第24話・虫の報恩
無理矢理に後退したことで、デメトリオは赤に塗れていた。デメトリオの技量ならば時間をかけさえすれば、イサ達を相手にもっとスマートなやり方もあったはずだ。
それをしないことがデメトリオに切り札があることの証拠でもあった。傷を負うことすら勘定に入れないということは、それをもひっくり返す何かを持つということだ。俄には信じられないことである。太陽剣以外に何かの遺物を持つとでも言うのか……しかしデメトリオの顔は奥の手で逆転を確信しているというよりは、自嘲に似た表情を浮かべていた……
その顔から何かを察したカレルは、ため息混じりに声を絞り出す。距離が空いていても、不思議に声は通った。
「お前のことだ。はったりなどでは無いだろう。だが……そんなお前が使いたくなかったという代物を本当に使う気か? それで得た勝利はさらにお前を嘆きへと導くだけではないのか」
「本当にカレルは蜜のように甘ったるい。コレを使って勝てるとは思っていないから使うのだよ。あの時ああしていれば、こうしていれば……? そんな疑問を最後まで背負うのは御免こうむりたい」
どこに隠し持っていたのか。デメトリオが取り出したのは一本の瓶だった。
濁り、淀んだ何かをその内に収めながら奇妙な光沢を放つ液体が中に詰まっている。遠くからでもその色彩が目に痛い。明らかに誰もが好ましいと思えるようなものではない。そう直感させる色だ。
「私は最後まで裏で使われた外道として分かりやすく死ぬ。外道……いいや違う、道を外れる覚悟が私にあったのなら何人かは救えていたはずなのだから」
呟きながら外される蓋。そこには注ぎ口というよりは針のように尖った管があった。
デメトリオはそれを首に勢いよく叩きつけた。その異様な行動に一行は魅入られていた。傍から見ていると自殺でもしているような光景だからだ。中の液体が減っていく……そしてデメトリオの顔に血管の自己主張を始めていた。
「イサ殿は“増強”を知った時、きっとこの可能性も考慮していただろう。ならば対策はしているか? ……進みながらではその時間が足りなかったかと推察する」
今のデメトリオは不気味な痙攣を始めた性質の悪い酔っぱらいのようだ。しかし言葉には知性が感じられる。正体不明の液剤は何らかの変調をもたらすもののようだが、培った冷静さを持ってして抑え込んでいた。
イサはかつてアリーシャナルから教団の秘儀について軽い説明を受けている。ゆえにデメトリオが言うようにその正体にも検討が付いている。だが、対策を取らなかったのではなく、取れなかったのだ。それは……
「身体能力の向上……古代の闘技者や競技者が用いたという胡散臭い薬の数々……それを増強で真実にしたのですね」
極めて単純であるからこそ、対策の講じようがなかった。痛覚の鈍化や恐怖心の排除ならばどうということもないが、実際に動き自体が強化されればそれだけで敵の脅威度は跳ね上がる。期待できるとするなら、それによって技量が鈍ることだが……
「さぁぁぁて、これでレイシー様にも引けはとりませんぞぉ……」
口調が変わった。構えも変わり、自然体に近い。甲冑には血がこびりついたままだが、吹き出す血は止まっていた。水薬に治癒の効果があったのか、強化された筋力で締めたのか。
分からないが、イサに引く気は無い。今のデメトリオの肉体はレイシーと互角か、下手をすれば上回る。
「面白い。その状態を打ち砕き、望んだ通りの終わりを差し上げましょう」
その言葉を皮切りに、戦いが再開される。
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最初をなぞるように剣戟を演じる。しかし先程までとは違い、徐々に赤い線が走り血が滴るのはイサの側だ。驚いたことにデメトリオの剣技はそのままで、身体能力が向上したことにより生じるズレも無いようだ。
イサも流石に力比べをする気は無いが、増した速さこそが問題で、相手の攻撃を逸らし損ねる回数が増えていく。その様をあざ笑うデメトリオ。イサは彼の笑顔を初めて見た気がしている。
