第7話・再会混線
蛇の仮面を付けた女の後ろを、人狼が歩いていく。
この地に相応しい異様さだったが、それにしても人狼の姿は奇妙である。足は四足獣に似ておらず、人のそれに近い。上半身が肥大していて、特に腕部の盛り上がりは凄まじい。
特に右手から突き出した長い爪は、刀剣を思わせる形と長さを持ち、明らかに自然と生きるものではないと信じさせてくる。全身を包んだ黒衣もかえって不気味さを増大させている。
今や半魔物と化したイサだ。彼は黙って女のローブ姿を追いかけていく。
足取りは酔漢のように危なかっしく、彼の精神状態が正気では無いことを伝えてくる。しかし、彼を止める者はいない。仲間たちとは離れたきりで、またイサの現状を知るわけでもないのだ。
もっとも……蛇女に従っていけば嫌でも今のイサを知ることになるだろう。
どこへ……何へと導かれていくのか。朧気な意識のイサでも分かることだった。
『『……』』
内界の声は沈黙している。
時折助言めいたことをするが、基本的には彼らは死人である。イサがそれを望むのならば止める道理もない。明らかに蛇女の手の内といっても、それが良い方向へと進まないと断言できない以上は尚更だった。
踏破するだけなら容易い水底の街を、イサは道と導きに従って歩き続けていく。
どこをどう歩いたか……近道をせずに歩く遺跡はまるで迷宮のようだった。ぐるぐる、ぐるぐる、同じ場所を回っているような感覚さえ覚える。
時間の感覚さえも曖昧になった頃に、イサは灯りを見つけた。
穏やかで周りを照らす光。それでいて破壊の意思を感じない光は、イサが忘れかけていた人を暖めるための焚き火だった。誰かがそこで暖を取っているのだろう。
優しい赤色を虚ろな目に宿したイサの胸中に多くの感覚が浮かんだ。それは味覚であったり、嗅覚であったり、様々な形として思い出された。
宿での朝食は多めに摂り、準備を整えて外に出れば荷物持ちが既に待っていた。すると横から年季の入った甲冑姿の男が苦笑しながら合流する。首を振る彼が指差した先にはアイツが寝ぼけた顔で目をこすっているのだ。
果たしてその光景をイサは現実と認識できていたのか?
「お兄さん……?」
その声が本物だと分かっていたのか。
判然とする直前に、蛇女がイサに寄り添うように何かを突き刺した。
/
ぐげっ。
イサの口から今の外見に相応しい苦悶が飛び出した。イサ自身、痛みに慣れている。しかも半魔物化した現在では大怪我でもさほどの痛痒は感じまい。にもかかわらず内部で暴れかえる反応に悶えているのだ。
イサの腹部には筒と針を組み合わせたような物が刺さっており、筒の中身は既にイサの体内へと流し込まれたようだ。これに一部の者は見覚えがあるだろう……デメトリオが最後の戦いで使った道具と同じモノである。
内部に液体を流される不快さを振り払い、同時に報復を兼ねて腕を振るう。単に押しのけるような動作だが、並外れた豪腕になった現在のイサならばそれだけで素人は死ぬ一撃となっている。
しかし、蛇女は逆らわなかった。腕に払われるまま、凄まじい勢いで飛んでいく。腕の勢いを利用しての回避であり、イサとレイシーから離れるためである。
凄まじい軽業を使って衝撃を殺したが、豪腕から起こった風圧で蛇女の仮面がずれる。フードが外れる。それを見て人狼は吠え立てた。
『貴様、貴様か。やってくれますね! アリィィィシャナル! いつから、こんな……!』
見下ろすように家屋の屋根に立つ女。白みがかった儚げな金髪。人形のように整った顔立ち。
魔都カルコサにあったウロボロス教団の尼僧が長、アリーシャナルが相変わらずの何も感じない目で二人を見下ろしていた。眼下で苦しむ人狼も、駆けつけた凶刃にも表情は変わらず。しかし、その瞳に少しだけ疑問の光が宿った。
「……? なぜ、私の名を……? ああ、姉妹の誰かに会いましたか。記録からすれば……管理用の私か。貴方が会ったのは別の私ですよ。私も間違いなくアリーシャナルですけれども」
『な、に、を……』
「そのあたりの事情はどうでもいいことです。そして、先の質問ですが……いつからというのは私も知りません。この街にやってきた時に言い渡された任務ですので」
事実として、このアリーシャナルは何も知らなかった。ある条件が満たされた人物を暴走させるためだけに配置された駒で、彼女自身も裏側に興味は無かった。
アリーシャナルという存在は役目を果たせばいいだけの存在であり、彼女もまたそれを受け入れている。
徹底して己の意を乗せない。失敗しようともどうでもいい。だからこそ彼女も、世界中に散らばる彼女達も、完璧に任務を果たしている。全ての人に疑われるが、全ての人の裏をかける。それがアリーシャナルという女だ。
「それでは、これで……ご機嫌よう……」
言い終わると同時に、第二位冒険者という肩書のアリーシャナルは首を刎ねられた。
弱かったわけではなく、一瞬であり得ない距離を詰めてきたレイシーという存在が規格外に過ぎた。“増強”の力を得ているとは言え、隠密行動を主体としたアリーシャナルの体術では真っ向から勝負は不可能だったのだ。
「おや」
それは始めて見せるアリーシャナルの表情だった。ほんの少しだけ目を開いているのは驚きを現しているのだろうが……自分が表情を浮かべていることに気付かないまま、アリーシャナルの胴体は地面へと倒れ伏した。
「お兄さん!」
そして命を奪ったレイシーもアリーシャナルのことなど既に忘れていた。
銀の人狼をイサであると判別できるのは、レイシー自身が人間離れした要素を持つからこそだろう。最初は流石に半信半疑であったが、声を聞いてからは確信に変わっていた。
しかし、駆け寄ろうとした足は地面に縫い留められるように止まった。
止めたのは再会を待ち望んでいた相手から発せられる暴威の匂いだ。
「おい! なにがあったクソガキ……って魔物か? 見たことが無いやつだが……」
「ミミズ共に勝るとも劣らない気配を感じるな」
夜中の騒ぎに、サーレンとコールマーも遅れて駆けつけた。こちらは単純に見知らぬ敵への警戒で必要以上に近づかない。武器を構えて、じりじりと移動する。レイシーを加えればイサを中心に三角形で包囲する形だ。
「おい、レイシー」
「お兄さんなんだ……」
「あん?」
「これがお兄さんなんだよ! 殺しちゃダメだよ! なんとか止めて!」
「なんとかってお前……! それにこれがイサってマジかよ……っ、何を根拠に!」
「ボクには分かるんだよ! 今のお兄さんはボクとおんなじなんだ! 混ざって混乱しているところに……」
「言い合いはそこまでだ。殺しては駄目どころか……」
狼の遠吠えが響き渡る。
銀の狼は目を比喩ではなく、赤と緑に光らせて姿勢を異常に低くしている。黒衣の上からでも筋繊維がはちきれそうな程に起っているのが分かる。
この戦闘態勢と共に伝わるのは、圧倒的な力の気配。
「我々が死ぬかも知れん」
アリーシャナルに注入された何かはもう回りきったのか。イサは完全に正気を失い、言葉すら失っている。
コールマーが言い終わるのと同時に、地面を蹴る。ただそれだけで水底のぬかるんだ地面が陥没した。
時は夜。人狼伝承の通りに、満月に映るように異形がはね飛んで冒険者へと襲いかかるのだ。




