星降る夜を見上げて
その晩は、雲一つなかった。
涙が出るような夜空が広がっていた。
私は。
星空が綺羅綺羅と輝く夜に。
泣きたくなるほど美しい、星降る夜に。
海へと沈んだ。
私が住む村は、小さな島々が集う群島の中の一つ、群島の中でもひときわ小さな島にあった。
日々の生活は穏やかだ。
男たちは二人乗りの小舟に乗り、漁に出て魚を得る。
男たちの帰りを待つ女たちは、草葉を編む籠作りや、草を捻じった紐を編んで服を作る。
子供たちは浜辺で食用の貝拾いや、森の果物集め、あるいは大人たちの手伝いをする。
群島の1年は基本的には穏やかだ。
頬を撫でるほどやさしい凪と、家を軋ませる激しい嵐が交互にやってくる。
嵐が来れば皆、家に籠って平穏無事を祈る。
嵐が過ぎ去れば、生き残った家族と共に喜びを分かち合う。
不幸にも亡くなった村人が居たなら、弔いを行う。
亡くなった人と弔いの品を共に穴を空けた小舟に乗せて、弔いの言葉を唱え海へと還す。
村人は生きている奇跡を喜びながら、明日も明後日も生きていける様に、先人の知恵を活かして生きてきた。
私も母から教わった通り、丈夫な草を丁寧に捻じり紐を作り、色鮮やかになるよう染め紐を組み合わせて服を編んでいく。
受け持った仕事分を一通り編み終わると、私は編み掛けの衣服を籠から取り出す。
この服は他の服よりも色鮮やかで、見栄えのする模様を編みこんでいる。
私は傷つけないよう丁寧に、未完成なその服を広げる。
婚礼の衣。
この村の娘は、自分が着る婚礼の衣を、自分で編み上げる。
母が、私には花の赤が似合うと言ってくれていた。
日の光を浴びた綺麗な赤花だけを摘み、丁寧に汁を搾り、紐に色を付ける。
母も好きだった赤花をあしらった婚礼の衣は、もう少しで出来上がる。
「彼も。この服を着た私を、気に入ってくれるだろうか」
垂れる雫の様に呟いた言葉は、静かな家に染み込んでいく。
母が海に還ってから幾度の太陽が昇っただろう。
悲しみの涙が零れなくなってから、どれだけ経っただろう。
私は日が沈むまで。
暖かな日の光に包まれながら、婚礼の衣を編みこんでいく。
日が沈み、眠りに落ちる時間。
私は音を立てないように家を出た。
今日は、星が良く見える日だ。
母が言っていた。
星を見上げて歩いてはいけない。
煌めく夜空に飲まれ、帰って来れなくなる。
星が降るような夜には、星に魅入られた人が帰ってこなくなるから、と。
私には分かる気がする。
星々はとても綺麗だ。
哀しい事があった日も。
嬉しい事があった日も。
星空は綺羅綺羅と輝いている。
連続する嵐が止んだ後の祭りは、必ず星空の夜に行われる。
子供たちが眠りに沈んだ夜の闇に大人たちが広場に集まる。
乾かした木を組んで火を焚き、火を囲うように踊る。
男は勇壮に。
斧や銛、弓を手にして逞しい体を誇る様に踊る。
女は艶やかに。
腕飾りや鳴らし子をサラサラと鳴らし、誘うように踊る。
そうして人知れず囲いから抜け、互いの愛を語り合うのだ。
綺羅綺羅と輝く星空を見上げ、愛を語り合い、愛を繋ぐ。
私も、そういう夜を迎えるのだろう。
彼と共に。
そう思うと嬉しくて、気恥ずかしくて。
私は今日もまた、星空の下で、一人踊った。
今年の嵐は長い。
まだ終わりが見えてこない。
村人たちは、朝になって嵐が収まると村の長と共に話し合う。
嵐を止めなければならない。
海の神を鎮めなければならない。
海の神は寂しさから巫女を求めて嵐を呼ぶ。
だから海の巫女を海へと還さなければならない。
私は、終わらない嵐の日々の中で、婚礼の衣を仕上げることに必死になっていた。
しょうがない。
海の巫女は若い娘が選ばれる。
この村で巫女に相応しい若い娘は、私一人だ。
