第17話・乱入者
ここが水底の最奥。
今はもう無いカルコサを遥かな時間維持してきた力の供給源。古代ウロボロス教の聖地にして中心地。恐らくは当時の聖職者でも入った者は稀であっただろうそこを、偽りにして真なる光が照らし出していた。
空間はドーム状であり、周囲は綺麗に円形を描く。縁には水が流れるための溝が掘られており、そこに今や地下都市中の水が集まっている。床は十字のようにも見える微かな盛り上がりがある。
壮大に感じる空間ではあるが、壮麗ではない。どこか空虚なガランした印象を受ける。
十字の、そしてこの空間の中央に立つミロンの他はここに誰もいない。ここで待ち受けるはずの水底の主の影も形も無かった。
しかし、ミロンは〈太陽剣〉を構えたまま動かない。黒い肌の求道者は何かを待つように静謐を保っている。その胸中に何が渦巻いているのか、外からでは推し量ることはできない。
ミロンは確かに待っているのだ。ここに居れば念願の敵が現れることを彼は知っている。
どれほどの深さがあったのか、ようやく縁に水が張っているのがわかるようになった。それと同時に奇妙な音が響き渡る。それまで場を満たしていたのは水が流れ込んでくる音だった。それが段々と荒々しい音へと変わりだす。さらに耳を澄ますと何かが擦れるような音がある。
その擦れるような音は次第に大きくなっていく。しばらくすると縁の水が回転を始め、次第にそれは飛沫をあげるほどになった。擦れる音は止まない。
縁の一点……丁度真北をミロンは見据え続けている。
飛沫どころか大波のように、水が盛り上がり何か巨大なものが浮上した。それは生き物のように見えた。鱗を持ち、幅は人二人分の身長ほどはあった。顔の部位を最後に出し、その姿を悠然と現した。
巨大な蛇……としか言いようがない。色は黒と見紛うような深い深い青。はみ出た牙はいかなる名剣よりも鋭そうで、鱗は未知の金属であるような光沢を放つ。しかし、その瞳は賢者のように穏やかであった。
尾は見えず、全長がどれほどあるか見当もつかない。
「水底の主……」
それを見たミロンの口から思わず、といったふうに声が漏れ出た。そこには恍惚とした響きがある。それも当然だろう。これまでに数多の魔物を屠ってきたミロンだが、彼にとって目標となる敵はこれが初めてなのだ。待ち望んでいた敵手にミロンはもはや愛すら感じていた。
『ああ……長い、長い夢を見ていた……地上の王の夢だ……』
余韻に浸るようにゆらゆら揺れる水底の主。驚くべき、否、これほどの存在ならば驚くに値しないか……彼あるいは彼女は口を利いた。頭に直接響く感覚を伴う、大きくも小さくも感じられる声。
『永劫を願う愚かで、甘美な夢……次へと踏み出せぬ、引き伸ばされた生など苦痛でしかあるまいに……』
水底の主は地上王を哀れんでいる。己から力を吸い上げた不敬に対する憎しみや怒りは感じられない。主からすれば死は次の生へと進む円環であり、最初から永遠なのだ。
にも関わらず地上の王は神をも恐れぬ手段をもってしてまで、現状の維持に腐心した。それに対して水底の主は複雑な感情を抱いていた。それは憐憫であり、見下しであり、そして愛しさでもあった。
神の眷属たる自分を縛り付けさえして、夢を叶えようとする……それこそ地上王が懸命に生きた証。彼はその果に旅立った。父母たるウロボロスの理によって、次へと向かったのだ。それを嘉せずしてどうしよう? それが蛇の考え方だった。
慈愛に満ち溢れているようにも聞こえるが、地上王自身の信仰なぞ気にもとめていない。世界はウロボロスの教えで動いていると疑ってもいない。水底の主はあくまでもウロボロスの眷属だった。
焦れたようにミロンが声を張り上げた。無視されるのは耐えられぬとでも言うように……
「水底の主よ! 古代の王にして、無限の蛇に連なる者よ!」
『おお……懐かしい響きだ。フゥーム、小さき者……ニンゲン……そなたらのことを忘れたことはない。だが、その祈りの声も絶えて久しい。そなたは何を求めて、ここへ来た?』
「未知の達成を! ゆえに、供物を捧げる!」
『ホウ……だが、我ら蛇神に仕える者にとって多くの物は価値を持たぬ。ニンゲンが一体何を捧げる?』
「死を! この私が貴様を殺し、蛇神の御下へと送り込もう!」
奇怪な光景だった。巨大な蛇に対して人が声を張り上げている。家さえ丸呑みしそうなほど巨大な蛇にだ。しかも、その内容は挑発にしか聞こえない内容だ。
