どんがらがっしゃん
頭の中をひっくり返したら、どんがらがっしゃん、とガラクタが降ってきた。
アイデンティティ、という言葉は有名だし、日常会話でも使われることがないわけではない。
10代後半から20代前半が経験するアイデンティティの危機は、エリクソンの発達課題などによって知られ、実際多くの人が実感をもってアイデンティティと向き合う青臭く苦い時期があったと思えるような、そういうものなのであろう。
しかし、その次の発達課題はあまり知られていないように思う。残念なことに、エリクソンによると、発達課題はその発達の度合いによって異なるものの、どの度合いにも存在することになっている。つまり、死ぬまで続いていく。
それでは、劣等感やアイデンティティ拡散との血みどろの戦いを繰り広げた10代後半を何とか乗り越え、社会に出て一端の「大人」として自立しはじめた僕らはどのような課題と向き合わねばならないのだろうか。薄々感じていることではあったが、エリクソン先生によると、それは「孤独」だそうだ。
親密な関係性を作ること。そのような課題を課せられて、何とか社会にこぎつけた僕らは、一人ぼっちでいることの辛さを思い知る。実際、辛いのだ。一人で生きるのは。アイデンティティとか高邁なことで悩めていた頃はよかった。いや、その時も苦しかったのは間違いないが、この孤独の苦しみはあまりにシンプルすぎて、どうも格好がつかない。ただひたすらに寂しいのだ。大人にもなって、それが最大の悩みなのだ。
孤独は人を饒舌にする。ボソボソと独り言を呟きたくなる。ボソボソつぶやいたところで何も変わらぬ。
友がみな、我より偉く見ゆる日よ。
友人が旅行にいったり、休日をBBQで楽しんだり、恋人と結婚について考えているというような話を聞くたびに、置いてかれていくような気持ちになる。啄木には、花を買ってやれる妻がいたが、僕にはいない。かつての恋人も知らない人と結婚した。僕はそのことに自分でも意外なほどに傷ついている。死にたいと思う。逃げたいと思う。こんな僕では誰かを幸せになどできないと思う。余計に独りでいなければならないのだと思い知ってしまう。
人生とはかくも辛いものなのか。エリクソンの予言通りに進む人生の危機のなかで、それを実感せざるを得ない。幸せになりたいのだが。幸せになりたい。青い鳥は、どこを飛んでいるのか。見つけたとして、手を伸ばしてよいのか。僕なんかにそれができるか。楽になりたいだけなのではないか。でも楽になりたい。
会いたい人はいるのだ。たしかに。友達だっているのだ。たしかに。でも襲ってくる孤独感。僕だけ周囲と時間の流れが違って、周りはどんどん人生が進んでいく。僕はどんどん臆病になる。愛しているを言えなくなる。それが一番の孤独なのだ。
こんな感情、片がつかない。仕方ないので、ここに放置しておく。