037アーイシャ
急なブレーキに後輪が滑り、タイヤは流され弧を描く。
運動場のグリーンサンドの緑の粉塵を舞い上げバイクは止まった。
突然の事態に由比のクラスメイト達は驚き呆れ、乱入者に顔を向けたまま思考が停止していた。
みんなを安心させるため、由比はヘルメットを取り、顔を見せた。
「アーイシャはどこへ行った?」
「さ、さっき、ハルと部活棟の方へ行ったよ」
由比の問いに応えたのは吉原 しずく。二階堂の遺体を最初に目撃し、暫くの間休みを取っていた由比の親友だ。
「サンキュ」
由比は礼と共に彼女にヘルメットを投げた。
「えっ。わっ」
しずくはお手玉しながらもなんとかそれをキャッチする。
「無理はすんなよ」
由比のかけた言葉に何故か、しずくは赤面した。
中山春と共に?
由比はアーイシャの行動に疑問を感じたが、まずは先を急ぐことにする。
再度、砂埃を巻き上げ、バイクは真っ昼間の中学校を駆ける。
※ ※ ※
由比が真っ先に考えたのは、部活棟に向かったということ自体がアーイシャによる時間稼ぎの誤情報の可能性。満身創痍の現状ではマチェットが到着した時点で負けが決定する。次いで、中山春を人質として利用し時間を稼がれること。中山春の同行は由比にとっては朗報である。アーイシャ一人で潜伏される方が、遥かに勝算が低い。
由比は考えを巡らせながら、慎重に、それでいて足早に部活棟を捜索する。放課後に主に使われるその建屋は授業中のため人がいない。虫の声だけが焦る由比の耳に聞こえてくる。
一階の捜索を終え、階段へと足を進めたときにそれは聞こえてきた。
『はーい。これからLive放送が始まるよ』
場にそぐわぬ呑気なアラビア語。
声は階上から聞こえてくる。
おそらく二階の階段直ぐそばに目標がいると由比は判断した。
己の状態を把握する。傷だらけではあるが、四肢の動きに問題はない。武器はデリートのアンプルのみ。ナイフの一本もないが、アーイシャは一介の女子中学生。その手の中に拳銃があっても負けるとは思えない。仮に強さがわからないレベルの強者であれば、それはマチェット以上であり、由比では万全の状態でも歯が立たないことを意味する。
由比は、すぐさま階上へと足を踏み入れることにした。
身を隠しながら教室の中を伺うと、そこにいたのは、震えながらスマホを構える中山春と水着姿でナイフを持つアーイシャだった。
状況が理解できないが、この行為が時間稼ぎだけの可能性もあり、ナイフを持ったアーイシャからを微塵も驚異を感じないため、由比は姿を表すことにする。
「何をやっている?」
「ユイ。思ってたより早い。」
「由比ちゃん、助けて。アーイシャが、アーイシャが……」
アーイシャの口調からは余裕を感じる。対して中山春はいっぱいいっぱいのようだ。
アーイシャの視線は由比の右手。握りしめるアンプルに目を向けられていた。
「それはやめとけ。今、アーイシャの国へ向けての生配信中。誰が原因で二度目の聖母を失うことになるかを伝えてしまうことになるぞ」
「……ア、アーイシャが」
「そんな脅しに意味があるのか?」
由比はアーイシャの脅しを否定する。由比の命が狙われることになろうが、強子や那美、母親の命とは天秤にかけられない。その決意があるからこそ、由比は満身創痍になろうがこの場にいる。
「中山、撮影をやめろ」
「え? ダ、ダメだよ、それは。それにハル」
多少は落ち着いてきたのか、それとも何があっても譲れないことなのか、彼女は頬を膨らませた。
「何が駄目」
「ハルにはLive撮影を止めたら、アーイシャは自殺すると言った」
続くハルへの質問はアーイシャの答えに遮られる。
「時間稼ぎか?」
「それは由比の方。アーイシャはLive配信を続けたいだけ」
由比はLive配信の目的がデリートを打つことへの抑止力だと考えていたが、彼女どの問答からそれはついでであり、主目的ではないように思えた。
