002報告
「二の腕を揉ませてくれ、胸でも良ぃなおっ!」
「唐突になんや!」
アイアンクロー。アメリカのプロレスラー、フリッツ・フォン・エリックの必殺技は、一般的な女子高生の体格である菊理那美の右手は一般的な男子高校生よりガタイの良い比良坂駿河の顔面を掴むにはやや小さく、従って彼の顔の皮膚はその中心に引っ張られる形になっていた。
「せ・つ・め・い」
「に、二の腕は胸と同じくらい柔らかいと裕太から聞いたから確認したかっキャプテンアメリカ!」
駿河を左脇に抱え、二度三度と右拳で殴る菊理那美。
ヘッドロックという技、日本語では頭蓋骨固めとも呼ばれるその技は抱え方でいくつも細分化されている。この場合はサイドロックと呼ばれる最も有名なヘッドロックだった。
比良坂駿河18歳と菊理那美18歳は昨日4月26日の月曜日の放課後から少なくとも本日4月27日の火曜日の二時間目の放課。つまり、現時点まで彼氏と彼女の関係である。
その結果の光景は、本日4月27日の火曜日のクラスメイトに困惑をもたらしていた。
最も困惑したのは比良坂駿河18歳の親友であり、悪友でもある皇裕太17歳であろう。彼については困惑というより混乱という表現の方が適切かもしれない、プロレスと胸のことを誰にでもなく一人語っていた。
「ヘッドロックはプロレスの基本技の一つで、そこから派生する多種多様な技は観客を魅了するおっぱい。バックドロップに移行する場合もあり、ミシガン州バナット出身のハンガリー人ルー・テーズが決め技として愛用おっぱい。おっぱい。いっぱい。おっぱい……」
三人の間に何らかの変化がもたらされたのは確かなようだが、それが何かわかないクラスメイト達。彼らは遠巻きに、具体的に言うと2mの距離を保ちながら、つかず離れず耳を澄まし、息を呑んで様子を見守っていた。動いたらやられると思っているのだろうか、微動だにすらしていない。
説明することを求められながら、説明する隙を与えられていない比良坂駿河は必死に弁明をしようと試みるが、次々繰り出される菊理那美の拳はそれを許さなかった。
八度目の拳が駿河の頬をとらえた時、新卒で担任となった吉田海王星24歳一浪が教室の前の扉を勢いよく開く。
「じゃっじゃーん。先生登場。」
そして扉を開いたポーズのまま、ややひょうきんなところを売りとしている彼は固まった。
クラスメイトによって作られた2mの輪、その中心にいる首を抱えられ殴打される男子と、首を抱え殴打する女子、そしてその近くにおっぱいと連呼するもう一人の男子。教室の入り口で扉の取っ手に手を添えたまま静止した24歳の男性教師。
そんな緊迫した空間に、4月27日の火曜日のホームルーム開始を告げる鐘の音が鳴り響いた。
※※ ※
21分間延長された4月27日の火曜日のホームルーム。それにより、時刻は間もなく8時51分を示そうとしていた。
「お、おめでとう……」
全ての状況検分が終わり、皆に正確に情報が共有された後、吉田海王星24歳一浪は一言、引きつった顔で祝福の言葉を述べた。
パチ……パチ……
おお、おおおおおお……
ちらほらと拍手の音。
そして、皇裕太17歳童貞をはじめとする一部の男子生徒は苦悶の声を漏らしていた。
当の本人はというと、
駿河は選挙に当選した議員のような笑顔を振りまき、
那美は下を向いて、顔を赤面させていた。
――その和やかな雰囲気を壊す一言がぼそりと告げられる。
「あれ、二の腕より胸の方が硬くない?」
どこの女子からついて出た言葉かは定かではない。
しかし、その一言が、クラスを震撼させる。
二の腕と胸を何度も揉み比べる女子。
それを凝視する男子。
赤面しながら眼をそらす男子。
そんな男子を冷えた目で睨む女子。
胸の大きな女子の方向へ顔を向ける男子。
胸を触ろうとせず悲しい目で空を見つめている女子。
顔を手で覆う男性教諭。
まとまりかかったクラスの意思は混迷を窮め、
4月27日の火曜日のホームルームは更なる延長を余儀なくされた。
一時間目の授業を担当している数学の五十嵐九十九52歳バツ1は、教室の外で一人寂しく窓の外の桜の木を眺めていた。