だが、水底の主は目を細めて。シューッというような音を何度も立てた。分かりにくいが、笑っているのだ。
『……至上の供物だ。しかし、そなたはそれが意味することを知っているのかを問うておきたい。我ら蛇神の子、蛇神に仕える者ども。いずれも死を尊びはすれども、甘受はしない。つまり、そなたは……』
「……貴方と戦うことになる。元よりそれが我が本懐。我が冒険」
『よかろう。我が名は無いが、そなたの名前を聞いておこう』
「ミロン。貴方を討ち、この地を制覇する者の名だ」
返答は息を吐き出すような奇怪な音によって成され、ここに古代の闘争が再現される。人が神と共にあった時代。それが稀代の冒険者によって蘇るのだ。
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大蛇が身じろぎする。それだけで振動が走り、金属の鱗が床と擦れ合って不快な音を立てる。
体格差を論じるのも馬鹿らしくなる対決だが、ミロンは冷静にこれまでの経験を記憶から引き出している。魔都の外にも魔物は存在した。数こそ少ないものの、ドラゴンなどの強大な存在も生き残っている。
それでも容易なことではない。竜種などは高位冒険者が何十人も集まって討つ相手だ。本来、ミロンであろうと一人で相手をするような敵ではない。だが、それこそがミロンの望み。初めて出会う明確に格上の敵を相手に、ミロンは不思議な充足を覚えている。
水底の主が体を揺り動かす。それが掠りでもすれば重症は免れない一撃を、ミロンは慎重に回避する。大きく避けようとする肉体を意志力で抑えて、僅かな動きで避け……〈太陽剣〉の一撃を見舞う。かつての大剣ではないため、断頭の業も迫力に欠けるように見えたが、遺物としての性能が段違いに上昇している。大蛇の鱗であってもその炎熱とミロンの膂力が合わされば、バターのように切り裂ける……はずであった。
金属音を立てて弾かれる〈太陽剣〉に、流石のミロンも驚愕の色が顔をよぎる。〈月光の君〉を装着した〈太陽剣〉は、最上位ですら低い評価とさえ言える別格の遺物なのだ。
それに対して水底の主は笑うような音を喉から鳴らした。
『その顔からすれば、力に対する理解が甘いようだな。火が水で消える、というような単純な話ではない。いいや、もっと単純と言ったほうが良いのか……その剣は強大ではあるが、やりようによっては対抗することが可能となる』
「そうか……!」
古来より多くの宗教で蛇神は登場する。それが意味するところは広範に渡るが、その中には輪を描く蛇は太陽を守護するというものがある。遺物はそうした要素まで影響してくる。
ミロンはいち早くそれを理解した。そして然るべき時に使えば、〈太陽剣〉も有効足り得ると確信した。蛇は相反するものを象徴することがあり、太陽を守るとともに喰らおうとする凶兆でもあるのだ。
水底の主は予想通り、魔法にも精通していると見て良かった。何らかの手段で防御を施し、〈太陽剣〉を無効化したのだ。同時にそれは〈太陽剣〉への畏怖も示している。
再び迫りくる蛇の尾。それを前にミロンは深く意識を集中して、〈太陽剣〉から力を引き出す。炎や熱ではなく太陽という要素自体を表面に出す。そうすれば主の鱗をも切り裂ける。
壁を振り回すような一撃。それを再びミロンは紙一重で躱して……
「させませんよ」
「!?」
突然の後ろからの攻撃。それを避けたために、ミロンは蛇の尾によって弾き飛ばされた。
咄嗟に出した炎の鎧によって致命傷は免れたが、壁にめり込むほどの勢いだった。
己の“冒険”に水を指すような一撃。まるでこの時を待っていたかのように、的確さを誇っている。このような一撃を繰り出せるのは技量的にも思想的にも一人しかいない。
「貴様……生きていたのか」
「寂しいので混ぜてくださいよ。まさか嫌とは言いませんよねぇ? なに、たかだか敵が一人増えただけのこと」
そこにいたのは銀の仮面を被った黒衣の男だった。狼を模した浄銀の面……地上で確かに倒したはずのイサという人型の狼がそこにいた。
次いで頭上の穴から、同様に仮面を付けた集団が降りてくる。
「訂正します。増えたのは50人程ですね。まぁ大して変わりはしないでしょう? 貴方は今までもずっと一人だったのですから」
イサは大人になった。だが稚気を残した大人というものは最も厄介な存在になり得る。
かつて味合わされた敗北を叩き返すために、最高の機会を狙っていたのだ。歴史に残る決闘をただの乱闘へと変えるために、三つ巴の戦いへと持ち込んだ。