13 痛みと温もり
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「雨花を採りに行ってくるね」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
雨が続くある朝、角帽子を被ったアルバスが数日ぶりの採取に出かけて行った。
「どうしよう?」
アルバスが居なくなった部屋に呟きが響いた。一人だったから誰かからの返事は無い。ハクアはそれを寂しいと感じてしまっていた。
ベッドから立ち、少しだけ強く手を動かす。体の何処にも痛みは無い。
「治っちゃった」
信じられなかった。ついに怪我が治ってしまったのだ。アルバスは結局最後までハクアへ手を出さなかった。ただ穏やかに繰り返しの様な日々を共に過ごす。ただそれだけだった。
「なんで、アルバス?」
ハクアは信じられない。そんな事が起きる筈が無いとずっと思っていた。アルバスと過ごした日々の中でもそれは変わらない。
この穏やかな日々は甘い毒の様にハクアの警戒を溶かしていく。この人は信じて良い人なのだと胸の奥が高鳴り、何も信用するなと頭の奥が警鐘を鳴らす。
高鳴りは強くなり、警鐘は弱くなるばかりだ。
「助けて、くれたの?」
ハクアは自分でも制御できない程に感情が高ぶっていた。
「……事情を、話す?」
それをアルバスは待ってくれている。森にはあの黒服達が来ていると言っていた。彼もハクアに何が起きているのかを知りたい様だ。
だが、追われている理由を話すという事は、アルバスを致命的にハクアの問題に巻き込んでしまう事を意味した。
仮に話したとしてアルバスがハクアを恐れるならば良い。だが、もしもそれでも助けると言ってくれた時、彼へどんな災厄に晒されるのか想像できない。
「だめ」
アルバスに危害が加えられる事にハクアは耐えられない。
今のハクアでさえ簡単に壊せてしまう程にマギアの体は脆い。アルバスは杖無しだ。逃げる事さえままならない。
そもそも、今ハクアを匿っている事それ自体がアルバスを危険に晒しているのだ。
ハクアは自分の角を撫で、部屋の中を見た。
ベッド、アルバスの机、竈、いくつもの本。見慣れてきた家の物。それぞれにアルバスと話した記憶がある。それは思い出と呼べる物だった。
シトシト、と屋根を打つ雨粒の音に導かれ、ハクアは壁の穴から外を見た。
「ここから、去らなきゃ」
もう動けるのだ。いつでもハクアは外に出られて、アルバスの言う森の外の町へも歩いて行ける。
ハクアは外に続く扉まで歩く。ここから出て行くのだ。そうしなければならないのだ。
ついたてを外し、扉を開く。森は灰色に沈んでいた。枝を伝って木の葉に溜まる雨の雫が絶え間なく落ちている。
遠くから僅かに魔物達の鳴き声がし、雨音に呑まれ小さく反響していた。
雨が降っているけれど、まだ明るい。ハクアは走りには自信がある。アルバスから森の大きさは聞いていた。全力で駆ければ今日中に森の外へ出られる筈だ。
ただ、この扉から出て走って行けば良い。書き置きを残し、アルバスに別れを告げ、やるべき事をやるのだ。
「……」
扉の前、あと一歩踏み出せば外に出られるところでハクアの足は止まってしまう。
この小さな部屋の温もりが、ハクアを掴んでいた。
今、ハクアを包んでいる薬草と同じ香りに満たされた小さな部屋。食卓の上には木の皿が二つ置かれている。
おやすみ、おはよう、いってらっしゃい、おかえり。言ったのはいつ以来だっただろう。
「行かなきゃ……」
口に出しても、その足は動かない。
ここに居れば、アルバスが危険になる。黒服達は自分を探している。諦める筈が無い。何をしてでも自分を捕まえに来るだろう。
外の雨が少し強くなった。
ハクアは角を撫でた。今まで、一度も感情が休まる事は無かった。ただの一回でさえ安心して眠れた夜は無かった。
けれど、この部屋の温もりが恐怖と痛みを忘れさせる。
ずっとここに居たいと思ってしまう。
ハクアは扉の場所から部屋を見た。机の上には古びた魔術書がいくつも置いてある。
どの魔術書も頁の端が擦り切れてしまっている。そこにアルバスの姿を見てしまい、またハクアの足が動かなくなった。
ふと、竈の方をハクアは見る。誰かの為に食事を作ったのは初めてで、誰かと笑いながら食卓を囲んだのも初めてだ。
「……だめ」
ハクアは小さく首を振った。決意しなければ。このままここに居たら、アルバスを巻き込んでしまうのだから。
外の雨がまた少し強くなった。いつの間にか日は傾き始めている。
「……」
扉を閉じ、ハクアはベッドの端に腰を下ろし、うずくまった。
去らなければと思うのに、心が言うことを聞かない。
この部屋は檻だった。温かい鎖でできている。痛みはなく、だからこそ、逃げられない。
ハクアは両腕で膝を抱えた。冷えた指先が、わずかに震える。
ここに居たいと思ってしまう。アルバスとまた話したいと願ってしまう。
雨音が屋根を叩き続けている。子守歌の様にハクアを包む。
かつては雨が降るたび、冷たさと恐怖しか感じなかったのに。
「出て行くのよ」
言葉とは違う声が心の奥底で叫ぶ。
もう少しここに居ても良いのではないか。ほとんど治ったとは言え完治したわけではない。怪我が完全に治るまでもう少し居ても良いのではないか。そうしていてもアルバスは許してくれるのではないか。
全て言い訳だ。
「……」
小さく呟いて、ハクアは額を膝に押しつけた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
ただ、雨音だけが耳に届く。
「やめて……」
誰に言うでもなく、掠れた声が漏れた。行かなきゃいけないのに、動けない。
心のどこかで、アルバスの帰りを待っている自分が居た。それを認めるのが怖くて、苦しくて、ハクアにはどうしようもなかった。
雨が時間を溶かしていく音に紛れ、小さく嗚咽が洩れる。
やがて、外から小さな気配がした。耳が覚えた足音だった。
ハクアは顔を上げ、息を整えた。
こんな姿をアルバスに見せたくない。見せてはいけないのだ。
立ち上がり、扉まで歩き、ハクアはついたてを外す。
その向こうから聞こえてくる気配に、胸の奥が痛む。けれど、それ以上に温かくなってしまう。
去らなければ、早くここから去らなければ。
分かっている。分かっているのだ。それでもこの温もりの檻がハクアを閉じ込める。
そして扉が開かれる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
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