第6話・水底の人
伝わってくるのは音と光だけだ。
あるいはコレが死の感覚なのか? それとも黄泉路なのか既に死後の世界なのか……どちらにせよ考えても詮無いこと。ならば現状把握から全ては始まる。生きていようと、死んでいようとやることが変わるわけでもない。
音は擦れる音だ。金属と……布地。後は何か柔らかい者で、それもそれなりの重量がある物。要素を検討した結果、何かを引きずっている音だと思われる。
光には色がある。灰に青と黄色。だが、どれも鈍い。光と目の間には何かがある。何があるかは現時点では判断不能。
次に大事なのは身体機能だ。
全身の感覚はほぼ機能していない。なにも分からない。ただ意思だけを頼りにして考える。
右腕、左腕は共に動かない。重要なのは特に右腕だ。同じ動かないでも程度が違う。損傷したと考えるなら左腕よりも重篤だ。
各関節……どれも同様。右腕が最も感覚が薄く、他は同程度。結論としては今の自分は総力を振り絞ってもナメクジ程度の動きが可能かどうか。
つまりまぁ今のところはこれ以上するべきことはない。生死も分からないため気力なのか体力なのかは不明だが、必要な力が戻るまで休息すべきだ。幸いにして欠けた四肢は無い。カタナが取られて無ければ良いが……あれほど思い入れのある品は他に無い。眼の前に転がっていて取らない人間は馬鹿だと思うが、それでも取らないでくれると嬉しい。
それにして、自分を追い込んだか殺した騎士。あれは一体何だ?
間違いなく手から火を出した。それも大道芸人のやるような、吹き出すようなものではなく、まるで物体のように固められた火だった。火球とでも呼ぶのか?
ああいうことが出来る生き物なのか、それともそうした武器を持っていたのか。騎士だから近接戦で来るだろうと判断した自分はひどく阿呆であった。
あの間合いで弓矢を番えたり、スリングを構えるやつはそういない。あそこまで近付いたのならば斬るか刺す方が速いし、確実だ。だが手をかざしただけで使えるのならばそんな短所は無い。
手首から矢を撃つ小型の暗器を思い出す。しかし、叩き込まれた火球の大きさを考えれば避けるのも難しい。次に会うことがあればどう対処するべきか……現状では不意打ちぐらいしか思いつかない。しかしそれは楽しく無さそうだ。
あれを倒すなら誇りを蹴り崩し、勝ち誇った顔から一転して地に叩き落としたい。正面から破るのがそれを叶えてくれるだろうが……と思索に耽る。何せ私は暇だった。
まぶたすら開く余力がない。ひたすら考えて考えて……しばらくすると私は無明へと落ちていった。
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全く間断の無い眠りから目覚める。最初は何も見えなかったが、仮面の穴から覗く視界に徐々に石造りの天井が見え始める。少しばかり緑がかった灰色の石材……湿気と経年による影響が見て取れる。
耳には聞こえるのは水の音。金の灰騎士と戦った時と同じ、水路の近くのようだ。火球を浴びた場面から世界が連続しているならば、私は運良く即死することなく、運良く溺れないまま流れ着き、運良く水のない場所へと転がった……幾ら何でも運が良すぎるためソレはないだろう。
想像するに、この水路には誰かがいて自分を拾ったのだ。闇の中で聞いていた音は他ならぬ自分を引き摺る音で、何かの理由でここへと置かれたという方が理屈に合っている。
上半身を起こすぐらいの体力は戻っていた。
周囲に誰の気配も無いことを確認してから、身体を起こす。かび臭さに似た空気を吸い込み、顔をしかめながら周囲を確認すると奇妙な鉄の塊を見つける。
愛用の大鉈の成れの果てだ。どうやら火球に対して無意識に反応して、大鉈を突きこんだらしい。結果としてそれが生存に繋がったと見える。
元々壊れることを前提に誂えた品だが、存外に長持ちしてくれた。ひしゃげた鉄塊にしか見えない姿を不思議と痛ましく思う。
手を伸ばそうとするが、動かない。どこかを損傷したというよりは酷い疲労のために近い感覚だ。そこで自分の四肢が揃っていることに気付いて流石に安堵した。
欠損が無いのに疲労感だけがある理由……持っていた水薬の空き瓶が転がっているのを見つけて、首を傾げる。
瀕死から今の状態へと考えた場合あまりに早い復帰と、火傷が重篤でないのは水薬を飲んだためだろうが……自分にそんなことをする体力が残っていたか?
加えて腰のカタナもそのままで、自分を拾った者の存在が疑わしくなってくる。それほどに親切な者がいるとはとても信じられない。案外に自分でここまで這いずってきたのかもしれない……そう思った時だった。
何か重いものを引き摺る音が聞こえた。
後遺症が残るような怪我ではないが、戦闘に耐えうる体力が残っているかと問われれば否だ。咄嗟にできることなど再び元の姿勢に戻ることぐらい。つまりは死んだふりの更に真似事である。
戦いでもない場だが、現在こそが絶体絶命の危機だ。今の私ならば子供でも殺せる。
暗がりに目を凝らせば、この場は部屋のような四角い空間になっているようだ。入り口と思しき穴から入ってきた人影を見て、私は更に緊張した。
鏡だ。鏡に人の体が付いている。あるいは人の体に鏡が付いているのか。
分からないが、魔物であることは確かだろう。このような姿の人間はいない。細く曲線を描く体躯から判断すれば女性のようだ。
口もなければ鼻もない。息をどうやってしているのか? 栄養をどうやって摂取しているのか? まるで分からない。しかも手に肉塊めいた物を持っており、友好的な存在にはとても見えない。
だが、そこで鏡の魔物の足に枷と鉄球が見えた。
重いものを引き摺る音……自分を拾い上げたのはこの鏡女だ。どういった立場の魔物なのか全く想像ができないが……興味が湧く存在であることは疑いない。
いつもの衝動に任せて賭けに出る。
カルコサの魔物は元は人間の可能性が高い。タークリンが多少自我を残していた例を考えれば、敵対しない魔物の存在はあり得る。
「……どうも。私を助けてくれたのは貴方ですか?」
「……」
鏡がゆっくりとこちらを見る。鏡は無残にひび割れている。だが残された部分に鏡としての機能は保たれており、そこに映るのは狼の面だけだ。
鏡女はそっとした動作で肉塊を地面に置いた。敵意は無いようだが……まさかこれを食えと? 疑問に感じるが現実は予想を上回った。
『ホ。礼儀は一応知っているようだな。拾ったのは確かだが、それまで命があったのはお主の運じゃて。いやもしやして前準備の賜物かの?』
声は私の頭部より下から出ている。鏡女ではない。
興味8割ほどの気分で恐る恐る下を見れば、肉塊と目が合った。
肉塊と言っても絵に描かれたようなものではなく、半ば溶けている……そう絵物語でよく出てくる液状の魔物に近い。そこに目玉が張り付いている。
目玉の下あたりに僅かな隙間があるのが辛うじて見える。そこから声を発しているのか。
「では半分だけ礼を。私の名はイサ……助けていただいて感謝しております。厚かましいかとは思いますが、しばらくここに居座っても?」
『構わんよ。儂の持ち家というわけではないしな。それに他人と話をするのは随分と久しぶりでな……あと少しは儂も楽しみたい。ヴァールナは良い子だが話し相手には向かん。儂の名はさて……何だったか……ヴォ……ヴォ……そうだ! ヴォルハールだった!』
喋る肉塊と鏡の女を見て私は思う。
これはマズい。面白すぎる。