと向かった。冷たい水で顔を洗う。頬を流れる水が、火照った身体を少しだけ冷やしてくれる。


(……四日)


 あの夜から、四日。長いようで、短い。身体の痛みは、まだ生々しい。だが、それ以上に心の傷の方が、深く残っている。


 竹刀で人を打った感触。あの鈍い音。それは、夢に何度も出てきた。目を閉じると、蘇ってくる。だから、彦太郎は眠るのが怖かった。稽古で疲れ果てて、意識を失うように眠る。それが、今の彦太郎の生活だった。


 井戸の水面に、自分の顔が映っている。痩せた。目の下に、隈ができている。


(……強く、ならなければ)


 その言葉だけが、彦太郎を支えていた。


 朝餉の支度が始まる頃、彦太郎は台所の手伝いをしていた。お久が味噌汁を作り、桜太が薪を運び、彦太郎は米を研いでいる。


 いつもと同じ、朝の風景。だが、何かが違う。


 お久の動きが、わずかに硬い。桜太は、時折裏口の方を気にしている。そして、誰も柴乃の名前を口にしなかった。


 柴乃は、あの夜、逃げた。家族を人質に取られ、裏口を開けるよう脅されていた。彼女を責めることは、誰にもできない。だが、彼女がいた場所は、今は空白のままだった。


「彦っち、そろそろええで」


 桜太の声に、はっと我に返る。米を研ぐ手が、止まっていた。彦太郎は頷き、米を釜に移す。


「……梅さんは、どうですか」


 彦太郎が尋ねると、桜太は少し表情を緩めた。


「昨日、目ぇ覚ましたで。まだ頭痛いらしいけど、喋れるようになった」


 その言葉に、彦太郎は安堵の息を吐いた。梅は、襲撃の夜、お新を庇って頭を強く打った。三日間、意識が戻らなかった。医者は「命に別状はない」と言ったが、それでも皆、不安だった。


「よかった……」


「せやな。百が泣いて喜んどったわ」


 桜太は薪を置き、彦太郎の肩を叩いた。


「あんまり自分ばっかり責めんなよ。あんたのおかげで、みんな助かったんやから」


 彦太郎は、何も言えなかった。桜太の言葉は優しかったが、それでも胸の重さは消えなかった。


 朝餉が終わると、彦太郎は帳場で名簿の整理をしていた。襲撃以来、八重菊は座敷を開けていない。客を取っていない。だから、書くべき記録はほとんどなかった。


 ただ、手を動かしていないと、落ち着かなかった。筆を持ち、文字を書く。それだけで、少しだけ心が静まる。


「神谷どん」


 お滝の声に、彦太郎は顔を上げた。お滝が、帳場の入口に立っている。いつもの凛とした佇まいだが、目の奥に疲労の色が滲んでいる。


「……はい」


「ちょっと、話がある」


 お滝は帳場に入り、彦太郎の向かいに座った。しばらく沈黙が続く。お滝は、帳場の奥にある桐の小箱を見つめている。あの包みが、入っている箱。


「……このままでは、あかん」


 お滝の声は、低かった。


「襲撃があった。柴乃を失うた。梅が傷ついた。……このままでは、八重菊は守れへん」


 彦太郎は、黙って聞いている。お滝は、視線を彦太郎に向けた。


「京の町は、荒れとる。浪士が増え、刀を振り回す者が増え、人が死ぬのが当たり前になりつつある」


 その言葉に、彦太郎の胸が締め付けられる。歴史の知識が、頭の中でざわめく。これから先、京都はもっと荒れる。新選組が生まれ、池田屋事件が起き、禁門の変が起きる。血で血を洗う時代が、やってくる。


