青と銀の涙
宙に浮かぶ蜂によく似た生物が辺りを巡回していた。
もっとも大きさが人の頭ほどあり、さらには針がある部分に剣が生えているのを蜂と言えるかどうかは怪しい。
空飛ぶ魔物は厄介な存在である。強いというよりは厄介なのだ。人に羽は付いていない以上は、相手が逃げを選んだ場合に追う術はない。英雄譚に付き物の竜退治が現在でも賞賛されているのは、そうした事情もある。
その径路を避けるように、イサとレイシーは進んでいく。恐るべきことに二人の足取りはジグザグと方向性が見えないが、迷いなく目的地へと導かれていっている。二人共に相手の視界を思考に入れながら、移動しているのだ。
年齢に見合わぬ戦闘経験を積み重ねているイサはともかくとして、レイシーに至っては素でやっているらしく足取りは街並みを楽しむ子供のソレだった。
「蜂か。本物の蜂のほうが厄介な気がするな」
「そのまんま剣蜂とか呼んでる人もいるらしいよ。戦ってもあんまり面白くないけど、剣が高く売れるから下層では人気なんだ」
イサが言うのはサイズが大きくなった分、対処しやすくなったということである。レイシーは面白いかどうかで敵を判断しているらしい。
意見も考え方も食い違っているが、戦わないという方針では一致していた。
それまでは手探りだった状況が、レイシーと組むことで変わった。それはイサも認めざるを得ない事実だった。
ここから上の階層へと上がる門を見出すこと、そしてそこに拠点を設けるという目標ができたためだ。目標ができたのならば、戦うべき時とそうでない時はわきまえる必要があるのだ。
目標と簡単に言うが、拠点を作るという点は非常に難題だった。ある時間になればどこかへ行き、ふとした時に再び現れる……この街の魔物は擬似的であれ、不死に近い。レイシーの勘では補充なり修復されているだけで、きちんと死亡してはいるとのことだが証拠にならない。
拠点は物資集積所のような形になるだろう。それはいいが、余程に吟味しなければ敵のど真ん中に作る羽目になる。ここに来てイサは“真面目組”が自分を勧誘してきた意味が飲み込めてきていた。
単純に人手が足りない。それも質と数が同時に要求されるのだ。噂の頭目である第一位はさぞ頭が痛かろう。
「ああした魔物が食糧を奪う可能性は?」
「んー、多分だけど無いんじゃないかな。人を食べたりはするけど、パンとか食べてるのはみたことないや」
曖昧な返事だが信じる他は無い。
この街の外の世界では魔物など稀だ。戦闘に関しては名の知れたイサですら多い時でも月に戦う数は5本の指で数えられてしまう。
その経験では魔物は家畜を初めとしてあらゆる物を貪欲に食らっていたものだが……そうしたところでもこの街の魔物は普通とは違うようだった。
「結局……この街が何なのか? あの魔物達は一体? それを知るには進むしか無いということですね。面白い」
景気づけにすれ違った蜂に鉈を一閃する。胴体が切断されて、空舞う剣蜂はバランスを崩した。
そこに申し合わせていたように、レイシーのハルペーが静かに振り下ろされて縦にも分かたれる。自然の蜂のように警戒音を出そうとした顎を断ったのだ。
「……いきなり、なにしてるの? 避けて穏便に行こうとしてたんじゃないのかい? 音は出さなかったからすぐにじゃなくても臭いで集まってくるよ」
「さっさと進みたくなった、その気分の現れですよ。全部、切り刻みながら最短で行きましょう!」
「うわぁ……ボクに指示してくる人、初めて見た」
信じられないものを見る目を向けてくるレイシーだったが、すぐに今度は笑顔を見せる。自分と同じくらい変わった人間がいることが嬉しくてたまらないというように。
冷たい美貌に熱が灯る様を見れた者は、誰もいない。
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次の区画、次の区画……
殺しては進む。その間の小休止でとうとうイサは前言を撤回しそうになる。
「広すぎる……なるほど、これは私が甘かったですね」
「だよねー。控えめに言って急いで進むとかバカのやることだし。つまりお兄さんはバカだよね」
堅焼きのパンを小動物のように齧るレイシー。こいつも飯を食うんだな、と当たり前のことに安堵する。
人は飯を食わねば生きていけない。そして小国に匹敵する広さの遺跡……それも、最も距離のある外周部ではどうしても休憩が必要になる。
「単独行での最高記録はどこまで?」
「ボクでも門から真北ぐらいだったね。つまり一周するには……」
「どうしても拠点が必要になる。むしろなぜ今まで立案されなかったのかが、不思議ですね」
「先駆者が第一位のおじさんだから、自分を基準に考えてたんだよ。あの人なら目標まで後少しってところまで一人で行けちゃうから」