「ははは! イサ殿は哀れだ。その道の行き着く先は私だ。何もかもを楽しいと思うのは、貴方が真に持っているモノが一つも無いからだ。それでは何一つとして得られなかった私とさして変わらない! 結局の所、出来るのは殺すことだけ。虚しいなぁ!」
イサを笑うと共に、自分を笑っている。今まで淡々とこなしていた戦いに熱が灯り、それに引きずられて攻撃の回転数が上昇していく。
とうとうイサの速度を完全に抜き去って、カレルと二人がかりでなければ前を抑えられなくなる。
「助けるのも、得ることも、識ることさえ最後は殺すことに繋がってしまう。まさしく冒険者。得たもの全て相手の首に刃を届かせるための踏み台にしかならず、駄目だ! そんな道は私以外に歩ませはしない!」
どれほどの膿を己の内に溜め込んでいたのか。しかし、それでも尚デメトリオは高潔だった。自分のような生き方こそがあってはならないのだ。そうイサに熱くぶつけている。カルコサ聖騎士としての役割はレイシーの奪取なはずだが、“デメトリオ”はイサへと執着しているのだ。
対するイサはただ困惑する。イサは嫌われることは良くあっても、誰かに哀れまれたことがない。だから理解ができずに言葉が出ない。その糾弾を楽しむことが出来ない……それこそがデメトリオの言の正しさを証明しているのかも知れない。
精神の乱れは剣に現れる。ほんの僅かに速度が低下したその隙をデメトリオは見逃さない。イサのカタナに触れないよう微細に曲がった剣が、カレルの支援すらくぐり抜けた。
しかし、すんでのところでデメトリオは引いた。その理由は放たれた矢だ。
当たったところで今のデメトリオを止めることは叶わないだろうが、同じ手を食わないようにするデメトリオの歴戦の勘がかえってイサを救った。
「そんなことないです! イサさんは私に生きる道を与えてくれた、おまけでも何でも生きていける場を!」
救い主は吠える。目立つことが自分の命を縮める行為だというのは、セイラにすら分かる理屈だ。セイラは驚異でないから見逃されているのだ。役に立つところを見せれば、彼女も排除の対象となる。
しかしそれをしない選択肢はセイラには無い。
「イサさんは確かに性格悪いです! 付けてくれる稽古は死にそうなのばっかりだし! 止めたほうが良いときでも、突っ込むし! 正直レイシーさんよりもどうかしています!」
矢を彼女なりの速さで出来うる限りの連射で見舞う。いくら気合を入れても所詮はセイラ。矢をデメトリオは避けるどころか、剣で打ち払っていた。
だがデメトリオに邪魔だと思わせることには成功した。腐っても遠距離からの攻撃であり、剣士にとっての障害物だと認識される。その結果、イサとカレルを打ち負かすよりもセイラが排除されることになる。
向かってくる最強にセイラは失禁しそうな恐怖を覚えたが、それでも矢を番えた。
「そんな人でも、私を救ってくれたことには変わりません! 助けた人がどんな人で、何を考えていようとも……!」
セイラはデメトリオが到達する一瞬前に矢を放つことが出来た。
訓練どおりに最高の一射。それでもデメトリオは片手間で虫を払うように、剣を振り上げるついでで弾き飛ばした。奇妙にゆっくりとなったセイラの視界に、困惑したまま駆けつけようとするイサと、必死の形相のカレルが見えた。
先輩たちの助けは間に合わない。現実は無情だ。だが、かつての自分にあんな風に駆けつけようとしてくれる人はいなかった。だから悔いは無いと、小さな覚悟を決めた時。
「そうだねぇ。大体、お兄さんに言わせると君と似てるのは僕って話だから、相手をするのは僕だよ」
「え……」
今度容易く弾かれたのはデメトリオの剣だった。死を前にあったセイラの視界にも捉えられない速度で、凶刃はあっさりと後輩の下へと移動してきた。
刃筋を立てられたハルペーが燃え上がるが、風車のように回転させて消し去る。
「馬鹿な……いくらレイシー様でも、そこまでの速さは……」
「忘れてない? そんな薬を使わないと、僕は捕まえられないと思ってたんでしょう? 君たちは。そしてぇ……原因はこれかな?」
レイシーの華奢な肉体。その胸が淡く輝きを放っていた。まるで水底のような暗い青を。