「……うちは、八重菊を守る。それが、うちの仕事や」


 お滝の目が、鋭く光る。


「そのためには、もっと強い繋がりが要る。情報も、力も。……辰五郎だけでは、足りへん」


 彦太郎は、息を呑んだ。お滝が何を言おうとしているのか、分かる気がした。


「神谷どん、あんたは龍馬はんに連れられて来た。あの人は、いろんな場所に顔が利く。……あんたも、これから人と繋がっていく必要がある」


「……僕が、ですか」


「そうや。あんたは、ここの一員や。八重菊を守る一人や。ただの帳場係やない」


 お滝の言葉は、重かった。彦太郎は、拳を握りしめる。


「……何を、すればいいんですか」


「まずは、強くなること。辰五郎の稽古を続けなさい。そして——」


 お滝は、少し言葉を選ぶように間を置いた。


「人と会いなさい。話を聞きなさい。この京で、何が起きているのか、肌で感じなさい」


 彦太郎は、ゆっくりと頷いた。


 だが、その胸の奥で、ひとつの疑問が渦巻いていた。


(……なぜ、お滝さんは、こんなに僕に期待するんだろう)


 龍馬に連れられて来たとはいえ、彦太郎はただの流れ者だ。素性もはっきりしない。剣も使えない。それなのに、お滝は彦太郎を「八重菊の一員」として扱い、大きな役割を与えようとしている。


 その理由が、分からなかった。


「……お滝さん」


 彦太郎が声をかけると、お滝は立ち上がりかけた手を止めた。振り返る。


「……なぜ、僕に、そこまで」


 言葉が、うまく出てこない。だが、お滝には伝わったようだった。


 お滝は、少しだけ表情を緩めた。だが、それは笑顔ではなかった。どこか、遠くを見るような目だった。


「……あんたくらいの歳の子が、一生懸命に生きようとしてる。それを見て、何も思わん方がおかしいやろ」


 その声には、いつもの厳しさとは違う、柔らかな響きがあった。


 お滝は、一瞬だけ視線を彦太郎から外し、帳場の隅に置かれた古い櫛を見つめた。誰のものかは分からない。だが、その櫛を見るお滝の目に、何か言葉にできない感情が宿っているのを、彦太郎は感じた。


「……うちにも、昔は」


 お滝が何かを言いかけて——だが、そこで言葉を飲み込んだ。


 短い沈黙。


「……まあ、ええわ。昔の話や」


 お滝は、また元の凛とした表情に戻る。だが、その目の奥に、ほんの一瞬だけ、深い悲しみのようなものが滲んでいた。


「神谷どん。あんたは、ここで生きると決めたんやろ? ほな、生き抜きなさい。それが、うちの望みや」


 お滝は立ち上がり、帳場を出ていく。その背中を見送りながら、彦太郎は深く息を吐いた。


(……お滝さんにも、何かあるんだ)


 それが何なのかは、分からない。だが、お滝が自分を見る目には、単なる従業員を見る目ではない何かがある。それだけは、確かだった。


(……人と、会う)


 それは、龍馬がやっていたことだ。いろんな人と会い、話を聞き、繋がりを作る。そして、時代を動かしていく。


 だが、彦太郎にそれができるのだろうか。歴史を知っている。だからこそ、何も言えない。何も変えられない。


(……でも)