「ハル。今、何人くらい?」
「え? 五百人くらい」
「少ない。『【Live】JCが水着であんなことしちゃう。びっくり仰天放送禁止間違えなし』はタイトルが悪かったかな?」
なんてタイトル付けてやがる。
由比はSNSによるネット被害を知らないのかとアーイシャを問いただしたい気持ちでいっぱいになりそうだった。
「もう、いいや。よしやろう」
「ダ、ダメだよ。アーイシャ、やめよう。ね?」
ハルの静止を無視して、アーイシャはおもむろにナイフを逆手に持って、自らの胸に突き刺そうとした。
咄嗟に由比はその刃を右手で受け止める。
ポタリ。
貫通した右手から血が滴り落ちる。
由比は痛みに、ハルは驚きに絶句した。アーイシャの表情に変化はなかったが、彼女も動揺しているのか日本語ではなく、母国語を口にした。
『ユイはなんでアーイシャの邪魔をするの?』
『何を考えている?』
『……ユイは優しいね』
キャッチボールも出来ていない、己の言いたいことだけを互いに口にする会話。アーイシャは最後の言葉とともに由比を押し飛ばす。
飛び散る血液。
ナイフは痛みを伴い手から抜ける。
「ぐっ」
由比は思わず、右手を押さえる。
「由比ちゃん!」
「撮影を止めるな、ハル。お願いだから」
アーイシャは由比に駆け寄ろうとするハルを押し留める。彼女は逡巡しながらもカメラをアーイシャに向けた。
それを確認すると、ナイフは再度、逆手に握られる。
由比は痛む右手を無視して、アーイシャの手ごとナイフを蹴り飛ばした。
アーイシャは倒れたが、そばに落ちたナイフに手を伸ばす。
それを殴って止める由比。
彼の拳は深々と少女の柔な腹部に突き刺さる。
ゲホゲホとむせるアイーシャ。
その隙きにハンカチを右手に巻き、止血する由比。
『これが一番だろう?』
見上げるアーイシャ。
『何がだ?』
見下ろす由比。
『デリートを打てば、怒りの矛先がユイへ向かう。打たないとシズカのパラサイトを奪うまで、今までと同じことを続けるだけ。アーイシャが止めても、他の誰かにウンムの心臓を再移植して続けられるだけ』
予想外の理由に由比は閉口した。
『アーイシャが心臓を殺すのがどう考えても一番マシ』
鼻血を流しながら語る彼女の両目からは涙も溢れ出した。
「待て」
『待ってどうする? もう後に引けない。これで自殺を失敗したら心臓の器をアーイシャから変えられるだけ』
由比はとりあえずアーイシャを止めようとしたが、彼女の口は止まらない。
『アーイシャは望んでいないのか?』
『ユイ。これはそういう次元の話ではない』
望む望まないは関係ないということであれば、既に決まってしまっていることを表すのだろうか。由比は考えがまとまらず困惑する。
『今回の件の黒幕は誰だと思っている?』
『アーイシャじゃないなら……ナジュムか』
『ナジュムも(・)だ。
アーイシャの国の国民全てだ』
その問答の答えに由比は絶句する。
『公園で遊んでいる子供からシーシャ吸いながら道端でだべってる老人まで。学校の友達も先生も兄弟姉妹も父親も。日々の食事に困る貧民から王侯貴族まで全て。その全てがアーイシャの死を望んで、聖母の蘇生を望んでいる』
溢れ、吐き出された言葉を言い切ると、アーイシャは歯を食いしばり由比を睨みつける。由比は思わずたじろいだ。
睨みつけられた顔からは鼻血に鼻水、涙も止め処なく溢れてきている。
あり得るのかと自問するが、つい先程、由比の命よりも恋人や親の命を優先すると決意したばかりであることに由比は気づく。アーイシャの母は聖母と呼ばれるほど国民に慕われている。彼女を生かすために優先順位の低い他者の命を捧げることはありえるのではないか。
由比は肯定しかかった。
しかし、同時にアーイシャの間違えにも気づく。
全員じゃない。
アーイシャのために心臓を捧げた人がいる。
『アーイシャのウンムまでか?』