だからしょうがない。
彼の顔が日に日に曇っていることも、村の大人たちの顔が日に日に曇っていることも。
綺羅綺羅輝く星空が見えず、空が曇っていることも。
私には分かっていたから。
「俺は、出来る事ならお前を連れて逃げたい」
「その気持ちだけで十分だ」
星空の見えない夜の中。
私の家にやって来た彼の頬に口づけをする。
彼は泣いていただろうか。
私は泣いていただろうか。
「許してほしい」
「良き星空の恩寵があらんことを」
彼が私を抱きしめる力の強さは苦しく。
けれど涙がこぼれてしまうほど、愛おしかった。
そうして私は、綺羅綺羅と輝く星の夜。
弔いの品と共に皆に見送られ。
海へと沈んだ。
海は苦しかった。
還りたくなどなかった。
帰りたくて堪らなかった。
せめて。
せめて。
祈りよ届け。
海の神よ。
祈りを聞き届けよ。
村の人たちに安寧を。
彼に、良き未来を。
ああ、でも。
それでも。
帰りたかった。
彼の元に。
帰りたかった。
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声が、聞こえた。
静かで深い、けれど、とてもやさしい声。
【海の巫女を望んではいなかった】
【だが祈りの声は聞き届けた】
「どういうことだ?」
【海の奇跡はここにある】
【海に招かれた者よ】
【幸あれ】
静かで優しい海の声が私を包む。
体から泡が沸き上がる。
慌てふためくも、心地よさに声が漏れる。
ざわつく不思議な快楽と、母の腕に抱かれた時の安堵が、激しく私をかき乱し、あるいは心を落ち着かせる。
まるで初めて星空を見上げた夜の様だ。
あれは、すごかった。
今まで見た何よりも美しかった。
太陽の輝きで着飾った海も美しかったが、初めて見た星空は怖いほど美しかった。
どきどきと胸が高鳴った。
あの星がきれいだ、この星も綺麗だと星を見上げながら走った。
そして当たり前の様の転んで、寝転がったまま星を見上げた。
体の痛みなどどうでも良かった。
それくらいに星空は綺麗だった。
私の体が変わっていく。
理由もなく、体が人のソレから変わっていくことを理解する。
理由もなく、これこそが海の巫女なのだと理解する。
海の神からすれば巫女でもないのだろうとは思うが、これこそが私たちの望んだ海の巫女だ。
泡に包まれた私は足を動かす。
思っていたよりも上手く、思った通りに海の中を泳いでいる。
不思議と海は私に優しくなっていた。
ゆるく足を動かすだけで、手を動かすだけで。
魚の様に水の中を泳ぐことが出来た。
息苦しさはなく、海に包まれている安堵に浸る。
理由もなく、海で暮らすのに適した体になったと理解する。
これが、海の巫女なのか。
私は思う様、海の中を泳いだ。
男たちの漁で得た魚たちが目に入る。
戯れに魚を追いかけると、驚いた魚たちが四方に散っていく。
逃げない魚たちもいた。
私たちが花魚と呼ぶ、華やかな魚だ。
黄色や青色、緑色に薄い赤色。
色鮮やかな花魚たちは私の傍に近づき、群れの仲間に入れたように共に泳ぎ始める。
上へ泳げば、花魚たちも上に。
くるりと大きな輪を描くように泳げば、花魚たちもくるりと大きな輪を描く。
とても穏やかで楽しい、海の遊泳に満足した私は、何をするでもなく海中を漂う。
嬉しさも悲しさも、海の中に在っては些細な事なのだろうか。
ゆらゆらと肌を撫でる海の流れに身を受け、心は不思議に落ち着いていた。
凪いだ心の内は、やがて一つの望みを泡の様に浮かべる。
星空が見たい。
私は手足を使い、上へ、上へと泳いでいく。
海から空を見上げると、綺羅綺羅と星空が輝いていた。
私は嬉しくて、わくわくとして。
