021富士崎由比
中西黄泉人の二年間の潜伏先が判明した。それは――
左足でコートを蹴る。
ボールがまるで吸い込まれるように駿河の向かう先へと運ばれていく。
開かれた肩。
そして体重の乗る右足。
――それは比良坂邸の地下。
バネのように高速で回転する腰。
高い位置で捉えられた球は地を這うように低く跳ねる。
「0-30」
――地下のセーフハウス。彼はそこに二年間いた。
曲がった膝、落ちた腰、浮いた踵。
前へ傾いた体。
細かく前後へ左右へとリズミカルに重心は移動していた。
見つめる先は一人の少女。
残された皮膚や剃られた髭の跡から――
軽い左へのステップ。
右手から左手へと移ったラケットは既に後ろへと引いている。
回る腰。
回る腕、回る右足首。
当たるほんの一瞬だけ、面が正しく前を向く。
――事件当日の昼間まではそこにいたことが確定した。
弾かれた球は斜めに回る。
それは地面に触れた瞬間、少女へと襲いかかった。
大きく、大きく上がった球。
由比の体がいるのは、そのボールの到着地点と思われる場所。
引かれた右腕。
沈んだ腰。
タイミングを測り、前後に開かれた膝は細かく上下する。
つまり、俺が訪ねたときに――
ジャンプ。
左肩は後ろへ下がり、右肩は前へ出る。
ひときわ高い位置で鈍く鳴る音。
――閉まった扉の先に中西がいた可能性は極めて高い。
少女へと伸びた軌道。
とっさに躱されたそれは地面で弾み、ギャラリー前の金網に刺さる。
網の目の中でクルクルと回り。やがてポトリと落ちた。
「0-40」
駿河は戦意を失わない瞳を確認すると、ゆっくりとベースラインへと向かう。
駿河はラインにたどり着くと、くるりと身を返す。
中西が二年前もの間の比良坂邸の地下にいたのは――
今度は少女から逃げるように振る舞うボール。
――比良坂静香。つまり比良坂駿河の母親からの依頼の可能性が高い。彼女であれば、家の扉も地下の扉も開けることができる。
必死の思いで返したそれは、すぐさま今度は少女から遠く離れた後方へと向かう。
もう一つ問題なのは――
追いすがる足。かろうじて届いたラケット。
――中西が地下から出てきた理由。
立ち上がったときには、はるか前方で跳ねた音。
そして、竜胆――
踏み切る左足。
――そもそも、彼女はどのようにして家の鍵を開けた。
奥へ向かったボールはかろうじて相手コートの中に落ちようとする。
しかし、それは既に待ち構えられていた。
現状から導き出せる推論のひとつ。最もシンプルなのは――
再びボールは少女に向かう。
奥歯を噛み締め、向かい打つ少女。
しかし、あざ笑うかのように、その起動は急激に沈み。
――比良坂静香は竜胆茜と共にいる!
少女の足の間を抜けていく。
「ゲーム」
駿河はベンチへに腰をかける。
目の前に出されたいくつものタオルから無作為に一つを選び、汗を拭う。
首の汗を拭きながら、駿河は思考を続ける。
竜胆茜と比良坂静香が友好的な関係かは判明していない。脅して玄関と地下の扉を開けさせた可能性もある。ただし、那美は違う。彼女は『大丈夫?』と茜を心配する発言をしていた。家中の傷痕は三人でつけることは可能だろうか。いや、そもそも傷を付けた目的は何だろう?
考えが発散している。
駿河はまず、静香を中心にまとめることにした。
比良坂邸の玄関とセーフハウスを正攻法で開けることができたのは静香だけだからである。
比良坂静香は行方不明である。
彼女はセーフハウスで研究をしていたことがある。
彼女は中西にセーフハウスに潜伏するように依頼した。
彼女は竜胆と同行している可能性が高い。
彼女は吉良康介と研究をしていた。
これに一つ、別の事実を加えてみる。
『吉良は竜胆茜を追っている』
吉良が竜胆茜を追うのは、彼女の近くにいる母さんを捕らえるためか!
