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第二十六話 血の夜

 

 素足が、冷たい廊下の板を踏みしめる音だけが、夜の静寂の中で異様に響いていた。


 彦太郎の心臓は、喉元まで跳ね上がるほど激しく打つ。


「裏手から……誰ぞ、入りはったん……!」


 柴乃の震える声が、まだ耳の奥で響いている。廊下を駆ける足音が重なり、桜太の荒い息遣い、お新の静かだが速い足取り、辰五郎の沈んだ気配が、夜を切り裂いていく。


 彦太郎は角を曲がり、裏口へと向かう。


 そこには、月明かりに照らされた開け放たれた戸口があった。庭の闇に、人影が揺れている。


 ——三人、いや、四人。


 黒い着物を纏い、顔を布で覆った男たちが、静かに、だが確かな殺気を帯びて立っていた。


「何者や」


 辰五郎の声が、低く響く。問いかけではなかった。それは、刃を抜く前の、最後の告げ口上。


 男たちは答えない。ただ、月光を反射して鈍く光る刀が、鞘から抜かれる音だけが、夜の空気を裂いた。


 彦太郎の喉が、乾く。


(これが……本物の)


 旅の途中で見た喧嘩とも、龍馬の佇まいとも違う。ここにあるのは、生と死の境目だけだった。


「彦太郎!」


 辰五郎の声が飛ぶ。


「裏庭に稽古の竹刀がある。持ってこい!」


 身体が先に動いた。裏庭へ駆け、月明かりの中で竹刀を探す。手が震え、一度取り落としそうになる。握りしめた竹刀は、ひどく軽かった。だが、その軽さが、逆に現実味を帯びて手の中に食い込んでくる。


 戻ると、既に辰五郎と男の一人が間合いを詰めていた。刀と刀がぶつかり合う音。火花。辰五郎の足さばき。それはまるで、舞のようでありながら、命のやり取りだった。


 男の一人が呻き、後ろに倒れる。辰五郎の柄打ちが、脇腹に入っていた。だが、残りの男たちは屋敷の奥へと向かっていた。


「中に入られるな!」


 辰五郎の叫びが響く。彦太郎は竹刀を握りしめ、廊下へと走った。


 一人の男が、彦太郎の前に立ち塞がる。刀を抜いている。月明かりが、その刃を青白く染めている。


 彦太郎は竹刀を構えた——が、どう構えるべきかも、実はよく分かっていなかった。辰五郎に頼んだばかりで、まだ何も教わっていない。ただ、握る。それだけだった。


 男が、一歩踏み込んでくる。間合いが、縮まる。彦太郎の喉が引きつり、足が竦む。


 ——その時。


 横から誰かが飛び出してきた。桜太だった。手には木刀を握り、男の刀を受け止める。金属と木がぶつかり合う、鈍い音。


「彦っち、固まるな!」


 桜太の声に、彦太郎は我に返る。男が態勢を崩した——その一瞬を突いて、彦太郎は竹刀を振り下ろした。型も何もない。ただ、振り下ろしただけ。


 ——鈍い音。


 竹刀が、男の肩を打った。男が呻き声を上げ、よろめく。桜太が追撃し、男は地面に倒れ込んだ。


 彦太郎の手が、激しく震えている。竹刀を握る手のひらが、痛い。


(……人を、傷つけた)


 吐き気がこみ上げてくる。だが、立ち止まっている暇はなかった。廊下の奥から、女性の悲鳴が聞こえた。


 彦太郎と桜太は、顔を見合わせる。言葉はいらなかった。二人は、廊下を駆けた。


 座敷の前に、男が一人、刀を構えて立っていた。その男の前に、お新が立ち塞がっている。


「——ここから先は、通しまへんえ」


 お新の声は、震えていなかった。だが、その背後には、怯える梅と百の姿がある。男が、刀を振り上げる。


 ——その瞬間。


 横から、小さな影が飛び出した。阿久里(あくり)だった。


 阿久里の手には、針が握られていた。男が刀を振り下ろそうとした刹那、阿久里は男の手に針を突き刺す。男が叫び声を上げ、刀を取り落とす。その隙に、お新が男を突き飛ばした。男は後ろに倒れ、頭を打って動かなくなる。


