影の終わり
なぜその男を忘れていたのか。そして、この男はなぜ傍観者を気取っているのか。どちらも分からないが……あらかじめこの影の魔物を熟知していなければ、見物と洒落込むことはできない。
門影の役割はそのまま門へと近づく異物の排除だ。逆に言えば一定の距離まで近付かなければ、なにもして来ないのだ。
イサは己が善人であると思ったことは流石に無かったが、これほど面の皮が厚い覚えもまた無い。不思議な事だが……イサは第一位であるこのボロ外套の男を初めて視界に入れた気がした。直近の脅威である影のことは思考の片隅へと追いやってさえいる。
大きい。飾りもない感想だった。
背は高く、筋肉は鎧のようだ。腕は細身の男の腰ぐらいに太く、足は丸太か何かでできているかのようだ。見える肌の色は黒に近い褐色……大陸では珍しい。イサと同じように他国人の血が入っているか、あるいはそのものか。
これだけ見ればただの偉丈夫といった風情だが、そうした人間特有の獣に似た圧するような空気をまるで持っていない。ただそこにある。そうした印象を与える男だった。
フードから除く顔は、険しく、そして禿頭のようだ。修行僧のようにも見えるが、ガラス玉のようにただ澄んでいるだけの目がらんらんと輝いている。
全ての印象がちぐはぐで……現実感がない。高潔なのか低俗なのか、超越者なのか凡人なのか。相反する要素を全て備えている男のようだった。
そして彼の持つ武器もそうだ。無骨で飾り気のない両手持ちの大剣……だというのに、柄頭には大ぶりの宝石が嵌められている。
「イサ、レイシー、リンギ、コールマー、サーレン」
詩でも吟じているように列挙される名前。これもまた自分が呼ばれているような気を一切起こさせない。歌うような調子だが、ただ口にしただけ。
「悪くはない」
言い終えると冒険者の証たる仮面を付ける。何の模様も無い無貌であった。
……それは彼にとって最上の評価では無かったのだろうか? 見下しているような、真摯に認めているような響きを同時に奏でながら無造作に一歩前へ出る。
立っていたそこが影の警戒範囲の境界だったのか……影は怯えながらも役目に忠実に従った。影が認識した敵の数は3。影は門に縛られており逃げること叶わない。
結果として悲壮な決意をしたのは冒険者ではなく、魔物の側だった。
影は集まり一旦、塊となるほどの溜めを行った。これが意思表示とばかりに弾けて、影槍を雨と降らす。
最初の標的に選ばれたのはイサ。影からすれば一番弱く見える狼面の男に向かっての集中砲火は、影を取り囲む人間達の弓矢とは比べ物にならない。
「……内面は人間とさほど変わりがないのですか? 私一人にまとめて放つのは無駄でしょうに」
一歩下がっての横薙ぎの一閃。
鉄よりも硬かったはずの影は、紙よりも容易く斬られた。
イサ自身、己の遺物である好愛桜の切れ味に少しばかり驚いた。尋常でない切れ味を持つことは知っており、やれると判断したからの動きではあった。だが、布を振るような手応えでほぼ何の抵抗も受けずに切断してのけるほどとは思っていなかった。
この遺物に関する伝承は真実である。伝承に曰く、好愛桜はあらゆるモノ、特に絆などの無形の概念をこそ良く断つ。イサが遺物としてカタナを認識したことで、カタナもまたそれに応えたのだ。
そして、好愛桜によって断たれた槍は元の影へ戻ることはできなかった。大本と離れたまま、溶けるように霧散していく。
いかなる理屈かはまだ不明だが、ともあれ神秘宿りし物に魔都の存在は弱いことが確かめられた。
倒せる手段がある。そうなれば冒険者達も黙ってはいない。
そして、誰よりもまず先に動くのは凶刃とまで呼ばれた者。レイシーが、相棒を相手取り隙をさらけ出す相手を見逃すはずもない。
「あっは! やっと捕まえたぁ! 斬って、刻んで、捨てちゃいましょう!」
