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第十話 海鳴りを聴く

 夜が明けきらぬ宇和島の港には、潮の香りとともに海鳴りが微かに響いていた。


 神谷彦太郎(かみやひこたろう)はまだ人の気配が薄い波止場を歩き、小さな突堤の先で足を止めた。昨日の夜、龍馬と共に密談を交わした品川屋を思い出しながら、冷たい風に額を晒す。


(また“次”が始まるんだ)


 背中に風呂敷を背負い、帯を締め直す。目の前に広がる海は昨日と同じはずなのに、どこか違って見える。


 足音が背後から聞こえた。

 振り返ると、龍馬が肩に小さな包みを下げて立っていた。


「よう起きちょったな。……顔つきが変わってきたのう」


「そんなこと、ありますか?」


「あるとも。目が、少し先を見ちょる。……そろそろ、人に会わせるにちょうどええ頃合いかもしれん」


 龍馬はそう言って歩き出す。

 港町の路地を抜け、南へ向かう街道沿いへ出ると、波の音は遠ざかり、代わりに鳥の声と薪を割る音が響いてきた。


「今日はな、少し山の方へ入る。宇和島に縁のある古い知己がひとりおるき、挨拶がてら顔を見にいく」


「また、志士の方ですか?」


「志と呼ぶにはまだ早い。けんど……あの人は昔から、“風の音”に敏い。時代の音が変わる前に、その気配を察するような男じゃ」


 彦太郎は龍馬の横顔を盗み見る。海の男とも、武士とも違う、その“不思議な知人”とはどんな人物なのだろう。


 坂道を登るうち、町の喧騒は完全に背後へと遠ざかった。

 道の脇には菜の花が咲き、早春の風が黄の香りを運んでくる。


 しばらくして、古びた石垣と藁葺き屋根の民家が現れた。


 龍馬は軽く咳払いし、戸口に向かって声をかけた。


「居らんかの。坂本じゃ。旅の途中で寄らせてもろたきに」


 しばらくして戸が開き、年配の男が姿を現した。痩せ型で背は低いが、眼差しは深く澄んでいる。


「……龍馬か。よう来た。そちらの若い衆は?」


「神谷彦太郎。今は拙者と道を共にしちょる」


「ほう。……よし、上がりなされ。茶でも淹れよう」


 風の音が、屋根をゆっくりと撫でていた。

 この静かな場所に、また新たな“出会い”の気配が流れ込み始めていた。


 囲炉裏の火は小さく、しかし確かに燃えていた。

 龍馬の旧知——名を岡村重太郎という男は、茶を淹れる手つきひとつにも、どこか迷いのない静けさを湛えていた。


「……坂本。今の世を、どう見ちょる」


 湯呑を前に据えた重太郎が、不意にそう口を開いた。


「変わり目や。風が、ひとところにとどまらん。誰もが動きながら、次にどこを目指すか分からん。けんど、それでも動かにゃならんのが今という時じゃ」


「その“動き”が、どこへ向かうがか……わしは、よう見えんのよ」


 重太郎の声には、決して悲観でも諦念でもない、ある種の静観が滲んでいた。


「それでええと思うちょる。誰もが旗を振る必要はない。けんど、“耳を澄ます者”が居らんと、船の舵は利かんき」


 彦太郎は二人のやり取りを黙って聞いていた。

 志や変革といった熱ではない、もっと深く静かな“生き方”としての覚悟のようなものが、この家にはあった。


「神谷どん」


 ふいに名を呼ばれ、彦太郎は背筋を伸ばした。


「おぬしは、坂本と旅をして……何を思うちょる?」


 問われて、言葉が出てこなかった。


 すでに何度も似たような問いを受けてきたはずなのに、場所と相手が違うだけで、胸の奥に引っかかるものが変わる。


「……自分が、何を見て、何に耳を傾けているのか……まだうまく答えられません。ただ、それを“問い続けてる”ことだけは、間違いないと思っています」


 重太郎は、ゆっくりと頷いた。


「それで十分じゃ。答えを急ぐと、人は誤る。いまの世の恐ろしさは、考える間も与えんところにある」


 その言葉に、龍馬も微かに口元を緩めた。


「重太郎、相変わらずやの。……けんど、そういう言葉こそ、今いちばん必要や」


 囲炉裏に薪がひとつ落ち、ぱちりと音を立てた。

 その音が、部屋の静けさをより深くした。


 彦太郎は、火の揺らぎの奥で、また一つ、自分の輪郭が整っていくのを感じていた。


 外はもう、昼の光が傾き始めていた。

 次の目的地を前に、時は、確かに進み始めていた。


 午後の光が傾くころ、龍馬と彦太郎は岡村重太郎の家を辞した。


 山の斜面を下りながら、ふたりはしばらく無言だった。言葉を交わさずとも、それぞれの胸に残ったものが、まだ言葉になりきっていなかったからだ。


 彦太郎は道の脇に揺れる竹の葉に目を向けながら、自分の中でじわじわと輪郭を帯びてきた感情に気づいていた。


 「問い続けること」。

 重太郎が語ったその姿勢は、今の自分にとって、まさに必要なものだった。


「……あの人、すごいですね」


 ようやく口を開いた彦太郎の声は、やや掠れていた。


「重太郎はな、剣も筆も立たん。けんど、耳と心だけで、人を導けるやつじゃ。そういう者が、ほんまもんの“要”になることもある」


「何もしてないようで、誰よりも“時代の音”に気づいてる気がしました」


「そう思えたなら、おまんも、ちいとは見えるようになっちゅう」


 町へ戻る途中、坂の途中で龍馬が立ち止まり、ふと手を後ろへ回した。

 懐から、包みに巻かれた古びた布片をひとつ取り出す。


「これ、重太郎から預かった。……中には、ちくと昔の記録が入っちょる。宇和島で動く者たちの手綱にもなりうる内容や。けんど、扱い方ひとつで刃にもなる」


 彦太郎は思わず目を見開いた。


「……ぼくが、持つんですか?」


「“持て”とは言わん。“預かれ”。今のおまんなら、それがどんな重さか、少しは分かるじゃろ」


 差し出された布包みを、彦太郎は両手で受け取った。

 ずしりとした重み。

 それは、紙の束以上の何か——“誰かの覚悟”そのものだった。


 再び港が見えてきたとき、風が変わった。

 どこか、先ほどよりも温んでいる。


 町は徐々に夕暮れへと向かい、人々の動きにも落ち着きが見え始めていた。


「今夜は、港の宿に戻って仕度を整えよう。……明日には、ひとつ次の手を打たにゃならん」


「次の手……」


「薩摩か、長崎か。声を届けるには、もう土佐だけじゃ足りん。うねりを繋ぐ者らを探す旅が、いよいよ始まるき」


 龍馬の背中が、港の光を浴びて長く伸びていた。


 その後ろを、彦太郎も静かに歩き出す。

 

 風の音が、どこか遠くで船の帆を鳴らす。

 新しい“航路”が、静かに、しかし確かに、彼らの前に開かれようとしていた。

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