 彦太郎は、息を呑んだ。阿久里の手が、震えている。針を握ったまま、その場に立ち尽くしている。顔は蒼白で、呼吸が浅い。だが、その目には、強い意志が宿っていた。


「……大丈夫ですか」


 彦太郎の声は、掠れていた。阿久里は、ゆっくりと彦太郎を見た。そして、小さく頷いた。


「……はい」


 それが、二人の初めての会話だった。短く、震えていたが、確かに届いた言葉。


 ——だが、まだ終わっていなかった。


 裏庭の方から、何かが倒れる音がする。彦太郎は再び廊下を駆け、裏口へと戻った。


 辰五郎が、倒れた男の上に馬乗りになり、刀を払い落としている。その動きには、一切の迷いがない。


「——辰さん!」


 彦太郎の声に、辰五郎が顔を上げる。月明かりの中、辰五郎の顔には血が飛び散っていたが、目は冷静だった。


「終わったか?」


「……座敷の方は、何とか」


 辰五郎は立ち上がり、周囲を見回す。倒れた男たちは、三人。もう一人は、庭の奥へと逃げていった。


「追わんでええ。……今夜は、ここまでや」


 辰五郎の声は、低く重い。彦太郎は、ようやく竹刀を地面に置いた。手が震えて、もう握っていられなかった。


 裏口から、お滝が姿を現す。その顔は蒼白だったが、声は落ち着いていた。


「辰五郎、男らを縛っておくれやす。桜太、すぐに医者を呼びに行き」


 お滝の指示が飛ぶ。桜太が頷き、駆け出していった。彦太郎は、ふらふらと座敷へと戻った。


 座敷の中では、梅が倒れたまま動かない。お新と百が、慌てて駆け寄っている。


「梅はん! しっかりしなはれ!」


 お新の声が、夜の闇に響く。梅の頭から、血が流れている。お新が布で押さえているが、血は止まらない。


「……う、ち……」


 梅が、小さく声を漏らす。


「喋ったらあかん! 今、手当てするさかい!」


 彦太郎は、膝をついた。何もできない自分が、ただ悔しかった。ふと、横を見ると、阿久里が壁に寄りかかっていた。さっきまで握っていた針は、もう手の中にない。代わりに、両手を強く握りしめている。


「……阿久里さん」


 彦太郎が声をかけると、阿久里はゆっくりと顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。彦太郎は、何も言えなかった。ただ、そっと阿久里の隣に座る。


 夜の八重菊は、血と恐怖に染まっていた。月明かりだけが、変わらずに庭を照らしている。夜明けまで、まだ長い時間があった。


 医者が呼ばれ、梅の手当てが始まった。


 幸い、傷は深くなかったが、頭を強く打っており、意識がはっきりしない。お新と百が付き添い、医者の指示に従って布を替え、薬を塗る。


 彦太郎は、帳場の隅に座り込んでいた。体中が痛み、手の震えが止まらない。竹刀を握った手の平は、皮が剥けて血が滲んでいた——だが、それよりも心の傷の方が深かった。


 あの感触が、まだ手に残っている。竹刀が肉を打った、あの鈍い音。それは、稽古で木を打つ音とは、まるで違っていた。


 吐き気がこみ上げ、彦太郎は顔を覆った。


「——無理もないわ」


 お滝の声が、静かに響く。顔を上げると、お滝が彦太郎の前に立っていた。


「初めて、人を傷つけたんやろ?」


 彦太郎は、頷くことしかできなかった。お滝は、彦太郎の隣に腰を下ろす。


「……辛いやろうな。けど、あんたは守ったんや。梅も、お新も、百も、阿久里も。みんな、守った」


 お滝の声は、優しかった。


「守るいうことは、傷つけることでもある。それを、背負わなあかん」


 彦太郎は、唇を噛んだ。


「……僕は、見ているだけで、何も守れなかった」


 お滝は、小さく笑った。


「せやな。けど、今夜、あんたは動いた。それが、大事なんや」


 お滝は立ち上がり、帳場の奥へと歩いていく。


「……包みは、無事どした。あれを狙っての襲撃や。辰五郎が守り抜いた」


 彦太郎は、包みのことを思い出す。あの包みには、一体何が入っているのか。それを知る者が、襲撃してきた。


「——柴乃のことも、分かった」


 お滝の声が、冷たく響く。


「あの子、脅されとったんや。家族を人質に取られて、裏口を開けるように言われとった」


 彦太郎は、息を呑む。


「でも……」


「もう、おらん。夜が明ける前に、逃げはった」


 お滝の声には、諦めと怒りが混ざっていた。


「……追いますか?」


「追わん。あの子も、被害者や。けど、もう八重菊には戻れへん」


 お滝は、深く息を吐いた。


「……これから、もっと荒れるやろうな。京は」


 その言葉が、重く彦太郎の胸に沈んだ。


 夜が、ゆっくりと明けていく。東の空が白み始め、鳥の声が聞こえ始める。


 彦太郎は、縁側に座っていた。体は疲れ切っているのに、眠ることができない。あの夜の出来事が、何度も頭の中で繰り返される。


 ふと、隣に誰かが座る気配がした。振り返ると、阿久里だった。


 阿久里は、何も言わずに、ただ隣に座る。二人の間に、沈黙が流れる。だが、それは、居心地の悪い沈黙ではなかった。むしろ、必要な沈黙だった。


 やがて、阿久里が小さく口を開いた。


「……怖かった」


 その声は、震えていた。彦太郎は、頷いた。


「……僕も、怖かったです」


 阿久里は、膝の上で手を握りしめている。


「……でも、守りたかった」


 彦太郎は、阿久里を見た。阿久里の横顔は、朝日に照らされて、どこか儚く見えた。


「……僕もです」


 彦太郎の声は、掠れていた。


「もっと、強くなりたい。誰も、傷つけさせたくない」


 阿久里は、小さく頷いた。


「……神谷さんは、強いです」


 その言葉に、彦太郎は驚いて阿久里を見る。


「強くなんか……」


「強いです」


 阿久里は、初めて彦太郎の目を見た。


「……動けなかったうちを、守ってくれました」


 彦太郎は、言葉を失った。阿久里の目には、まだ涙の跡が残っていた。だが、その目は、確かな感謝を湛えていた。


「……ありがとうございます」


 阿久里の声は、小さかった。だが、はっきりと聞こえた。彦太郎は、何と答えるべきか分からなかった。ただ、頷くことしかできなかった。


 朝日が、二人を照らす。八重菊は、傷ついていた。だが、まだ立っていた。そして、その中で、小さな絆が生まれ始めていた。


 ——血の夜は、終わった。


 だが、これは、始まりに過ぎなかった。

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