第26話・最後の階層へと
血特有の粘り気が甲冑を覆っていく。蛇神の顎は胸甲を引き裂いて、その奥の臓器までも傷付けていた。デメトリオが負った傷は誰が見ても致命傷であり、そしてそれを誰よりも実感しているのはこの騎士だ。
「さすがは……レイシー様……私が叶う相手ではありませんでしたな……」
「まだ行けるでしょ?」
その言葉には苦笑で返すしか無かった。
蛇神の顎はかつて不滅を信奉するウロボロス教団において処刑用の祭具だった遺物だ。このハルペー状の大鎌によって付けられた傷は水薬などでは回復せず、自然回復に任せる他はなく、そして戦場でそのような暇はない。事実としてレイシーとの戦いの間に甲冑に仕込んでおいた回復の水薬も何らの効果を発揮しなかったのだ。
そして灰騎士のように遺物でなければ殺すことが出来ぬ相手には特に効果が見込める。それがこの先どれほど力になるか。魔都を統べる地上王すらもあるいは……
「まぁ最早、私には関わりのないこと……カレル」
「む」
「ウロボロスに追われる覚悟があるのならば、持っていけ。お前の剣は溶けてしまったからな……」
カレルは無造作に太陽剣を放り投げた。壊すも使うも、返そうが売ろうが好きにせよというわけだ。
教団から貸与された遺物に対しての扱いから、デメトリオの心が見えるようだ。デメトリオは教団の導きにただ従ってここまで歩んできた。自分の意を他者に預けていた年月のうちに、好んでやっているのかどうかすらも分からなくなっていた。
「よくよく武器を変える男になってしまうが、ありがたく使おう。礼を言っておく」
「……」
もう返す言葉を口にする気力もないのか。デメトリオはなにか奇妙な顔を浮かべながら、両目を閉じつつあった。
誰が知ろう。この最強の聖騎士が今まで礼を言われたことが無かったことなど……眠りにつく前にそれを知ることができた。それが幸福かも判断がつかぬままに、瞼は落ちた。
眠りと死はよく似ている。
うつろに落ちていく感覚と、穏やかに消え去る意識。やはりウロボロスの加護は受けれないと、デメトリオは安堵しつつ絶望した。相反する感覚を抱えたまま静かに世界を去ろうとするデメトリオに過去が追いすがって来たのは、この時だった。
『よくやってくれました。デメトリオ』
ごく短い言葉は幻聴だったのか。穏やかな凪から荒波へとデメトリオの精神世界は突如として、塗り替えられた。
これが幻聴で無いならば……“増強”された思念! そんなことが出来るのはこの魔都にも一人しかいない。そして、何より淡白な声音を聞き違えるなど、あり得なかった。
(アリーシャナル! 最初からか! “混交”も、レイシー様が手に入らないことも! そして私も……)
『確定ではありませんでしたが、概ねは。“混交”も生物に宿っている以上は、見出されたのならいずれは手に入る物。我々が欲したのは魔都そのものへの一撃。私も貴方もそのための道具』
もう肉体は死に絶えている刹那の間だというのに、デメトリオの心は激しく喘いだ。初めて恐怖を知った幼子のように、息が乱れて目眩がしそうだった。
(私は……ただの運び屋か。はは……太陽剣を彼らの誰かに渡すためだけに……)
『奇跡は一つだけだからこそ、価値を持つのです。魔都も遺物持ちも、全てがいずれは不要になる。我々は皆が“いずれ”のために使い捨てられるだけ……永劫に続く蛇環の前に、重要な個体など存在しない……それが教団。それがウロボロス』
誰か。そう、誰かだ。
太陽剣が誰の手に渡るかも瑣末事。重要なのは集った遺物の全てが魔都と共倒れになるという結果のみ。実行者などイサでもレイシーでもミロンでもカレルでも……そしてデメトリオでも良かった。
(悪夢か……)
『そもそも、このカルコサ自体が覚めなかった悪夢。かつてあった蛇の遺した罠に過ぎない。眠りなさい、デメトリオ。この世は貴方が生きるには濁り過ぎています』
こうして聖騎士は眠りに落ちた。目覚めることは二度と無い。
挑戦者が難敵を超えたことを賛美して、新たな階層への門が開かれる。
……そう。誰でも良いのだから。