第15話・蛇神の子たち
今、魔都における探索者達の根拠地は揺れに揺れている。
魔都の本来の住人たちによる攻勢が始まり、更にそれが敗色濃厚となれば誰もが明日に不安を感じる。元よりこの地にからいつでも逃げられるようにしていた商人達ですらそうだ。
ここから上がる未来の利益……確定していないが、長期的に見れば目も眩むような金額になるのだから逃亡には二の足を踏む。敗色濃厚とは敗北確実とイコールではない。
大きな潮流の中にこそ商機は有り。仮に入り口街を放棄することになったとしても、新しい中層区画の遺物をいくつか持ち出せたのならば、二度と手に入らない故に価値はさらに上がるのだ。
ソレを前にして正常な判断を下せる者などいないだろう。例え代価が命であったとしても。
商人だけでなく、春を売る者。純粋に善意の者。先駆者の脚を引っ張るためだけにいる者。
ありとあらゆる人種が留まるか否かの選択を迫られていた。
必然として、街のあらゆる区画がざわめいている。その中で常と変わらぬ場所があった。
ウロボロス教団――その教会だけは魔都の入り口街において更に世の中から隔絶したような趣がある。数少ない新造の建築物というのも、もちろん理由の一つだろう。
しかし何より雰囲気が異常だった。普通過ぎるのだ。
朝になれば尼僧達が水を汲み、炊事をする。礼拝堂で日課の祈りをこなし、一部の者たちしか知らぬ広間で奇跡の水薬を精製していく。
いつもと変わらぬ日常を過ごしているのが外からでも分かる。薄気味悪さを一般人ですら感じるのか、足を運ぶ者も少なくなっているが……ウロボロスは人気が下がろうと一向に気にもしていないようだった。
そして、教会の中の最も奥まった場所はさらに異様だった。
別に隠されているわけでもない。ただそこは身分ではなく、許可がなくては立ち入られない部屋であった。
カルコサにおける聖騎士長デメトリオですらこの部屋には入れない。
この街でこの〈託宣室〉に入る資格を持つのは朧なる美女アリーシャナル、ただ一人。身分にも関わらずというのがよく分かるというものだ。何せアリーシャナルは入れても、教区長と僧院長は入れないのだから……
「なるほど……よく分かりました」
もっとも、部屋の中を見れば入りたいと思う者もいないだろう。
部屋の中にあるのは壁に埋め込まれた人型があるのみだ。それもわずかに揺れていた。
一見すれば何かの聖人像のような人型は生きていた。白の中に起伏があることから辛うじて女性だと判別が付くが、枷に繋がれた囚人の方が遥かにマシな扱いであろう。
おぞましいことにそれはこの上ない栄誉だった。事実、石像女は嘆きの血涙を滴らせながらも口元が微笑んでいた。究極の存在、水底の主に繋がれた彼女は今も至福の中にいる。外界のいかなる恐怖もその幸福を侵さない。
ウロボロス教団の秘儀に携わる者たち。彼ら、彼女らは本来ならば魔法を使えていた者達で構成されていた。いわば旧人類に近しい体質の者たちを集めているのだ。
そして教団が持つ、つい先日までは唯一の奇跡〈増強〉の聖盤に接続して水薬を初めとした錬金術を行っているのだ。
その選ばれた者たちからさらに選びぬかれ、聖盤を通じてさらなる接触を許されれば、聖像になることができるのだ。
世界中に権力基盤を持つウロボロス教団……その強さの源こそがこの聖像にある。
〈増強〉によって感覚器官と伝達能力を神に近づけた聖像は周囲の状況を完全に把握する。そして、それを他の聖像と共有している。
人間で言う正気からは完全にズレている聖像達の言葉を翻訳することこそ困難であり、アリーショナルのような者にとっても簡単ではない。だとしても、この世界においてより優れた探知機も伝達手段も存在しない。得られる有利は国家が持つ専用の諜報機関ですら、聖像と比べれば赤子と巨人の差がある。
しかし、今この魔都カルコサ以上に重要な地など世界に存在しない。
それを確信するからこそ教団は最初から逃げるつもりもない。アリーシャナルにもそんな気はない。
対話を終えると、いつもと同じ幻のような存在感を放ちながら部屋を出る。
いくら有用とはいえ人の持つ善意の恐ろしさを凝縮した人工物と長時間向き合って平静を保つ、アリーシャナルは一種の性格破綻者と言えた。
「……なにか分かったか?」
「ええ、神の思し召しが」
部屋から出た聖女を迎えたのは陰鬱なる騎士、デメトリオが壁に背をもたれかけて待ち構えていた。
デメトリオはこの部屋のことを一切知らない。だが知らないからと言って分かることが無いわけではない。まして彼もまた〈遺物持ち〉。あるいは聖像に本質的に近いのはデメトリオの方かも知れなかった。
「素晴らしいな。預言者にでもなれたか?」
「お戯れを。私が言うのは我々がこの地にいる意味が分かったということです……二個目の聖盤が見出されました」
その言葉にはさすがのデメトリオも感じることがあった。
片目を持ち上げて、静かに会話を続ける。
「……何を意味する文字だ? 今度はより安寧をもたらす物であって欲しいが」
「そこまでは。しかし重要なのは確かにあったものが、見出されたとわかったこと。つまり誰かが見つけ出して、所有している」
「……レイシー様か」
「十中八九。この地は愚か、世界中を探しても聖盤を宿して無事にいられる者はそう多くは無いでしょう」
アリーシャナルの表現は些か控えめだった。そう多くないどころか、恐らく砂漠で針を探したほうがマシな確率である。ウロボロス教団も、〈増強〉を宿した〈最初の石像〉がいなければ形も残っていなかっただろうが、〈最初の石像〉以来、数千年探して一人としていなかったのだから。
力を発揮しなければ石ころと変わらない聖盤が見つかったということは、資格ある者が所有したということだ。それを両方確保することが出来れば、教団の発展はさらに確実なものとなる。
「レイシー様は我々を導いてくれると思いますか?」
「まさか。あの方は地よりは風に向いた気性だ。我々のことなど見向きもしないのではないか?」
聖盤を自在に操れるようならレイシーはまさしく救世主となる。あくまでもウロボロス教団にとっては、だが。
しかし気ままな強者が弱者の気持ちをいちいち思いやるはずもない。ましてや教団は内部にいる者にとってすら謎な部分が多い。そんな胡乱な存在を救ってくれというのは虫が良すぎる。
「大体にして我々へをどこへ導いてもらうのだ。我々自身が知らされていないではないか……お前ならば知っているか、アリーシャナル?」
「さて……きっと清らかな水へとでしょうね」
無限の蛇は水の下にいる。
一般的な伝承で、アリーシャナルもまたそれを上げただけに聞こえるがデメトリオには違って聞こえた。蛇神が水に住まうとは聞く。だがどういう水なのかは記されていないのだ。
お前は一体どのような者なのだ?
その言葉をデメトリオは何年もの間、飲み込んできた。きっと聞けば全てが分かるだろうが、聞くべきではないのだ。