26 諦観と絶望
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ハクアは檻の中に居た。鳥籠を模した様な大きな檻だ。
幕の奥の薄暗い一角がハクアの連れてこられた場所だ。
時刻は昼。先ほど最低限の食事だけを与えられた。
角落市の会場で、ハクアと同じ商品の控え室に当たる場所だった。
いよいよ角落市が始まる。鬼の耳が捉える話し声や足音の数が多く成っている。ハクア達を買いたい客達が集まって来ているのだ。
ガシャン。鳥籠は硬かった。硬質魔法が掛けられているらしい。ハクアの力では壊せそうに無い。
仮に壊せたとしても周りには数人の黒服が立っていて、逃げ切るのは難しそうだ。
無理か、とハクアは目を伏せる。
そもそも、あの夜に逃げ出せたのが奇跡だったのだ。
暗い森の中、ハクアは今の様に檻に入れられていた。黒服達が周囲を囲み、ガサガサと音を立てながら狂鳴の森の中を運ばれていた。
檻には浮遊魔法が掛けられていて、右に左に揺れて不快だったのを覚えている。
きっと、魔力遮断が甘かったのだ。
突然だった。魔隷角の魔力に惹かれた十数体の魔物の群れが、突如として黒服ごとハクアを襲ったのだ。
闇夜の襲撃。黒服達は対応が遅れ、ハクアごと地面に倒された。
黒服達の応戦は早かった。直ぐに立ち上がり、武器と杖を取り出し、魔物へ魔弾を放つ。
魔物達の鳴き声と黒服達の怒号の中で、地面に落ちたハクアは気付いた。檻の鍵が手の届く位置まで落ちていた事に。
逃げられる。ならば、逃げなければ。
鍵を開け、全速力でハクアは逃げ出した。
そのまま森を走り続け、崖に落ち、死ぬ寸前でアルバスと出会ったのだ。
奇跡的な偶然が重なったから逃げられた。もうあのような奇跡は望めない。
奇跡は起こらないから奇跡なのだ。
「……」
格子を握り、そして離す。ハクアはその動作を何度か繰り返し、結局何もしなかった。
意味が無いかもしれないとしても、格子を壊そうとする事はできた。もしくは、逃走の算段を立てる事もできた。
そのどれも思いついてはいたのに、体は動こうとしなかった。
ハクアは自分の角を触る。魔隷角。母と父を殺した忌まわしい角。結局、この角はただ自分を不幸にするだけなのだ。
もう何度、この角を折ってしまおうか考えたか分からない。
けれど、在りし日の父はこの角の事を綺麗だと言ってくれて、大切にしなさいとも言った。
祝福の言葉が呪いと成ってハクアを苛む。
いっそ、父に折ってもらいたかった。父でさえこの角にはまともに触れない。触れた途端に魔力で体が壊れてしまうからだ。
結局、自分で折る事もできなくて、ここまで生きてしまった。
何も選べなくて、この角に振り回される。それがハクアの人生だった。
だから、疲れてしまった。疲れ果ててしまったのだ。
一体誰がこの角を折るのか。絶望的な未来が広がっているというのに感情が動かない。
見てみれば、様々な商品があった。
身の丈を超える魔石。頭が三つの魔狼。火と水の精霊。首輪が付けられた魔法使いと鬼の子供達。
生きている者はどれもハクアと同じ様に絶望の眼をしている。きっと遠からず、あれと同じ首輪がハクアの首にも付けられるのだろう。
それは尊厳の放棄で、父がどうにかして避けようとしたハクアの未来だ。
でも、もうどうでも良い。何も考えたくなかった。緩慢な絶望を望む心がハクアから生きる意志を奪っていく。
「おいおいおいおい! どんな調子だ!? 気合入れろよお前ら!」
会場に聞こえる声が更に大きくなった頃、一際大きな足音と声を響かせて、巻き角の赤鬼、アカガネが現れた。
仕立ての良い黒服に身を包んだアカガネは一通り商品へ目を向けて、最後にこちらを見た。
その顔はこれからの希望を期待する色で満たされていて、口の端から笑みが抑え切れていない。ハクアが何度も見てきた自分を鬼ではなく角として見るそんな眼だった。
「魔隷角! 良い格好じゃねえか!」
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
アカガネが檻の周りをグルリと回り、ハクアを見る。視線は無遠慮だ。脚、尻、腰、胸、首、眼、そして角。許可も取らず、値踏みされる。
不快だったが、抵抗するのもこの鬼を喜ばせるだけだ。ハクアはほとんど動かずに緩慢な視線をアカガネに向ける。
ヒヒッ。泥と闇を煮詰めた様な声がアカガネの後ろから響いた。
「良いでしょうボス? その服俺が選んだんだぜぇ?」
ヴェルトルだった。左右で崩れた顔を持つこの魔法使いが今日は三角帽子を被っていた。
アルバスの言葉をハクアは思い出す。三角帽子は魔法使いにとっての正装であり、気合を入れる日には必ず被る物だと。
「おおヴェルトル。やっぱりお前に任せて正解だったぜ。良い恰好じゃねえか。これなら魔隷角が無くても高く売れそうだぜ。ああ、そうだ、化粧もさせておこう。少しでも値を釣り上げなけりゃ成らんからな」
「良いねぇボス。角だけじゃなくて面も良いしなぁ。これなら角折りの後でも金を稼げそうだぁ。王都の娼館にはもう話を付けてあるぜぇ」
「素晴らしい。相変わらず手が早いな。流石は俺の相棒だ!」
ゲラゲラゲラゲラ。ゲラゲラゲラゲラ。ゲラゲラゲラゲラ。
逃げたい。逃げられない。疲れてしまった。
ハクアは言葉も挟まず、ただ、二人の姿を見上げるだけだ。
「おっと、すまんなヴェルトル。俺はそろそろ戻る。VIPを待たせてるからな。ここにはただ魔隷角の確認に来ただけだ」
「オーケー、ボス。後は俺に任せてくれよぉ。完璧で楽しい角落市にしてみせるぜぇ」
「任せた。頼むぜヴェルトル、この角落市を成功させれば、俺達も晴れて大幹部だ!」
やる気と勢いに満ち溢れた足音をたてて、アカガネが一角から出て行く。
その足音が聞こえなくなった後、ジロリとヴェルトルがハクアを見た。




