第21話・崩れ落ちる頂
精密なものほど僅かな狂いで破綻する。
それは先程までのミロンがそうであったし、これからのイサがそうだ。ぎりぎりの綱渡りで終始優勢を保ってきた……それが詰めと同時に一転する。イサの背後からの爆発音と振動。つまり正対するミロンからは状況が見えていた。
ほんの少し。わずかな姿勢の変化。それを見逃すほどにミロンという男は甘くは無かった。
サーレンとコールマーが決定的な一撃を加えようとしていた瞬間、振動でわずかにずれた位置。それを見逃さず一気に攻勢に出たのはミロンだ。真正面で戦う役を担っていたイサに徹底した攻撃は加えられた。
イサの左腕が浅く切り裂かれて、赤い血が舞った。
「矜持を捨てた……いや違う、最初から無かったのですか!」
「今更気付こうと遅い」
イサに振るわれたのはミロン得意の断頭剣技ではなかった。精密かつ精妙な剣技は、我流ではなくどこかの正調剣術であることを示す流麗さに満ちていた。
ミロンは確かに対水底の主を相手取るために、断頭を考案してそれまでの剣技を打ち捨てた。だが、それまでは? 第一位となる過程で使用していた剣技がミロンの頭蓋から蘇ってイサに襲いかかったのだ。
「化け物め……!」
「割り込むぞ、イサ!」
イサはそれを聞いて、わざとミロンに押された。ミロンが前に出たことによってサーレンとコールマーが後背から襲いかかることができるようになるはずだ。
事実、そうなった。サーレンの正確な槍さばきがミロンの頭部へと向かい、コールマーの鉄槌が背中を殴打せんと振るわれる。
しかし――槍はイサの剣のついでのように叩き返され、大槌は何もない虚空へと滑っていった。ミロンは背を向けたままで高位冒険者達の攻撃を完全に把握していた。〈暴塞〉の不可視の衝撃波すら見切られている。
「俺達では相手にならないとでも言う気か……!」
サーレンが歯噛みして叫ぶ。
ミロンはイサを仕留めることに専念しているようだった。対するイサはレイシーからの供給を受けて、魔物としての身体能力を引き出しているようだが、その状態でもわずかに上を行かれていた。ただの人間がどれほど鍛錬すれば、こんな剣境に至れるのか……それは才だけではない努力の証であり、敵対する3人にすら敬意を抱かせた。
もっとも、感想を抱けるのもそこが限界だった。剣の暴風がとうとう狼の爪を奪う時が来た。
炎を集中させた〈太陽剣〉で〈好愛桜〉を弾く。何気なく行われたが、大胆な賭けだった。そしてがら空きになった胴体に剣を滑らせた。浅い。イサは体を捻って辛うじて避けている。防具も耐火布製であるためか、炎を含めても致命傷にはならなかった。
だがそれで充分。東方剣術をつかうイサへの追撃、皮肉にもそれは東方でよく用いられる技だった。未だに戦闘意思を失っていないイサの手。その指が切られて飛んだ。
戦闘能力だけを奪う一撃。確実にトドメを刺しにくると思っていたイサの思考の裏をかいた一撃だった。
胸を裂かれ、指を失ったイサは膝をついた。
離脱させようとしたサーレンとコールマーは果敢に突撃したが、あしらわれてしまう。
先のサーレンの叫びは事実である。〈混交〉の加護により人間以上の身体能力を発揮するイサさえ倒してしまえば、ミロンにとって残り二人は多少強い程度でしかない。
「言い残すことはあるか?」
「流石にこれは予想外でしたね……何もありませんよ。真っ当な勝負に負けただけのこと」
頷いてミロンは一歩近づいた。予想外に食らいついて来た敵に確実にトドメを刺す。あるいはそれこそがミロンの敬意の表し方なのかもしれなかった。
「真っ当な勝負は貴方の勝ちだ」
赤い飛沫が吹き出た。噴水のように勢いよく……ミロンの喉から。
「あっはぁ。本当は刺した腹とかから出す予定でしたが、指を切ってくれて助かりましたよ」
「な……どう、って……」
失われたイサの指。そこから氷の槍が飛び出て、無防備になったミロンの首を貫いていた。浅黒い肌に突き立った無色の槍が徐々に赤く染まっていく。ミロンはそれを割って離脱しようとしたが、根を張られたように動けない。
「〈クーリ〉。氷柱を生み出す魔法……勿論、貴方は存在を知っていたでしょう。だが私が使えるとは予想できるはずもない。なぜなら実際に使いこなせているわけでも無し」
「そ……」
喉を貫かれたミロンは言葉を紡げない。今度はミロンが膝を付く側に回り、イサが立ち上がって見下ろした。
だが、現代の人間は魔法を使用することができない。そのことは知っていたのだろう。目でその疑問を訴えて来る。それに対してイサは嘲るように答える。
「我々が戦いに無縁な人々に比べて、非常に高い身体能力を持つ理由は、体内に魔法の力が充溢して無意識にしようしているからだそうです。魔力を放出するための穴が無い……水底の住人達はそう私に教えてくれました。そこで私は考えました。体内で魔法を使う分には支障は無いのではないか、とね」
ザクロースの知識を元に、肉塊のヴォルハールに教えを受けて考案した切り札である。ミロンを純粋な戦闘で倒すことはできない。確実に自分たちを超えてくる……それを前提にした最後の武器だ。喉を狙えば、水薬による回復もできない。
「口から出すとかはダメだったのか?」
「どういう訳か、無理でしたね」
会話に加わったサーレンは既に戦闘態勢を解いていた。ミロンが既に戦える体ではなくなっているからだ。氷柱は喉を突き破り、延髄を貫いていた。未だに剣を握っているのが異様なほどだ。
その剣もコールマーが叩き、床へと転がっていった。
喋ることも動くこともできずに、それでもまだミロンの目は死んでいなかった。しかしその目は自分を倒したイサを見ていない。見つめているのは遠く、今も暴れまわる水底の主だ。
「……くては」
行かなくては。いずれこの世界でする冒険と夢見て、定めた目標がそこにある。夢にこそ己の命を賭ける価値がある。
今にも死にそうな肉体も関係ない。幾らミロンであろうとも、喉を貫かれて呼吸すらできない。そもそも延髄を貫かれて脳からの指令は体に行き渡らない。
自分の血溜まりに沈むミロン。そこでイサは信じられないモノを見た。
動いている。ミロンは手を伸ばして、己を引きずって水底の主へと向かおうとしている。ナメクジのようにゆっくりと、粘液の代わりに血を地面に塗りつけながら。それでも確かに動いている。
ミロンを見下ろす三人は、呆気にとられてトドメを刺すことも、止めることも忘れてただ見ていた。見惚れているとさえ言える。この男はまだ諦めていないのだ。
傷の深さと流れ出る血の量。他の者ならとうに死んでいるに違いない状態で、夢と気力を原動力にまだ動くことを止めない。生物の限界を一顧だにせず、心のままに動く。
果たして自分たちはこれほどの熱意を持って何かに向かったことがあっただろうか? そう思わせるような光景だった。
ミロンはそのまま部屋の中央までたどり着き、そのまま死んだ。
最強の冒険者は確かに比肩する者もいない傑物だった。
勝利したはずの男たちに恐怖を植え付けて……