亡国の公爵令嬢は今日も愉快に暮らしてる
ディア・ローゼスは、ごく平凡な村人である。少なくとも彼女自身はそうだと信じて疑っていない。
誰がなんと言おうと、自分は平凡で真っ当な人生を歩むのだと彼女は断固主張する。異を唱える者がいたらコテンパンにする所存だ。そのくらい彼女はここサラサエル村での慎ましい暮らしに満足し、心から謳歌している。
そんなディアだが、今日は朝からぶるぶると震えていた。彼女の手には愛用の瓶底眼鏡が握られており、レンズは割れ、つるも外れた状態になっている。
つい今しがた、寝ぼけたままかけようとして、盛大に落として壊してしまったのだ。あまりのショックに耐えきれず、ディアはついに絶叫した。
「ア、アイザックさぁぁあああん!」
その魂の叫びに、近くの木の上で羽を休めていた爆弾鳥の群れが一斉に飛び立つような音が聞こえた。ついでに隣で寝ていたディアの夫も目を覚ます。ほぼ寝ているような状態だったが、切羽詰まった彼女の声を聞くと勝手に体が動いてしまうのは、昔からの悲しい条件反射に他ならない。
「おい……朝からなにがあった……」
「フラン様! アイザックさんが! 私のアイザックさんがががが」
「落ち着け。眼鏡をアイザック呼ばわりするのはやめろ。本体はチェザリアンにいるだろうが」
泣きついてきたディアの頭を適当に撫で、夫であるフランは大きくあくびをした。こう見えて二人は新婚なのだが、色気もなにもない朝である。ついでに言うと、昨晩も新婚らしいなにかは別になかった。二人揃って秒で爆睡である。
ちなみにチェザリアンというのは北に位置する隣国だ。そこで滞在していた頃にアイザックなる人物から「頼むから顔を隠せ」と眼鏡を貰い、なんだかんだ言いつつフランも同じものを愛用している。
「うう……アイザックさん……」
「泣くな。アイザックが死んだみたいになってるぞ」
「でもこれがないと私は外を出歩けません」
「……まあ、そうだな」
ディアの訴えはもっともだったので、フランは少し考え込む。確かに眼鏡は必要だ。それも分厚い瓶底眼鏡。視力の問題ではなく、これまでの複雑な経歴のため、顔の造形が曖昧になる瓶底眼鏡が必要なのだ。素顔はできるだけ知られないほうが都合がいい。
「とりあえず、なにか食べてから考えるぞ。食べたいものを言ってみろ。作ってやるから」
「……ふかふかのパンケーキに薔薇蜂蜜をかけて食べたいです」
「わかった。あと昨日作っておいた紫苺のタルトも特別に出してやろう」
「えっ、やだ惚れちゃうじゃないですか。いやもう惚れてました」
二つ年上の夫に胃袋をがっちり掴まれている自覚があるディアだが、美味しいものを美味しく食べられるのは幸せなことなので両者ともに気にしていない。なお彼女の手料理は壊滅的にまずいので、代わりにフランの料理の腕前が天井知らずに跳ね上がっていく今日この頃である。
かつて公爵令嬢であった彼女が、かつての帝国皇子である彼と共にこの辺鄙な村で暮らしているのには、いろいろと複雑な事情があった。その経緯については長くなるので割愛するが、ひとつ確かなことは、二人とも名前を変えて単なる一般人として生きているという事実である。
しばらくして、キッチンからいい匂いが漂ってきた。それからほどなくテーブルの上に並べられたのは、帝都の人気店をも凌ぐような見事なパンケーキと紫苺のタルトである。毎度のことながらディアは感嘆せずにはいられない。相変わらずフランは一家に一人欲しい人材だ。
これほど料理ができるうえ、優れた頭脳とゾッとするほどの記憶力を持ち、ディア曰く「千人は殺していそうな美形」の青年。それがフランである。性格が冷酷すぎてたまに人が死ぬことと、人類みなイモであると思っていることを除けばなかなかの優良物件ではなかろうか。
「ん? でもそれってマイナス要素が上回った不良物件では……」
「なに一人でぶつぶつ言っている。ほら、冷める前に食べろ」
「あ、はい。いただきます」
要望通りのふかふかほこほこのパンケーキに、ちょっとお高い薔薇蜂蜜をかける。普段はさっぱりした甘さの林檎蜂蜜を使っているが、たまには華やかな薔薇蜂蜜でもいいだろう。無心で食べながらもディアの顔がニヤけた。美味しい。幸せ。