分かっているなら、先に言え。そういいそうになる口を抑える。
これもまたレイシーがあえて黙っていたのだろう。体験しなければ分からないことの一環だからだ。事前に気付かなかった己が文句を口にすれば、それこそ恥の上塗りである。
しかし……第1位の立案か。
彼? の考えでは高位冒険者達がルートを確定してから、拠点を作ることになっていた。ある程度は進んだ現在ならば分かるが、無理難題だ。
それもこれも自分と同じレベルを他者に要求していることから来ており、当人にとっては実に合理的に思えているようだ。
「レイシー。貴方はその第1位の計画に乗ったままでいるつもりですか?」
「分かっているのに聞かないでよ、いやらしいお兄さんだ。ボクは踏み台じゃないんだから、言われるままに踏まれるつもりはないよ。だからお兄さんと相棒になったんじゃないか」
こちらも頷いて返す。
如何に第1位が優れた人物だろうが、私はその道具ではない。言いなりに無理をする痩せ馬になるなど御免こうむる。
会ったこともない人間を勝手に判断する私こそ愚かなのだろうが、嫌なものは嫌なものである。
頭を巡らすが、当然の結論しか出ないことに自身で頷く。
ここでは自分は初心者。それを忘れてはならない。ならば趣味に合わないことでも試してみる価値はある。
つまりは普通の活動である。それをこそやったことがない。恐らくはレイシーも同様だろう。
「予定を変更しましょうレイシー。我々は逆に金を稼ぎ、その上で他の冒険者を勧誘。そして、それから拠点を作ります」
「仲良しこよしごっこかぁ。嫌だけど仕方ないよね」
妙なところで気の合うヤツである。
馴れ合いよりは競い合いの方がマシだと今までは考えていたが、この街に来て主役にならないまま終わるなどと納得が行くはずもない。
使える手は全て使う。そして使える駒もそうだ。
「この街の高位冒険者で、他に協力関係が結べそうなのは?」
「浄銀より上なら難しいんじゃない? あっちからすれば近いボクらに乗っかる義理は無いし。むしろ自分で立ち上げてきそうだね」
「気の長い話になりそうですね」
「……ボクがいない方が話が早く進むと思うけど? ボクってなんか嫌われてるし」
「嫌いかどうかはこの際どうでもいいです。貴方は少なくとも有象無象100人より使える。私より強いのは腹が立ちますが、それだけに申し分ない」
実際レイシーが避けられているのは、この僅かな間でも分かっている。
行動もそうだが、美しさに隠れた部分にこそその本当の理由があるのだろう。だが、それは私には関わりがないことだった。
「貴方の方で気が変わっていないのなら、このまま使い倒させて貰います。……レイシー? なんですか、なぜ泣いているのですか?」
「え? 泣いてる? ボクが? そんなはずは…」
頬を触って確かめた自分の手を見てレイシーが呆然としている。確かにそこには水があった。人にある嘆きの泉から湧き出す水が。
「なんだろ、コレ? おかしいね?」
「……ええ本当に、おかしな人ですね。それでも貴方が強いことだけは確かですよ」
なぜだか、奇妙に疼く内心。
自分でも良くわからない気分を持て余す私の前で、レイシーはいつまでも笑顔のまま泣き続けた。
「えへっ。あんまり休めなかったね」
「……帰るか。金になりそうなのはありったけ拾って」
帰る。あの門の区画が既に私の家なのだろうか?
故郷と我が家という言葉だけが遠かった。
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磨かれた剣技とそれなりの学をもつイサだが、意外なことに武人の家の出ではなかった。イサの家は神職にあたる。剣に纏わる遺物を管理するのがイサの家の役目であった。
母は遠く東の果てにある国の生まれらしい。ある程度成長してからそれを知ったイサは、厳格な父がどうやって母と出会ったのかまるで見当がつかなかった。
イサが剣に親しんだのは、家柄としては当然の流れだったのだろう。
様々な書物に混ざって、曰く付きの剣の数々が近くにあったのだ。戦士や英雄に憧れを抱くごく普通の少年だったイサは徐々に剣に傾倒していった。
実際に剣を振るうようになったのは、病がちな母が活発な息子が動く姿を好んだからだ。イサ自身は自分が活発で快活などとは言えないことは理解していたが、母を喜ばせるのは純粋に嬉しいことだった。
その年月の果てにイサはある剣を手に取ってしまった。
母の生まれた国のカタナ。母の国の剣術を身につければ、母がさぞ喜ぶだろうと思ったのだ。
しかしそれは隔離されていた呪物とされていた物であり……イサは名字を失った。
『ごめんなさい、イサ。可愛い我が子が、こんな私のせいで……』
そんな顔をさせるつもりは無かったんです!
叫ぶが母の姿は酷く遠かった。
イサは己の声と、頬を伝う感触で目覚めた