 お滝の言葉が、胸に残っている。「生き抜きなさい」。それが、お滝の望みなのだとしたら——


 彦太郎は、筆を置いた。手が、震えている。怖い。でも、やらなければならない。


 昼過ぎ、彦太郎は梅の部屋を訪ねた。


 襖を開けると、梅が布団に横になっていた。頭に包帯を巻き、顔色は悪いが、目は開いている。


「……彦太郎はん」


 梅の声は、弱々しかった。だが、確かに意識がある。彦太郎は、部屋に入り、梅の枕元に座った。


「……梅さん、大丈夫ですか」


「……まあ、なんとか」


 梅は、小さく笑った。だが、その笑顔は、痛みを堪えているようだった。


「……すみません。僕が、もっと強ければ」


「何言うてはるん」


 梅は、わずかに首を横に振った。


「彦太郎はんが、守ってくれはったんや。お新はんも、百も、みんな。……うちだけや、ドジ踏んだんは」


 その言葉に、彦太郎は何も言えなかった。梅は、天井を見つめている。


「……怖かったわ。けど、あのまま逃げたら、もっと後悔したと思う」


 彦太郎は、梅の横顔を見つめた。包帯の下に、傷がある。痛みがある。だが、梅は後悔していない。


「……梅さんは、強いですね」


「強ないわ。ただ、守りたいもんがあっただけや」


 梅は、彦太郎の方を向いた。その目は、優しかった。


「彦太郎はんも、そうやろ? 守りたいもんが、あるんやろ?」


 彦太郎は、頷いた。言葉にはできないが、確かにある。八重菊。ここにいる人たち。お滝、辰五郎、桜太、お新、百、お久。そして——阿久里。


「……はい」


「ほな、それでええ。それだけで、十分強いわ」


 梅は、また天井を見つめた。彦太郎は、しばらく黙って座っていた。部屋の中に、静かな時間が流れる。


「……彦太郎はん、ちょっと水、持ってきてくれる?」


「はい、すぐに」


 彦太郎は立ち上がり、部屋を出た。台所で水を汲み、戻ろうとした時——


 廊下の向こうで、阿久里の姿が見えた。


 阿久里は、縁側に座っていた。針箱を膝の上に置き、布に針を刺している。その手は、あの夜のように震えてはいない。だが、どこか慎重に、ゆっくりと針を動かしている。


 彦太郎は、足を止めた。あの夜以来、阿久里とは何度か顔を合わせた。挨拶を交わし、時には無言で隣に座ることもあった。だが、深く話をすることは、まだなかった。


 水の入った椀を持ち、彦太郎は梅の部屋に戻った。梅に水を渡し、飲むのを見守る。


「……ありがとう」


「いえ」


 彦太郎は、もう一度梅の部屋を出た。そして、少し迷った後、縁側へと向かった。


 阿久里は、まだ針仕事をしていた。彦太郎が近づいても、顔を上げない。ただ、針を動かし続けている。


「……阿久里さん」


 彦太郎が声をかけると、阿久里は手を止めた。顔を上げ、彦太郎を見る。


「……神谷さん」


「……少し、隣に座ってもいいですか」


 阿久里は、小さく頷いた。彦太郎は、阿久里の隣に腰を下ろす。


 庭に、風が吹いている。木々が揺れ、葉擦れの音が聞こえる。二人は、しばらく黙ったまま座っていた。


 阿久里が、また針を動かし始める。布に、細かい模様が刺繍されていく。その手つきは、丁寧で、迷いがない。


「……阿久里さんの針仕事、見ていると、落ち着きます」


 彦太郎が言うと、阿久里は少し驚いたように顔を上げた。


「……そう、ですか」


「はい。……あの夜以来、なかなか落ち着けなくて」


 阿久里は、針を止めた。彦太郎の方を向く。


「……神谷さんも、ですか」


「……はい」


 彦太郎は、正直に答えた。阿久里は、少し考えるように視線を落とす。


「……うちも、です」


 その言葉に、彦太郎は阿久里を見た。阿久里は、針箱を見つめている。


「……夜、眠れません。目を閉じると、あの時のことを思い出します」


「……僕も、同じです」


 二人は、また沈黙した。だが、それは孤独な沈黙ではなかった。互いの痛みを共有する、必要な沈黙だった。


 やがて、阿久里が小さく口を開いた。


「……神谷さんは、なぜ稽古を続けているんですか」


 彦太郎は、その質問に少し戸惑った。だが、答えは決まっていた。


「……もう、見ているだけじゃいられないからです」


 阿久里は、彦太郎を見つめている。


「あの夜、僕は何もできませんでした。竹刀を持っても、怖くて、動けなくて」


 彦太郎の声が、わずかに震える。


「……でも、動かなければ、守れない。それを、知りました」


 阿久里は、静かに頷いた。


「……うちも、動けませんでした」


 阿久里は、針を手に取る。


「針は、布を縫うものです。けど、あの夜、人を刺しました」


 彦太郎は、黙って聞いている。


「……怖かったです。けど、しなければ、お新はんが傷ついていました」