比良坂静香が中西にセーフハウスに立てこもるよう依頼し、自身の身を隠すことによって、彼女が個別に行っていた研究記録にアクセスすることが不可能になる。
静香と竜胆茜が同行していることを知った吉良は、静香の身柄を確保するために目立つ竜胆茜を探している。
このことから、那美は静香に同行するのが主であり、竜胆と同行していたのは副次的な理由の可能性も浮上した。
これらの考えは推論に過ぎないが、駿河の中で点と点が線で結ばれた。
説明ができないことはまだ多い。
争ったのは誰と誰なのか。
争いなどなく、工作の可能性もあるが、その場合は工作の理由。
中西は何故死ななければいけなかったのか。
そして、彼の遺体は何故、あのようにされたのか。
何故、富士崎由比が来たタイミングに竜胆茜が居合わせたのか。
定期的に訪れていたという可能性は低い。明らかに比良坂邸は人が訪れていない状態だった。
そして――
「テニス、すごい」
駿河の思考を中断させたのは、最近になって駿河を情熱的な目でみてくるようになったアーイシャ。
「どこで習った?」
「体育の授業くらいですよ」
アーイシャの扱いに慣れてきたのか、雑に回答する駿河。
それがいけなかった。
「授業? クラス全員分のラケットの数あるのか?」
そんなわけがなかった。
アーイシャの熾烈な追い込みで、駿河は喉元までボロが出かかる。
彼を救ったのは一人の少女だった。
「あの、アーイシャちゃん……」
「ナカヤマ……」
中山春13歳。
アーイシャに転校初日に『毎日性行為』と言われてしまった少女。
彼女は今日、トラウマと正面から向き合う。
「ハル!……ハルって……ハルって呼んでって言ったよね」
「ナカヤマ……」
言葉の壁は思いの外厚く、意を汲んでくれないアーイシャ。
不穏な空気を感じたのか、少女たちは静かに動向を見守る。
「ハル! エイチ・エー・エル。ハル!」
中山春は過去を振りほどくかのように叫ぶ。
駿河はHARUだと思ったが、敢えて口に出さなかった。
「ハ……ル?」
「そう、ハル! 私はハル!」
満面の笑顔を浮かべる中山春、いや、ハル。
「ハル」
「ハル」
「ハル」
皆がハルを拍手で祝福する。
ハルは両手を広げ、涙しながらスキップする。
今は彼女にとって至福のときなのだろう。頭の中ではアルプスの少女ハイジの主題歌『おしえて』が流れていて、花畑で仔山羊や小鳥やペーターと踊っているのが容易に想像できた。
「良かったねー中山さん」
「ちっがーーーーう!」
ハルの幸せの空間を止めたのは空気の読めない少女、新山千秋13歳。
彼女は盛大なツッコミを食らい、目を白黒させていた。
※ ※ ※
学校の帰り道。
アーイシャの提案でクレープを買い食いすることになった。
一緒に買いに行こうとしたが、やーちゃんこと永田弥生がそれを止める。
「お姉さまはお疲れでしょうから、休んでいてください」
注文だけでもと思った駿河を止めたのは、今度はアーイシャ。
「任せる。ユイの好みばっちり」
ほんまかいなと頭の中では比良坂駿河18歳がツッコミを入れていた。
「ありがとう」
駿河は適当に謝意を伝えると、近くのベンチに腰掛ける。
両面が座れるように作られたそこには、反対側に先客が座っていた。
夕方にも関わらず、公園には他にも人が多く、比較的安全と思えたため駿河は特に気にしなかった。
逆に彼は油断しすぎないようにと、足をきっちりと意図して閉じる。
「こっちを見るな。通話しているふりをしろ」
ベンチの後ろから突如、かけられる声。
先程の先客だろう。
駿河は旧3年1組では良く行われていた某デスノートごっこを思い出した。
声に従い、スマートフォンを出して耳にあてる駿河。
口から出たのは普段、彼が演じる富士崎由比とはかけ離れた弾む声だった。
「もっしもーし、こちら由比ぴょんだぴょん」
その発言には比良坂駿河の悪いところが前面に出ていた。
「…………」
「…………」
沈黙。
この間、話しかけてきた先客の彼は何を考えているのだろうか。
「端的に言う。7月4日深夜、比良坂邸の件だ。
お前があの場所にいたことは掴んでいる。
証拠品保管庫からお前の痕跡は消してあるから感謝しろ」
告げられた言葉。
それを脳が理解したとき、駿河は背筋が冷たくなるのを感じた。
悪ふざけのやり取りのはずが、深刻な事態であることが発覚。この人物は富士崎由比が、殺人事件があった日に現場にいたことを知っている。そしてあろうことか、証拠を隠滅して庇ったと告げている。保管庫に入っての行動だろうか。言葉のとおりであれば、彼は警察関係者と推測される。
富士崎由比とこの人物は顔見知りの可能性は極めて高い。
それも証拠の隠滅を知らせることからわかるように親しい間柄だ。であれば、まずは疑問よりも謝意を伝えるべきだろう。頭の整理のための時間稼ぎとしても有効だ。駿河はそのように分析した。
しかし、そのまま加工せずに回答するわけにはいかなかった。先の会話で一度上げてしまったテンションを落とすと、通話中と認識しているだろう公園に数多くいる第三者に違和感を感じさせてしまうからだ。
すべてを満たす回答。こうあるべきだと駿河が導き出した返答は――
「さっすがー。ありがとうだぴょん。由比ぴょん感謝ぴょん」
「…………」
「…………」
再びの沈黙。
前提条件を満たすため、駿河の回答は間違っていないはずではある。
この間、彼は何を考えているのだろうか。
「……何があったのか教えてくれないか? 」
「ごめんぴょん。由比ぴょんおねんねしてて、グーグーぴょん」
隠すところだけ隠して、できるだけ問題のない部分の真実だけを伝える。こうすることにより別口からの情報と合わせられたときに、一番当たり障りがない形に収まる。口調はこんなんだが、駿河は冷静に対処していた。
「…………」
「…………」
三度の沈黙。
この間、彼は何を考えているのだろうか。
「……キラか? 」
二重の意味で予想外の質問に駿河の胸はどきんと跳ねる。
この人、吉良と繋がりがある?