その言葉は、気丈に振る舞っていた少女の最後の虚勢を取り払った。
「うああああああああああああああ」
誰もいない建屋に少女の鳴き声が木霊する。
※ ※ ※
『ヒック……アーイシャはウンムが好きでなかった』
泣きながらも少女は語りだした。
『ウンムは忙しくてアーイシャに時間を割いてくれなかった……アーイシャはウンムに嫌わていると思ってた。他の子が羨ましかった』
優しさも愛情も人一人が分け与えられる総量が決まっている。時間が有限だからだ。他者に振りまけば、その分だけや自分のすぐ近くにいる人と接する時間が減る。聖母とまで言われる女性は、どれだけ家族へ向けられるはずの時間を犠牲にしたのだろうか。
『それなのに、ウンムは最後に周りの反対を振り切って、自分の心臓を私に移植しようとした。だけど、親子でも移植は無理だった』
珍しい例でもない。両親から子供への移植の適合率は一割程度でしかないのだから。
『だから、吉良の研究に飛びついた』
そして、彼女は運の悪いことにS2、スタンバイに適合していた。
『聖母に救われた人々はどう考えたと思う?』
自分が好意を抱く人物が、自分以外の対象のために命を捧げた。自分たちを捨ててまで。おそらく抱く感情は嫉妬。
『アーイシャは聖母殺し扱いだ。あいつらはただ、聖母がいれば良くて、聖母の気持ちなんかどうでも良いんだ』
自らが正しいと仮定して導かれた結論。
それは矛盾だらけの正義となる。
「ユイはキョウコやナミの身体で生きることを望むか?」
由比は喉から出そうになる否定の言葉を留める。何故なら、それはアーイシャの立場でも同じ話なのだろうから。
『ウンムが、
アーイシャの身体を、
望むわけが、
ないだろうがぁぁ! 』
心からの叫び。
そして、少女は涙を拭う。
『ユイは黙ってみてろ』
その強い眼差しは決意の色に彩られていた。
『心臓。ごめんね。痛いけど我慢してね』
三度、彼女はナイフを逆手に持つ。
確かにこれが丸く収まる方法なのかもしれない。アーイシャだって殺人に加担してきたし、那美に酷いことをした。その責任を取らせる意味でもありえない選択肢ではない。
それでも、やはり彼はアーイシャの結末がこの形になるのに納得がいかなかった。
だから、彼は最後まで思考することを諦めない。
そして由比は一つの解に辿り着いた。
彼は慌ててアーイシャに目を向ける。
応えるように彼女も由比に顔を向けていた。
少女達は見つめ合う。
「アーイシャ、良いんだな?」
「ユイ。それしかもう術がない」
二人は真剣な目で見つめ合う。
「……俺たちは境遇が似ているな」
「……そっくりだな」
「俺はどうなるのだろう?」
「ユイ。アーイシャが先に行って、待ってる。」
最後の応えと共にアーイシャの刃は自らへと向かう。
しかし、それは由比の拳によって防がれた。
傷ついた右拳で、アーイシャの顔面を殴ることによって。
握っていたナイフは転げ落ち、鼻血を流して横たわるアーイシャ。撮影向きとはお世辞にも言えない状況にも関わらずハルのスマホカメラは彼女を取り続けていた。
「ハル、撮影を止めろ」
「……ハル……ユイの言う通りにして」
「え? あ、はい」
突然のロシア語のシリアスシーンに呆然としていたハル。二人に言われて彼女は慌ててカメラを止める。
その直後、彼女は後ろから突然に口を塞がれた。
「むご。むごご」
暴れるハルを横目に凶行が行われる。
突き刺さるナイフ。
飛び散る血しぶき。
「むが。むがががぁぁ」
必死でアーイシャへと手を伸ばすハル。
「ああああああああああああ」
アイーシャの悲鳴。
痛みを無視して抜かれるナイフ。
傷口から流れ落ちる血は制服を赤く染めていく。
カラン
音を立てて血塗れのナイフが床に落ちる。
アーイシャは膝から崩れ落ちた。
「むがぁぁああああああ」
叫ぶハルの双眸からは涙が溢れる。
アーイシャは最後の力を振り絞って、落ちたナイフを拾う。
