36 逃走と煙玉
「おい、待て!」
赤鬼が眼を押さえたまま、こちらへ手を伸ばす。それを間一髪躱してアルバスとハクアは壇上から飛び降りた。
爆光苔の光は収まっている。客や黒服達の視界が回復するのも時間の問題だ。
一気に走る。会館の外へとアルバスとハクアは跳び出す。まだ漂っていた鉄カビの煙を抜け出し、息も忘れる程に走った。
「魔隷角が逃げたぞ!」
「何処だ!?」
「逃がすなぁ!」
背後から声が上がる。黒服達はまだ混乱していて、視界が回復していない。
急げ、急げ、急げ。今の内に少しでも距離を稼ぐのだ。
「急いでハクア! 早く速く逃げるんだ!」
ハクアは未だ呆けたままだ。アルバスの力ではハクアを抱えて逃げられない。手を引きながらアルバスは叫ぶ。
「ッ!」
「え、うわっ!」
ハクアがびくりと震え、すぐにアルバスを片手で持ち上げ、その足を一気に加速させた。
鬼の膂力は凄まじい。激しく揺れる視界はアルバスでは出せない速度で動き、見る見ると黒服達と距離を離していく。
その視界の中でハクアの声がした。
「何で来たの!? わたしなんて放っておいてくれれば良かったのに!」
泣き出しそうな叫び声。それにアルバスもまた叫びながら返した。
「とにかく外へ! 森の中に逃げるんだ!」
引き返せる状況ではない。ハクアが真っ直ぐに狂鳴の森へ向かう。
アルバスは矢を放ち、ハクアは手を取ってしまった。ならば、もう逃げるしか二人に道は無い。
「もう、本当にもう! 何で、何で来ちゃうの!? あなたが生きてくれればそれで良いのに! わたしなんてどうでも良いのに!」
悲痛な声をハクアは上げる。ここまで感情を荒げる彼女の姿を見たのは初めてだ。
アルバスは謝罪をしない。何を言ったとしてやる事が変わらない。今考えるべきはどうやって二人で逃げるのかのただ一つだ。
ハクアに抱えられたまま、前と後ろを見る。追手が来るはずで、それは直ぐに現れた。
「居たぞ!」
「捕まえろ! 逃がしたら終わりだ!」
前方、黒服の魔法使いと鬼達がこちらを指す。屈強な体をした鬼達がこちらへと突進してくる。 鍛え上げた戦士の体。敵の動きはハクアよりも重く、速い。
「ッ!」
「止まるな!」
恐怖で足が止まりそうになるハクアを叱咤し、懐のポケットからアルバスは鉄カビの煙球を投げ付けた。
ボフン! 地面に当たったそれは爆発し、一帯を赤黒い鉄カビで包み込む。
追手の視界を奪う。だが、敵の魔法使いが杖を掲げ、探索魔法を使用した。
「サーチ!」
魔力の波。アルバス一人ならば問題ない。けれど、ハクアの角の魔力は簡単に捕捉されてしまう。
「あっちだ! 場所は俺が指示する! 行け!」
鉄カビの向こうで魔法使いの指示がされ、鬼達の力強い足音が鳴った。
早く次の手を打たなければ!
向かってくる黒服達。捕まったら終わりだ!
「こっち向くなよハクア!」
揺れる視界の中でアルバスは爆光苔を染み込ませた布を巻いた矢を地面に投げ付けた。
ピカアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
「ぐわぁ!」
爆光苔が再び激しく発光し、煙の中から飛び出たばかりの鬼達の眼を焼いた。
「走ってハクア!」
「ッ!」
今の内だ。敵が混乱している今の内に森へと逃げなければ。
ローブのポケットからありたっけの道具を取り出す。どれもこれも逃走用。種が割れてしまえば効果が消える。
「はぁ! はぁ! はぁ!」
ハクアの足は速かった。視界は強烈な速度で動き、目まぐるしく変わっていく。
「くらえ!」
ボフン! アルバスはまた一つ鉄カビの煙球を投げつけた。
ハクアが逃げ、アルバスが妨害する。それが数度続いた。アルバスもハクアも、顔を歪めて息を切らしながら必死に足と腕を動かす。
追い付かれてしまったら終わりだ。
ハクアは今度こそ囚われて、二度と陽の当たる場所には帰れなくなってしまう。
煙球を投げ、矢を放ちながらアルバスはハクアへと問い掛ける。
最も危険な男の姿が見えなかった。
「ハクア、ヴェルトルは何処!?」
「分からないよ! もう何にも分からないの!」
ハクアの声は混乱の境地だ。泣きそうな声でただ出口を目指して走る事しかできていない。
分からない。今、ヴェルトルが近くに居るのかどうか。
今はどうにか逃げられているが、あの大魔法使いにアルバスの小細工が通用すると思えなかった。
けど、あの大魔法使いが居ないのなら好都合だ。あれが現れる前に逃げ切らなければ。
「止まれ!」
アルバス達の進路の先、大屋敷の影から黒服達が現れた。
魔法使いは杖をこちらに向け、間髪入れずに捕縛魔法を放った。
「バインド!」
典型的な捕縛魔法。触れた物を光輪で縛る単純明快な汎用魔法。
瞼に貼り付く程に魔術書は読んできた。汎用魔術の仕組みならばアルバスは熟知している。物理的な干渉でこの光輪は無効化できる。
「知識だけはあるんだよこっちには!」
吐き捨てる様にアルバスが鉄カビの煙球を投げ付ける。
地面に落ち、周囲に散乱する鉄カビ。
それに光輪が接触し、瞬間、鉄カビを捕縛する。対象を間違えた光輪は鉄カビごと地面に落ち、アルバス達には届かない。
「なんだそりゃ!?」
煙の向こうで魔法使い達が困惑する。捕縛魔法へのこんな対処法を彼らは知らないのだ。
アルバスは三角帽子を被っていたから、黒服達はアルバスが魔法使いだと思っている。ならば、捕縛魔法への対処は単純な魔力壁で事足りる。
魔法使いがわざわざこんな小細工で捕縛魔法を止めようとする発想が黒服達には無いのだ。
アルバスの想定外の対処に敵の動きが一瞬固まった。
「っ!」
ハクアがアルバスの腰を強く抱き、一際強く加速して鉄カビの煙の中へ突っ込んだ。
「魔隷角だ! 捕まえろ!」
煙の中から現れたハクアとアルバスに黒服達が眼を剥き、鬼が手を伸ばす。
「跳ぶよ!」
それをハクアは全力の跳躍で跳び越えた。
アルバスの視界が回る。その中で爆光苔の矢を黒服達の足元へと投げ付けた。
ピカアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
黒服達の眼が光で潰れ、その呻きを聞きながら、アルバス達は大屋敷を超えた。