それとも某ノートのネタか?
「私はLです」
驚きのあまり某ノートの名台詞の方で答えてしまった駿河。
誰が彼を責められようか。
「エル? エルとは誰だ?」
拾われてしまった。
謎の人物はネタを拾ってしまった。
どう答えるべきか。
ある意味重い責任を背負った駿河は回答の必要性に迫られる。
「お姉さまー」
救いの声の主は永田弥生。
そして、彼女に続いて足早に駆けるアーイシャ。
二人が手に持つのは生クリームがふんだんに使われたクレープ。
最上部に鎮座する巨大なバニラアイスが零れ落ちそうになっていた。
「……こちらからまたコンタクトする」
声とともに気配が消える。
反射的に即座に振り向こうとするが、それをこらえる駿河。
急いで『知り合い』の姿を確認しようとするのは明らかにおかしな行為であるためだ。
「はい」
渡されたのは、ベーコンと卵のフードクレープ。
「ユイ、甘いのよりこっちのほうが好きでしょ」
想定以上のナイスチョイスに駿河は驚きを隠せない。
駿河は包を受け取りながら横目で背後の席を確認したが、
その時には既に影も形も見えなかった。
※ ※ ※
駿河は帰り道、甘くないクレープを口にしながら考える。
現時点で一番素性が知れない人物。それは。
それは、富士崎由比だろう……
竜胆茜。ムチムチのライダースーツをこよなく愛するライダー。中西黄泉人殺人現場で由比と敵対していることが発覚。那美がやったとは思えないから、こいつが俺の中では殺人容疑者でもある。俺の恋人NTR。こいつとはわかり合うことは絶対にないと思われる。
吉良康介。短気な中東人を連れた研究員。彼は行方不明の比良坂静香と同じ研究をしていた。由比と知り合いと思われるが、彼女を探るような動きを見せている。偶然か必然かはわからないが、由比が居合わせた殺人現場を匂わすような話をしてきた。
二階堂俊。ヤクザ四十万組の若頭。殺された中西黄泉人が所属していた組織の有力者でもある。由比にとても友好的。大議員の孫より女子中学生を優先する様は援助的な何かや、活動的な何かを連想させるが、そのような空気でもなかった。
警察関係者と思われるミスターX。先程の人物だが名称不明のため、仮にそう呼ぶことにする。証拠品を消すとかまともじゃないが、彼も友好的な人物に含めて良いだろう。彼については、デスノートごっこをしていた厨二病患者の可能性もまだ残されている。
気にかけてくれる知り合いがいるのはごく普通なことだ。
だけど、いくら何でもその人種が偏ってないか。四人の不審人物が富士崎由比と何らかの見えない糸で繋がっているというのは異常だと思われる。
……一度、すべての関係者に富士崎由比として会ってみるべきか?
残す人物で場所がわかっているのは二人。
一人は新藤。
比良坂駿河が事故に会った日に彼をパトカーで追い回していた刑事。
だが、彼がもしミスターXであれば、言い残された『こちらからコンタクトする』という言葉に反することになる。
駿河は熟考した上で、足を運んでの接触は控えることにした。
ミスターXからの再度の接触。そのときに同一人物と確認できれば良し、できなければ新藤に接触をする。この順番を守ることに決めたからだ。やるべきことは、ミスターXからの接触の前に新藤の情報を集めること。それが同一人物かの同定に役立つはずと駿河は分析した。
そして、もう一人。
※ ※ ※
翌日、駿河がやってきたのはサイレントヒル中央刑務所。
その面会室。
小池不二雄41歳。
新藤が2年前のパトカーの運転手なら、
こちらはトラックの運転手。
実際に事故を起こしたのは彼であるため、パトカーの運転手よりは顕著な反応が見られるかもしれないと希望的推測が持たれた。
彼は二年前に危険運転致傷罪で懲役刑となっている。
そのため、駿河は刑務所まで足を運ばざるを得なかった。
強子の協力により、偽名で秘密裏での接触である。
変装はマスクくらいしかしていないが、目的が富士崎由比の姿を目にしたときの反応の確認であるため、誰だかわからない変装をするわけにはいかなかった。
連れてこられた彼の前で駿河はマスクを取る。
じっと彼を見つめて、動向を伺う。
一瞬の動きも見逃さないように。
男の口元が動く。
緊張の一瞬。
「……誰?」
お前は由比と関係ないんかーい!
苦労してセッティングしたにも関わらず、肩透かしを食った駿河。
彼は思わず叫び声が漏れそうになった。
次回『022記憶にございません』
「ママ、パパ。私の小学校の頃の写真ってないのかな?」
あなたの脳裏に神戸の妄想が焼き付く