そんな彼女の様子を見守りながら、フランも小さく微笑んだ。うちの妻は今日も可愛い。
なおディアのことを可愛いと評するのは、夫であるフランと、妹を溺愛してやまない彼女の兄の二人だけである。他はほとんどがディアの素顔を知らないうえ、彼女のアクが強すぎる性格のせいもあり、なかなか「可愛い」という評価には繋がらない模様。顔立ちだけは芸術品のごとき美貌であるのに残念すぎる。
「やっぱり人は外見じゃなくて中身か……」
「お? それ私に言ってます? 喧嘩売ってるなら買いますが」
「売ってないし買わんでいい。安心しろ、お前は可愛い。感性がおかしいくらいじゃ嫌いにはならん」
「褒めているのか貶めているのかはっきりしてくれませんかねえ」
これが新婚夫婦の会話かよ、と第三者がいれば突っ込んだかもしれないが、あいにくと家にはこの二人しかいないのだった。しかも彼らにとっては通常通りのやり取りであるため、どちらも疑問には思わない。
それはさておき、眼鏡である。このままではディアが家から出られない。気にせず外出することもできるが、やはり素顔を晒すことには危険が伴うだろう。
その一番の理由は、現在この帝国を治めている新皇帝にあった。彼の国がディアとフランの国を征服し、それによって二人はしばらく逃亡生活を余儀なくされていたこともある。隣国でアイザックと出会ったのはまさにその逃亡期間中でのことだ。それで眼鏡をかけて顔を隠せと口を酸っぱくして言われていたのである。
特に新皇帝とは、彼が皇太子時代からの因縁の仲だった。最終的にフランは彼と殺し合い、ディアは思い切り彼を刺すまでに至っている。
あれ以来、皇帝の中ではなにかの決着が着いたらしく、執拗な追跡の手はぱたりと途絶えていた。それでもまだどこに皇帝の手の者がいるか分からないので、素顔を晒して過ごすことには抵抗がある。
「俺が近くの街まで行って調達してくるのが早いな。ついでに予備の眼鏡も買ってくる」
この村に眼鏡を扱う店はないし、定期的に来る行商人が瓶底眼鏡を持ってくるとは限らない。となると、一番確実で早いのは、フランが言った通り他の街まで足を伸ばすことだった。
もっとも合理的であろうその判断に、しかし意外にもディアが「えっ……」と難色を示した。
「えっと、私はここで留守番でしょうか」
「そうなるな。……なにか心配なことでもあるのか? それならリオを呼んで……」
「い、いえ、大丈夫です。兄様を呼ばずとも、私は全然一人で平気です。ええ、本当に、あなたがいなくても私は最高に元気です」
動揺で手元が狂っているのか、ディアはパンケーキではなくテーブルをフォークで滅多刺しにしている。彼女の奇行にフランは首を傾げた。
ディアが意味不明な言動をするのはいつものことだが、今回のはちょっと違う気がする。どこが違うのかと訊かれても困るのだが、しいて言うなら表情がいつもと違う、かもしれない。
「ディア?」
できるだけ穏やかに声をかければ、延々テーブルを攻撃していた手がピタリと止まった。そしてそろりとこちらの様子を窺ってくる。
「……あの、私も一緒に行っちゃダメ、ですよね」
「…………」
結局、フランが一人で眼鏡を買いに行くという計画はお流れとなった。代わりに速達の伝書鳩を放つことで意見が一致する。宛先はもちろんアイザックだ。
もともと眼鏡を用意してくれたのは彼であるため、今回も彼に頼もうということでようやく話が纏まった。纏まったので、ディアの奇行も治まった。……どうやら寂しかったようだ。本人にその自覚はないようだけれども。
しかし考えてみれば、結婚してからは一度も半日以上離れて過ごしたことがなかった。確かにそれ以上長い時間離れていたらフランだって寂しいと感じてしまうだろう。テーブルを滅多刺しにしていたディアの気持ちはよくわかる。
「だがそうなると、眼鏡が届くまで外出しにくいな」
「じゃあしばらく私だけ昼夜逆転生活を送ることにします。深夜帯なら外に出たところで誰かに遭遇するという危険も少ないでしょうし」
「そうか。一緒に寝ることも食事することも減るな」
