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張り子面の海  作者: 壺天
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小さな水鉢の中で閉じこもっていたかった。①

 パクパクと開閉する口から、浮かび上がる気泡。

 少し藻の生えた水槽に、尾ひれをゆらして金魚たちが泳ぐ。

 ()()は確かに息をしているのだなぁと、確認できる空気の泡。


 いいなぁ。


 ため息をついて、理歩りほは耳を澄ませた。


 古びてきしむ廊下の先で、声がする。

 小さいのは祖母の声だ。

 その合間で、時折ぴしゃりと声を大きくするのは、理歩の母。

 理歩は、近くに置いてあった座布団にくるまって耳をふさいだ。

 空気が震えている。

 それはもう、嫌な具合に。


「とにかく、母さんはあの子の面倒を見ててくれればいいから!」


「でも、奈江子なえこ、あんまりあの子を放っておいては可哀想よ。たまの休みくらい一緒にいてやれば」


「そんな時間無いこと、母さんだって分かってるでしょう?! 私だって忙しいの。私が稼がなきゃ、うちはやってけないんだから」


 じゃあね。


 捨て去るように言って、玄関の戸がガラガラ、ピシャッと閉まったのだけがひどく耳に残った。

 あれは駄目だ。

 お母さんは今、何を言っても無駄なパターン。

 それを理歩は正確に察知していた。



 パターン黄色。 反論するべからず。



 被っていた座布団を振り払って、座卓の方へにじり寄った。

 祖母は、どんな顔をしているだろう。

 それだけが気がかりで、何でもないふうを装って、近づいてくる足音を待った。


「理歩?」


 ふすま戸の向こうから、祖母がひょっこりと顔を出す。

 その表情がちょっとくもり気味で、理歩はなるほどと察知して笑った。


「お母さん行っちゃった?」


「え? ええ。あの子ったら仕事仕事で、すっかり余裕が無いものだから……もう少し理歩のことも気にかけてやればいいのにねぇ」


 孫が気楽そうなのに安心したのか、祖母は母のグチを言う。


「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。お母さん、忙しいの分かってるし。おばあちゃん家、好きだし」


 あっけらかんと言うと、祖母もほっとした顔をしてくれる。



 そうそう、それでいい。 それがいい。



 内心安心しながら、理歩は祖母に朝食をねだった。

 今日は朝早くから家を出てきて、食事もまだなのだ。

 孫のためにやることができた祖母は、嬉しそうに台所へ入っていく。

 器がこすれ合ってたてる音を聞きながら、理歩はもう一度、縁側の水槽へ近づいた。

 相変わらずゆったりと泳ぐ金魚は、なんの苦も無く息をしている。

 私が顔をつけても、苦しいだけなのに。

 ずるいなぁ。

 ぼんやりと思って、真上から上がってくる泡がはじけるのを見つめた。


「……いいね、息が楽にできるところにいられて。私も仲間に入れてよ」


 そんなのできっこないけど。

 声に出すと、ぷぅんと生臭さが口に広がって、理歩は顔を引いた。

 板張りの縁側へあお向けになる。

 息を入れ替えるように深呼吸した。 祖母の家の匂いがする。

 ああ、息がしやすい。

 家と、学校と比べると、なんて落ち着くのだろう。

 目を閉じて、耳を澄ませた。

 すぐ近くに、祖母の気配。 でも、圧迫感はない。

 空気はゆったりと流れている。

 理歩はだらしなく寝転がって思った。

 ここは、ここだけが、私にとっての水槽だ。


「私も、今は息がしやすいよ」


 足元の金魚へ語りかけるように、理歩はつぶやく。

 ここからどこへも行きたくないなぁ。

 そんな願いを一瞬思い浮かべて、次にはあきらめたように目を閉じた。

 そんな事、自分にはできない。今日と明日、休みが終われば家に戻る。

 休み明けには学校へ行く。水槽を出て、なじまない場所へ戻る。

 週末だけが、息吐ける場所にいられる時間。


「やっぱり、うらやましいなぁ……」


 うらめしげに、でも誰にも聞こえないように小さく言い残して、理歩は祖母を手伝いに台所へ向かうのだった。









 母の奈江子は看護師だ。 仕事がら、家を空けている時間も多い。

 父はいない。 理歩が小学五年の時に出て行ってしまった。



 あの頃はひどかったと、今さら思い出しても思う。

 両親が家にいる間中、屋内の空気は二人の気配でパンパンに膨れ上がったみたいになって、ひどく息が詰まった。

 かと思えば嵐の前の静けさのようにぴんと張りつめた気配の時もあって、そんな時理歩は、爆発が来るのをやり過ごそうと部屋に閉じこもっていた。

 勉強するふりをして、自分が起爆のスイッチを押さないように、細心の注意を払ったのだ。

 両親の仲が悪くなりだしたのは、小学四年の頃。

 二人の仕事が多くなり、すれ違うことが多くなったのが原因だ――――と、今思い返せば判断できる。

 当時はだんだん笑顔が少なくなっていく両親を目の当たりにして、訳も分からずオロオロとしていた、と思う。

 まだ間を取り持つなんて上手いことができない年だった。

 でも、子供心に何とかこの気持ちの悪い空間を良くしたくて、両親を笑わせるようにしたくて、色々と工夫した。

 できるだけ笑うようにしたり、家のことを手伝ったり。

 二人がきっと喜ぶだろうということを、できるだけたくさん。

 けれど、結局全部無意味だった。

 二人は前以上に笑わなくなって、駄目になって、別れることになってしまった。

 理歩は母に引き取られ、父とは時たま会うだけになった。

 それからの理歩の家は、あの時の嫌な空気を引きずったまま。

 理歩にとっては変わることない、居心地の悪い空間になってしまった。



 原因は分かっている。



 でも、それは理歩には解決できないものだということを、理歩は知っていた。

 だから今も、息苦しいのを耐える生活を続けている。

 三年たった、中学二年の夏である、今も。

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