そして、自らの腕に最後の言葉を刻むと、それに満足したのか静かに目を閉じた。
「アーイシャ……アーイシャ、アーイシャぁあああ」
解放されたハルはアーイシャに駆け寄る。
「いやぁあああああああ」
悲痛な叫び声が校舎に響き渡る。
昼下がりの誰もいない部活棟の一室。倒れている少女の片隅で、用済みとなった空のアンプルはコロコロと床を転がっていた。
※ ※ ※
「通ります。危ないですからどいてください」
雑踏の中、学校の敷地から人をかき分け一台の救急車が出てくる。
シンボルとも言える蛮刀も持たず、壁にもたれかかった一人の傷だらけの女はそれを見送った。
車が見えなくなると、おもむろに懐から電子煙草のようなものを取り出し口に咥える。
彼女は遠い目をしながら、軽く煙を肺に入れた。
『結末を教えてくれないか?』
彼女は空に向かって質問を投げかける。
それに応えるように背後の壁を乗り越えて由比が現れた。
『喫煙やめればな』
彼女の吐く息は白い煙で輪を作っていた。
『デクラウドだ。ノンニコチンのフルーツフレーバー。健康的だぞ』
ニコリを笑うマチェット。
彼女は懐から出したもう一本を由比に差し出した。
『中学生に勧めるな。それでも二十歳までは違法だから』
『お堅い国だ』
マチェットはつまらなさそうに煙を蒸す。
由比は呆れながらもポケットから濃い赤紫色のアンプルを取り出し、彼女の前で振って見せる。
容器の九割ほどを占める液体がタプタプと揺れていた。
マチェットは双眼を見開いてそれを凝視する。
『……そうか、逝ったか』
マチェットたちの敗北条件はアーイシャの心臓が移植できない状況になること、もしくはデリートをアーイシャが打たれること。後者でなければ、前者になったということだろうとマチェットは推測した。
彼女はズルズルともたれ掛かっていた壁に血の跡を付けながら腰を下ろした。悲しげな瞳で地面をぼんやり見つめる。
『アーイシャの年齢を知っているか?』
おもむろにマチェットは地面を見つめたままで、由比に問いを投げかけた。
『中学二年だから13か14だろ?』
『10だ』
『は?』
会話はそこで途切れる。
この場でそんな嘘をつく意味はないから本当のことなのだろう。しんみりした居た堪れない空気になってきたので、由比は告げる。
『アーイシャは死んでないぞ』
デクラウドとやらがポトリと地面に落ちる。
『先に言えよ!』
胸座を掴まれた由比はごめん、ごめんと連呼する。
『で、どうなった?』
『喫煙やめてからな』
由比の物言いに苛立ちながら、マチェットは持っていたデクラウドを全部地面に捨てると、先程地面に落ちたそれと一緒に踏み潰す。
『これでいいだろ』
『その前に質問良いか?』
『なんだ?』
『もしかして、お前って、アーイシャが聖母に代わってほしくなかったりする?』
マチェットは眉根を寄せる。
※ ※ ※
マチェットは立ち上がると、パンパンとほこりを叩く。
『行くのか?』
『ああ、お前のせいでやることができたしな』
彼女は歩みだす。
そして、二、三歩進むと戻ってきた。
何か忘れ物だろうかと由比が疑問に思っていたら、彼女はこめかみに青い血管を浮き上がらせながら問いかけてくる。
『ネプチューンとかいうコードネームのやつ、どこにいる?』
これ以上の戦闘は無理と判断した由比は殺さないことを条件に元担任の情報を彼女に売ることにした。
その日、見ず知らずの人物が連続殺人事件の犯人として自首したため、公的には一連の騒動の幕が降りる形となった。
サイレントヒル中央警察署の周りに報道陣が詰め寄せ、夕食時にはサイコパスの模倣犯の犯行として放送されていた。
次回『038運命の木』
「何を考えているんだ、強子」
「富士崎由比なんかどうでも良いのです。彼女はわたくしにとって、ただの敵です」
あなたの脳裏に神戸の妄想が焼き付く




