第一話 祖父の家と、古書の秘密
春休みの始まり。東京の喧騒から離れ、神谷彦太郎は高知県にある祖父母の家へやってきていた。
のどかな田舎の空気、軒下で鳴く雀、畑に立つかかし――まるで教科書の挿絵から抜け出したような風景が広がる。だが、彦太郎にとってここは「静かすぎて落ち着かない場所」だった。
(……ネットもろくに繋がらないし、やること無さすぎだろ)
彼は高校一年生。部活には所属せず、放課後は図書館や自室でひたすら歴史書を読み漁っている。特に幕末への関心は強く、人物の生没年から事件の時系列まで、そらで言えるほどだった。
そんな彦太郎にとって、春休みの帰省はちょっとした「強制イベント」にすぎなかった。
昼過ぎ。祖父が畑仕事に出た隙に、彦太郎は納屋の中を探索していた。
埃をかぶった農具や古びた木箱をかき分けながら、何か面白いものがないかと、淡い期待を胸に。
(あれ……なんだこれ? 本……か?)
棚の奥で、革表紙の分厚い一冊が目に留まった。手に取ると、皮の質感が妙に手に馴染み、不思議な存在感を放っていた。表紙には何の題字もなく、まるで誰かがその存在を意図的に隠していたかのようだ。
恐る恐るページを開く。だが、どのページも――白紙だった。
「なんだよこれ、全部白紙かよ。見た目だけってオチか……」
呟いたその瞬間、突風が納屋の隙間から吹き込んだ。ページが一枚、また一枚と勝手にめくれていく。止まらない風。止まらないページ。
――そして、最後の一枚がめくられた、その瞬間。
目の前の世界が、ぐにゃりと歪んだ。
視界が白く……いや、黒く? それとも何色とも言えない“混沌”に包まれ、身体が重力を失ったかのように浮遊する。
(な、なにこれ――!?)
耳が詰まり、音も色も、時間すらも消えていく。
まるで夢の奥へ沈み込むような感覚。落ちているのか、昇っているのかさえ、わからなかった。
――そして、気づいた時には、彦太郎は地面に倒れていた。
見上げると、木々の間から陽光が差し込んでいる。
足元には苔むした鳥居。見覚えのない神社の境内だった。
「……ここ、どこだよ……」
耳に届くのは、鈴虫のような鳥の声と、遠くを流れる川のせせらぎ。
文明の音が一切存在しない、静謐な世界。
彦太郎はゆっくりと立ち上がり、背後の石碑に刻まれた文字を見た。
「和霊神社」
その石柱の裏には、こう記されていた。
「文久二年 三月二十四日」
(文久二年……? って、マジかよ)
頭の中で、蓄積された年号の知識が一気に弾ける。
――そうだ。文久二年三月二十四日といえば、坂本龍馬が脱藩した、その日だ。
(……うそだろ。本当に……)
神谷彦太郎は、歴史という名の物語に、足を踏み入れたのだった。