「皮など採れるか気になりますので、あまり捨てては欲しくないのですが……」
これまで避けに避けてくれた代償を払え。レイシーの持つハルペーが影を刻んでいく様は、泥で遊ぶ子供のようだ。
元々影と同等の性能を持つレイシーからすれば、イサのように技巧を凝らす必要もない。逃げるのを止めさえしてくれれば、ただの玩具と変わらない。
そして、レイシーの大鎌によって付けられた傷もまた癒えることは無かった。
これで影の運命は決定した。
レイシーの存在がある以上、イサまでもが倒す手段を持っていると分かった段階で人側は一気に優勢となる。他の浄銀達も決定打にならないというだけであり、妨害は十分に可能だ。
「気に入らねぇが、今回は脇に回ってやる」
サーレンのその言葉が、イサ達3人を除いた冒険者の代弁だろう。カレル達が投げる瓦礫が、セイラ達の放つ矢が、浄銀達の技が、影を猟師の元へと追い込んでいく。
一気に惨めに蹂躙される側となった影の魔物は、救いを求めて予想外の行動に出た。それは人にとってみれば馬鹿な行為だった。
影は未だ矛を交えていない相手……第一位冒険者ミロンへと突撃を敢行した。
誰かが間抜けな音を漏らした。それは影にとっては最後の光でも、明らかなる自殺だったからだ。どうしてそんなことを? 猟師から逃れるために崖から飛び降りる哀れな獲物の末路は……
「ふん!」
声とともに放たれる一撃。
いいや、それは処刑だった。無貌の仮面を被ったミロンは、その手の大剣と相まって処刑人によく似ていたが……それが剣にも現れているのか。
勢いよく振り下ろされる大剣。技巧も効率も心すら……何もかもを考慮せず、ただ断頭台から滑り落ちる刃。それがミロンの武だった。
少なくともイサはこれほどまでに相手を見ない武技を初めて見た。デメトリオのように基礎が高いゆえの無機質さもそこには無い。ぶちまけられるだけの暴威。
影の急所がどこかなどと、考える必要はまるでない。
ミロンの一撃で池のような影は両断されて、跡すら残らなかったのだ。
誰も彼もが何も言えない。
偉大な勝利だったはずだが、全員が冷水をかけられたような気分に陥っている。人が死闘を制したのではない、より大きな化物が化物を潰してしまっただけである。
その中でレイシーがイサに囁いた。人が人を畏れて、遠ざけるなどレイシーにとっては当たり前のことだ。凍ってやる必要もない。
「うふふ……気付いてる? あのおじさんの剣さぁ……お兄さんの太刀筋にそっくりだよね」
「……なに?」
「キレイで、鋭くて、凄い自分勝手! 良いことも悪いことも自分のものにならないなら、全部死んじゃえ!……って感じかな」
「ああ……成る程。だから私はあの男が気に入らないのですね」
イサはミロンという英雄に好意を持っていない。相手が誰であろうと関わろうとする男としては珍しいことだった。
理由は同族嫌悪。自身の好奇心を最優先に行動する者として、ミロンは同族であり、同時に完全なるイサの上位互換だった。
イサは枝葉も愛でるが、ミロンは目的地まで蹂躙していくという違いこそあるが……
「ですが未知を既知へと変える栄誉はただ一人のもの……私はいずれ彼の首か、あの宝石を貰うとしましょう。ですが、レイシー?」
「なぁに、お兄さん?」
「私がミロンに似ているなら、貴方はデメトリオに似ていますよ」
「えぇー、どこがぁ!?」
「教えてあげません」
さて一つ、アレを超えてやるとしよう。
冒険者の頂を見て、一人の怪物が静かに脱皮を決意した。
門が開く。最下層の終わりにして、次の領域への入り口。長きに渡って通れなかった門を開く、栄誉はミロンという英雄が順当に手に入れた。
そしてこの日、試練を受けた者達の中から次なる栄誉の担い手が出るだろう。
つまらない。もっと減らすべきだった。
鐘の音が響いた。