 阿久里の手が、わずかに震えている。彦太郎は、無意識にその手に自分の手を重ねた。


 阿久里が、驚いて彦太郎を見る。彦太郎も、自分の行動に驚いていた。だが、手を引くことはできなかった。


「……一緒に、憶えていましょう」


 彦太郎の言葉に、阿久里は目を見開いた。


「あの夜のこと。痛みも、恐怖も、守ったことも。……一人で抱えるには、重すぎます」


 阿久里の目に、涙が浮かんだ。だが、それは悲しみの涙ではなかった。


「……はい」


 阿久里の声は、小さかった。だが、確かだった。


 彦太郎は、手を離した。阿久里は、涙を拭い、また針を手に取る。その手は、もう震えていなかった。


 二人は、また並んで座る。庭に、夕日が差し込んできた。長い影が、縁側に伸びている。


 ——静かな時間。


 だが、その静けさの中で、何かが確かに変わり始めていた。


 夕方、彦太郎は裏庭で一人、素振りをしていた。辰五郎はまだ戻っていない。彦太郎は、朝の稽古で習った型を、何度も繰り返していた。


 汗が、額から流れ落ちる。手の皮が、また剥けそうだ。だが、止められない。動いていないと、また考えてしまう。


 ふと、背後から声がした。


「……まだやっとったんか」


 振り返ると、辰五郎が立っていた。腕を組み、彦太郎を見ている。


「辰五郎さん……」


「お前、朝だけやのうて、夕方もか」


 辰五郎の声には、呆れと、わずかな心配が混ざっていた。彦太郎は竹刀を下ろし、息を整える。


「……もっと、強くならなければ」


「強く、な」


 辰五郎は、彦太郎の隣に腰を下ろした。夕日が、二人の影を長く伸ばしている。


「お前、何のために強くなりたいんや」


 その問いに、彦太郎は少し考えた。


「……守るためです」


「守る、か」


 辰五郎は、空を見上げた。


「守るいうのは、刀だけやないぞ」


「……え?」


「剣は、所詮、一つの手段や。大事なのは、何を守りたいか、や」


 彦太郎は、辰五郎の横顔を見つめた。辰五郎の目は、遠くを見ている。


「お前はもう、見てるだけの人間やない。次は、どう動くか決めろ」


 その言葉が、彦太郎の胸に刺さった。


「……もっと強くなりたいです。辰五郎さん、もっと教えてください」


 辰五郎は、彦太郎を見た。その目は、厳しかった。だが、温かみもあった。


「……俺が教えられるのは基礎だけや。実戦的な業は、また別や」


「実戦的な業……」


「ああ。京都には、いくつか本格的な道場がある」


 辰五郎は少し間を置いた。


「その一つに、試衛館という道場がある。近藤勇という男が率いてる。天然理心流の使い手で、実戦を知ってる」


「試衛館……近藤勇……」


 彦太郎の声が、わずかに震えた。


 心臓が跳ね上がる。


(知ってる。この名前を、知ってる)


 試衛館。近藤勇。天然理心流。

 歴史の教科書で何度も目にした名前が、いま、目の前の現実として告げられた。


(これは……)


 だが、それ以上の思考は、辰五郎の次の言葉に遮られた。


「ただし」


 辰五郎の声が、わずかに沈む。


「俺からは紹介できん。昔、ちょっとな……わだかまりがある」


「……そうですか」


 彦太郎は、動揺を押し殺すように答えた。


「けど、もし縁があって誰かが紹介してくれるなら、試衛館は良い道場や。覚えとけ」


 辰五郎はそれだけ言うと、井戸を離れて屋敷の方へ戻っていった。


 彦太郎は、青い空を見上げた。


 試衛館。近藤勇。


 その名前が、まるで何かの予兆のように、胸の奥で小さく響いていた。


(……歴史が、動き始めている)


 知識がある。だが、それを使うべきなのか。使ってはいけないのか。


 彦太郎は、拳を握りしめた。答えは、まだ出ない。


 だが——一つだけ、確かなことがある。


 もう、見ているだけではいられない。


 夜。


 八重菊の屋敷は、静かに眠りについていた。彦太郎は、自分の寝間で布団に横になっていた。


 疲れているはずなのに、眠れない。目を閉じると、いろんな顔が浮かんでくる。


 龍馬、辰五郎、お滝、阿久里。そして——歴史の中で出会うはずの、まだ見ぬ人たち。


(……俺は、ここで何をするんだろう)


 その問いに、まだ答えはない。


 だが、一つだけ分かっていることがある。


 もう、後戻りはできない。


 彦太郎は、目を閉じた。今夜も、夢を見るだろう。あの夜の夢を。


 だが——それでも、明日は来る。


 そして、明日もまた、生きていかなければならない。


 ——静かな朝は、終わった。


 だが、これは、始まりに過ぎなかった。

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