第6話・楽園の蛇
遺物と呼ばれる物がこの世界にはある。
失伝した技術で作られた物や、来歴不明な物。それらの中で常識ではあり得ない効果を発揮する物を、遺物とヒトは呼んでいる。
例えばイサの〈好愛桜〉。製造時は通常のカタナであったが、製作者の妄執が宿っている。発揮される効果は形の有無に囚われずに絆を切り裂くこと。
例えばレイシーの〈蛇神の顎〉。死が存在しない教義の下で罰を与えるために作られた否定の神秘。効果は不死の否定。特に特定の宗教関係には発揮される力が増大する。
例えばデメトリオとカレルの〈太陽剣〉。例えばミロンの〈月光の君〉。魔都に集った物だけでも、これだけの数がある……そもそもこれが偶然ではないのかもしれない。
いずれも垂涎の一品だが、これらの遺物を所有している者達ですら知らぬ事実がある。
遺物には意志があり、主を見定めることがあるのだ。
イサ、レイシー、カレル、ミロン。4人が4人とも遺物を持つに相応しい実力や人格を備えた者達であることからもそれが分かる。遺物が雨のように誰に対しても力を与える物ならば、このように似合いの組み合わせばかりにはならないはずだ。
人が設けた時代とは別の、世界の変わり目。そこにあるべき存在として、これらは集ったのだ。その境目に何が起こるのか……誰も知る者はないはずだった。
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人狼はぬるりとした床石に膝を付いて息を荒げていた。
その視界は徐々に狭窄して、水底の景色を奇妙に映し始めている。ミロンも特に注意を払っていなかったが、人狼の目は人間のそれだったのだが、今や獣の瞳に近づいてきていた。
瞳が縦長になり、白身を血走らせる様は彼を真実の獣に見せていた。
『なぜだ……なぜ、なぜ、勝てない……!』
締まらない構造の口から涎が落ちて、床をさらに滑らせた。
人狼……いいや、もう濁すまい。イサ達はここまでミロンに常に敗北を喫していた。あらゆる性能を考えても、これほど一方的な結果になるのはあり得ないことだ。既に十回挑んでいるのだ。ミロンがどんな怪物であれ一回は勝利できるはずの回数をこなした。しかし結果はご覧の通り、イサは無様に地を這っている。
地を這う……これまで神出鬼没そのままの出現をしていた銀の人狼には似合わない姿だ。それはイサがこの姿の生物として、世界に認められつつあることを示していた。
不安定な存在であった強み……死というモノからすら縁遠い性質を利用しての無敵期間を、イサは使い果たしてしまった。存在すらあやふやだからこそ遺物に断ち切られても復活が叶った。だが今や他の魔物同様に殺せる存在へと成り果てた。この状態でミロンに再度挑めば……
『だから言ったのだ、銀狼よ。今のままでは無理だと』
『……』
『黙りなさい。黙りなさい! この肉体は私のものだ! 全てを手に入れるのだ……!』
奇妙だった。人狼の肉体からイサ以外の声も発せられている。
諌める声はザクロースのものだった。思念を伝えるように音だけを出しているのは〈好愛桜〉だった。
あの日……鐘が切り裂かれ水底の力が溢れかえったその時にイサはまだ生きていた。生死の際で使える物は全て使って生き延びたのだ。〈好愛桜〉の力と存在。ザクロースの灰。これら2つはその中で特に強くイサと結びついて、イサを完全な水底の住人とするのを防いでくれた。
結果として境界に踏みとどまったイサだが、そのまま元へと帰ろうとはせず、その状態を利用しようとした。それこそが人狼の姿と力だったのだ。イサからすれば、水底の力すら手に入れたい宝であったゆえの選択で、それは上手く行っていたと言える。
『おのれ、水底の神め……私を縛り付けようなどと……! 私はお前の民では無いのですよ! むしろ貴方を食らって先に行くのだ。その私をよくも……』
『まぁそこには同意しよう。我が仕えていたのは双頭の蛇だからな』
生き物として、いいや魔物として存在を確立してしまえば結果は明らかだった。他の魔物やミミズ人間同様に、水底の住人の仲間入りをすることになる。それが意味するところは水底を統べる存在への従属だ。
それはイサにはとても認められることではない。全てを手に入れようとする男が誰かの所有物になるなど、たちの悪い冗談にもほどがあると信じている。
それはザクロースも同様だ。
カルコサの民が信じていたのは無限の蛇ではなく、双頭の蛇だ。元は無限の蛇から分化した宗教で、仕えるべき神は実在しないと知っているが、それでも長年の宿敵に膝を折るのは許せない。
二人の協力関係がぎりぎりのところで、完全なる魔物化を防いでいる。
だが、だからといって何になるのか? イサは全てを手に入れるというが今の状態を維持できたところで、多少強力になって状態に過ぎない。ミロンに勝てないことは実証済みであり、加えて言えば元の人間社会へと戻ることも不可能だ。
『そもそも全てを手に入れるなど不可能だ。何かを手に入れることは何かを失うことだ。菓子を購えば、金は減る……子供でも知っている道理だ。それを受け入れる勇気すらないから、このざまになったのだ』
『黙れ……黙りなさい。力……力があればどうにでもなる。矛盾など存在しません……!』
足掻くように立ち上がる。
力を手にした代償に、多くを失いながら人狼は再び石床に爪を立てる。それは彼からすれば多くを手に入れるための選択だったが、余人から見ればただの暴走への前準備だった。
「ええ、もう一度立ち上がってこその貴方でしょう。内の騎士の言葉など無視すれば良いのですよ」
『何……?』
同じ敬語だが、声は女のものだった。
まさに狼の域まで拡張された感覚にも察知されずに、蛇の仮面を身につけた女が立っていた。その姿はゆったりとしたローブで覆われて、細かい想像を難しくさせていた。上層区画においてレイシーに協力した蛇女その人だが、イサは彼女を知りはしない。胸元の階級章で何者かは知れるが、それだけだ。
『貴方がもう一人の神青鉄ですか』
「ええ、そうです。初めましてイサ殿」
『この姿を見て、私の中身に気付く……? 貴方は一体……いや、この気配はどこかで……』
人の気配はそれぞれ微妙に異なる。イサのような達人なればその違いを判別できた。
だがイサが連想した人物と蛇女はかなりの域まで同じだが、微妙な違いがある。それがイサを混乱させた。
「貴方が本来の力を発揮すればミロンを倒すのも決して不可能ではない。ですが、それには必要不可欠なモノがあります。それを今一度見いださなければならない」
『モノ? あのミロンを道具の違いで打ち倒せると? 馬鹿なことを……そんな強力な遺物が都合よく転がっているとでも言うのですか?』
「今一度、そう申し上げたはずです。貴方はそれを既に見ている。触ったことすらあります。さぁ思い出して……貴方が本当に大切にしていた宝物。その宝物のために犠牲にした物があったはずです……」
強力な遺物。
イサにとって大事な宝物。
それが何を指すか……誰を指すのか。一人しかいない。
なぜかこの姿になってから一度も思い出さなかった人。この地の全てを楽しんだ後に手に入れると、互いに誓った人。思えば今の自分はあいつと同じなのだ。
三者混交する自己を固定化することは可能だ。それはもう既に見たことがあったではないか!
『銀狼よ……この女は危険だ。従うべきではない。……? おい、聞こえているか? おい……』
「さぁ案内しましょう。あの方もまた貴方との再会を心待ちにしている。少しばかり早まりますが、約束も果たせますよ」
その仮面の吐く堕落の誘いに、イサは……