リセット
気がつくと女はベッドの傍らに立っていて、ベッドの上にも女自身の身体があり、目を閉じて横たわっているのだった。その顔は土気色で――、ああ、私は死んだのだと女は思った。死んで、霊魂が分離したのか。
――いや、まだ死んではいない。
声がした。女は周囲を見回したけれど、誰もいない。
「あなたは誰?」
――外に出ろ。
命じられ、女は戸惑いながらも部屋のドアを開けようとノブに手を伸ばし――、そのまま通り抜けてしまった。
やはり死んでいるのでは?
廊下を進んで表に出ると、見慣れた近所の街並みの真ん中に、真っ黒い闇が口を開けている。
やっぱり、と女は考えた。これは死後の世界の入口だ。
――違う。そうではない。
声が女の考えを正す。
ふいに、その闇の中に景色が浮かんだ。
どこだろう。かなり大きいが、殺風景な、倉庫のような建物。女自身がそこに入り込んだかのように景色が展開する。建物の中は暗くてよく見えない。それでも目を凝らしていると、次第に目が慣れ、目の前のモノが明らかになっていく。
「――!」
女は恐怖で叫び声をあげた。
死体の山だった。粗末な囚人服のようなものを着た人々。大人だけではない。幼児まで混じっている。
景色は暗転し闇に帰る。
女は闇のトンネル、その入り口にいる。
「あああ……」
女は恐怖で声が出ない。
そうするうち、再び闇に景色が浮かぶ。今度もまた、さっきと似たような建物だ。
「いや」
女は拒絶するが、顔をそむけても目を閉じても意味がない。女の意識は強制的に闇に浮かぶ景色の中に連れ込まれ、建物に入らされ、そこでまた目の当たりにする。死体、死体、死体――。
地獄めぐりは何カ所も何カ所も、気が遠くなるほど続けられ――、ついに終わる時が来た。あまりのことに脱力し、でも肉体を離れた女は頽れることも出来ないのだった。
――今まで見た殺戮は全て、おまえの息子が、おまえの家の四男がこれから行うものだ。
声が言い、女は反射的に顔を上げた。
「私に優しくて、つきっきりで看病してくれているあの子が、こんな恐ろしいことをするなんて、ありえない」
――だが、するのだ。
「嘘。私は信じない」
――ならば見るがよい。
再び闇に景色が浮かんだ。
そこには、少しだけ大人びた四男の姿があった。四男は陸軍の軍服姿となり、そしてそこから目まぐるしく展開していく戦争の風景。
やがて四男は……。
全てを見終わり、また闇に戻ったトンネルの前で、女は精魂尽き果てたように尋ねた。
「あなたは誰?」
声は女の問いには答えずに、言った。
――おまえの四男の存在は許容できない。だから、あの四男を置き換える。
「どういうこと?」
――おまえはこれから、あのトンネルの中を通り抜ける。するとおまえは、四男を身籠る前の時間に戻る。
未来を見せ、そして過去に戻れるトンネル。
ありえないトンネル。
――そうすれば、あの四男は生まれない。数多の惨劇を防げるかもしれない。人一人が歴史を作るのではなく、歴史が人一人を生み出してはいるのだろう。それでも、やってみるしかない。
「あの子が生まれない? でも、私はまた子を作るわ」
「構わない。身籠る前に戻れば、二度とあの四男は生まれない。似た子は出来るかもしれないが、確率的に違う精子になる。あの四男ではない」
女は思い詰めたような表情で沈黙し、――やがて決然と言った。
「嫌です、戻りません」
――おまえの息子はあれほどの悪を為すのにか?
「それでも、あれは私の息子なのです。息子を置き換えるなんて絶対嫌です。もし私を無理やりトンネルに押し込めようとするなら、最後まで抵抗してやる」
――私に、おまえを押し込むことは出来ない。私は全能ではないのだ。
「あなたは神ではないのですか?」
声は応えなかった。
「でしたら」
女は提案した。
「私が子供たちを産み終わった直後に戻してください。私はあの子も、その下の子も、誰も置き換えられたくない。あの子のことは、ちゃんとした人間に育てますから」
――これまでも、そう思って育てたのではないのか?
「今度は覚悟が違います。どうか私にもう一度チャンスを下さい」
女は深く頭を垂れた。
やがて声は、諦めたように女に告げた。
――分かった。それでダメなら、もっと遡って置き換える。
「ああ神よ」
女、クララ・ヒトラーは跪いた。
「必ずあの子を、アドルフを、きちんとした大人に育てます」
女がトンネルの中へ入ると闇は色づき始めた。入口が急速に膨張していき、街も大地も空も飲み込んでいく。声の気配をも吸収し、ついにはトンネルは裏返る。裏返って、世界全てがトンネルになる。消滅を運命づけられているこの世界自体が、リセットに入る。
殺戮と恐怖の連鎖をどこまで遡及し介入すれば、世界の消滅を阻めるのか。自滅は種としての運命なのか。
声は旅を続ける。絶望の彼方、存続しうる世界線を求めて。