「……それは由々しき事態ですね。前言を撤回します」
なんなんだこいつら……とか言ってくれる第三者などもちろんいない。二人は大真面目に話を続ける。
「そういえばサラサエル博士に迷いの森の深部の調査を頼まれていたんでした。せっかくなので、眼鏡が届くまで森にこもるというのはどうでしょう」
「ああ、それなら一緒にいられるしな。深部は危険地帯だから村人は絶対に入ってこないし、ちょうどいいか」
迷いの森。別名、死の森。一度迷い込んでしまえば二度と生きては出られないとされており、自殺志望者が目指す場所としても有名である。
森の中には獰猛な大型生物たちが多く生息しており、よほど腕に自信のある者以外がそれらに遭遇してしまえば、普通は死亡、良くて瀕死。特に大熊王は天災級生物に指定されており、出会ってしまったら諦めるしかない。
植物に関しても毒性を持つものが極めて多く、森の中の空気自体がすでに毒を含んでいる。そのため毒の耐性がない人間は、あらかじめ解毒薬を飲んでおかないとやっぱり途中で死んでしまうだろう。
そんな危険な森の、それもカンテラの光すらほとんど届かない深部の調査を頼まれたのが、ディアとフランの二人組だった。理由は単純で、冗談かと思うほど戦闘能力が高いうえ、強力な毒に対する耐性も持っているからだ。
迷いの森の研究にのめり込んでいる博士が助手になってくれと頼んできたのもこの要因が大きい。そのくらいこの森で生き残れる人間が少ないのだ。
亡国の皇子と公爵令嬢。特殊な育ちゆえ、戦うことにも、毒を盛られることにも慣れている。そんな二人。
「でも今日はもう日も昇っていますし、念のため家から出ないで過ごすことにします」
「そうしろ。博士には深部調査を明日から開始すると伝えておく」
ようやく方向性が決まった。あとはできるだけ早く眼鏡が届くことを願うばかりだ。
そんなわけで、早速フランは博士のところへ行くために立ち上がる。伝書鳩も飛ばさねばならない。だが家を出る前に、来客を知らせるノックの音が響いた。ディアの肩がぴくりと跳ねる。
「……すみません、ちょっと寝室のほうに隠れています」
「ああ、俺が出るからお前は下がっていろ」
眼鏡なしの顔を村の人々に見られる覚悟はまだない。だいぶ親しくなってきた彼らの中に皇帝の手先がいるかもと考えるのはいい加減気が引けるのだが、念のためだ。ディアは申し訳なく思いつつも寝室へと引っ込んだ。それを確認してからフランは玄関の扉を開ける。
「あ、突然押しかけてしまい申し訳ありません、フラン様」
やってきた人物の顔を見て、フランは驚きつつも安堵した。
「ニールか。珍しいな、どうした」
彼はかつて皇宮でフラン付きの騎士として仕えていた男だった。つまりフランの素性はもちろん、ディアの素性も知っている人物だ。当然、顔を隠す必要もない。
とりあえずニールを中に入れると、彼は持っていた小包をフランに向かって差し出した。どうやらこの荷物を届けに来たようだ。
今でこそ比較的平穏な生活を送れているが、フランとディアの複雑な事情を考慮して、現在でも手紙や荷物といったものは第三者を通して送られてくることが多かった。
「チェザリアンのアイザックさんから、フラン様とディア様宛てにお届け物です」
「……アイザックから?」
「はい。なんでも『そろそろ予備が必要になる頃だろうから、予備の予備まで送っておく』とのことですが、心当たりはおありですか?」
予備。その言葉にフランは目を見開いた。まさか。
「ディア、ニールがアイザックからの荷物を届けに来た。中身を確認するからちょっと出てきてくれ」
寝室に向かって呼びかけると、隠れていたディアがすぐに出てきた。扉越しに話を聞いていたようで、驚いた顔で小包を凝視している。
「まさかとは思いますが……もしかして」
「もしそうだったら七色果実をダースで送ってやってもいいな」
二人の様子からして、心当たりがありそうだなとニールは他人事のように考える。実際、他人事だ。しかし。
「アイザックさぁあぁああああん!?」
ディアの悲痛な叫びに仰天した。ぎょっとしたニールがディアに目を向けると、なぜか彼女は床に突っ伏している。表情までは見えないが、今にも魂が抜けそうな有様だ。思っていたのとは違う反応に戸惑い、ニールは恐る恐るフランにも目を向けてみた。