初めて星空を見上げた時の様に海に寝そべり、星空を見上げながらゆらりゆらりと泳ぐ。
「あぁ」
呟いてから、気づいた。
きっと私は今、泣いているのだろう。
「やはり、星空は綺麗だ」
そうして私は、自分の望みを思い出す。
彼と共に、この星空を見上げたい。
この綺麗な星空を、彼と共に。
私は海に導かれるままに、村へ戻ってきた。
歩き慣れた浜を進み、草を踏み。
そうして私は家に帰ってきた。
家の中は、私が住んでいた頃そのままに残っていた。
最後の最期まで仕上げようとして、しかし仕上がらなかった、婚礼の衣。
私は暗がりの中、一番きれいに仕上がった色紐を手に取り、最後の仕上げを始める。
赤花の模様を仕上げるために用意した、黄色の色紐。
目に痛いほど眩く見える、黄色の花の色。
彼との再会をねだる心をなだめ、私は一本一本、黄色の色紐で模様を編みこむ。
そうして完成した、婚礼の衣。
母が好きだった、そうして私も好きになった赤花が、婚礼の衣に大きく再現された。
彼への再会をねだる心が熱さを増し、いよいよ我慢出来なくなってきた。
婚礼の衣を身に着けて、私は彼の元へ走る。
もう、歩いてなどいられなかった。
「きみ、なのか」
彼もまた、家で一人暮らしていた。
彼を誘い、家の外へ出ると、彼は驚いていた。
「そうだ」
「きみ、なのだな」
彼は喜びに涙していた。
きっと私も喜びの涙がこぼれているだろう。
彼と同じ涙を流しているという事実が嬉しくて、やはり涙は止まりそうにない。
私は彼の手を引き、浜までたどり着いてから彼に向き直る。
「それで」
「む?」
「どうだ?」
彼は私の意図が読み取れなかったようだ。
鈍感だと苦く思いながら、可愛らしいとも思ってしまう自分が悔しい。
くるりと回って見せる。
これで何も言わなかったら、頬を抓ってやろう。
彼はようやく気付いたのか、驚いた後に良い笑顔を浮かべる。
「あ、ああ。とても、綺麗だ」
「そうだろう」
嬉しくて顔が熱くなる。
「ほんとうに、綺麗だ」
「ああ。私の婚礼の衣だからな。君の隣で着るための、婚礼の衣だからな」
だから手を抜けなかったのだと伝えると、彼が私を抱きしめた。
「共に星空を見上げて欲しい」
「こちらこそ。海に還るその日まで、共に在ろう」
互いの口を重ねる。
愛しさが、編み込む様に重なり合う。
こんな思いがあったとは知らなかった。
「星空に飲まれるとは、こういう事なのか」
「さぁ。そうかもしれないし、そうではないかもしれないな」
彼を海に誘い、抱き合いながら海を泳ぐ。
二人して星空を見上げながら、互いにお互いの好いた所を話したり。
どの星が一番綺麗かを語ったり。
彼は私が人間でなくなっただろう事を、気にしていなかった。
私も私が人間でなくなっただろう事を、気にしていなかった。
これも海の神の恵みなのだろうと。
二人並んで、海の神に感謝をした。
「そろそろいいか?」
「ああ」
私は彼と深い口づけをする。
思いを届け、思いを受け入れる口づけ。
その中で形の無い何かを少しずつ彼に与えていく。
海の加護を彼に与えながら、一度だけ星空を見上げる。
星空は、やはり綺羅綺羅と輝いている。
すぅ、と星が流れた。
そうか。
今日は何十年に一度あるという、星降る夜だったか。
あぁ。
輝くばかりの星が、一つ、また一つを流れていく。
彼と共に見上げる夜空が、祝福する様に星を降らせる。
二人して、海に浮かびながら、唯々、流れる星を眺めていた。
そうして。
その晩は、雲一つなかった。
涙が出るような夜空が広がっていた。
私たちは。
星空が綺羅綺羅と輝く夜に。
泣きたくなるほど美しい、星降る夜に。
海へと沈んだ。
とある星にまつわる曲を聞いて、インスピレーションそのままに書きました(。。