「あ、あの、フラン様……」
「…………お前は気にしなくていい。ただ上がりかけていたアイザックへの好感度が急降下した。それだけだ」
氷点下かと思うほどの、絶対零度の声音だった。ニールは心臓をバクバクさせながらも、テーブルの上に広がっている小包の中身に目を向けた。い、一体なにが送られてきたんだ──。
「……って、え? 冬物のセーターやらマフラーやらじゃないですか。しかも手作りっぽいですね」
思ったよりまともな贈り物の数々にニールの気が抜ける。季節的に冬はまだ先だが、北国のチェザリアンは雪が降ると街道が通行止めになるので、きっと早めに送ってくれたのだろう。まさに凝縮された親切心である。
しかし、フランとディアの反応を見る限り、コレジャナイ感が室内に渦巻いているかのようだった。どうも期待とは違う代物が送られてきたらしい。
「いやまあ、包みの大きさでちょっと違うような気もしていましたけど……これはこれでいいんですけど……いいんですけど違うんですよアイザックさん……」
「あいつに非はないと分かっていても、これは精神的にくるものがあるな……」
アイザックの特技のひとつ、それが編み物である。かくいうディアもチェザリアンにいた頃に教わったりしていた。
だが、でも、しかし、コレジャナイという思いがよぎる。ディアは幻の血涙を流した。
「できれば眼鏡が欲しかったですアイザックさん……」
「眼鏡、ですか?」
「そうです、眼鏡です。実はですね――」
不思議そうな顔をするニールに、ディアは今朝の騒動について詳しく話して聞かせる。そしてそれを最後まで聞いたニールは、なんでもなさそうに提案した。
「そういうことでしたら、自分が一番近くの街まで行って眼鏡を調達してきましょうか?」
「え?」
「お目当ての眼鏡を探すのにどのくらい時間がかかるかは分かりませんが、遅くても明日には戻ってこられるかと。選ぶのは自分になってしまいますが、それでも良ければ行ってきますよ」
思わぬ提案にディアは一瞬静止し、そしていきなりニールの両手をがしっと握りしめた。これにはニールも目を点にした。
「ディア様?」
「あなたは救世主です、ニールさん。素晴らしい。同じ重さの金よりもあなたのほうがはるかに価値があります」
そんな大袈裟な……と思いはすれど、なんだかディアの目が真剣で怖かったため、ニールは曖昧に微笑むだけでごまかすことにした。
こうして眼鏡騒動は一応の解決を見たのであった。
ちなみに今回の騒動の一番の被害者はアイザックであり、せっかく親切心で手作りの品々を送ったというのに、好感度がダダ下がりになるという理不尽な結果となった。しかしこれらの品々は冬が来たときに大変重宝され、すぐに名誉挽回となるので結局は大した問題ではなかったと言えよう。
「ニールさんが戻ってくるまで、一日まるっと空いたわけですが」
「そうだな」
「博士のところに行くのは後回しにして、今日は部屋で私と仲良く過ごしませんか」
「乗った」
そんなわけで、その日は一日中ベタベタして過ごした二人である。たまにはこういう日があってもいい。ここぞとばかりにディアはフランにぎゅーっと抱きつき、思う存分甘えることにした。
「……ずっと二人きりでもいいですけど、いつか私たちにも家族が増えたりするんでしょうかね」
ふと思ったことを口に出せば、フランは「どうだろうな」とディアの頭をくしゃりと撫でた。
「子供は授かりものだ。俺たちの意思だけでどうにかできることでもない」
「そうですよねえ」
「まあでも、相応の努力を払わないと出る結果も出ないだろうし」
「……頑張るだけ頑張ってみます?」
「そうだな、今日は時間もあることだしな」
これまでずっと過酷な状況に置かれていた彼らが、やっと平穏な生活を手に入れて、そこにさらなる幸せが舞い込んでくるまで、あと少し。
亡国の皇子と公爵令嬢は、今日も愉快に暮らしています。
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