水底への案内
静かな足音だ。訓練された忍び足ではないが、アリーシャナル自身の希薄さと相まって天然の隠形じみていた。音はするのだが、危機感を全く覚えさせない。
この娘に背後から、あるいは寝込みを襲われたら? 考えるだけでイサすらゾッとする。
イサは自己に対する評価は極めて高いが、同時に他者を見くびってはいない。極端な話、赤子ですら武器を持ったならば敵に値するとすら思っている。
そうした相反する精神がイサを高位冒険者たらしめる要因の一つなのだが、それが通用しない。こうした考えですら瞬きの内に薄まっていくのだ。
「ここに限らず、尼僧は特殊な才能を持った孤児達で構成されています。彼女達が厳しい修行を耐え抜くことで神の御業の極一部を発現させたのが、苦難に立ち向かう戦士たちへと広まる水薬となります」
「ほう……具体的に何かを聞いても?」
黒い通路に響く声。階下の広間には火にかけられた何かに祈りを捧げる女達の姿がある。控えめに言っても邪教の儀式としか見えない。
いくら金を出してもアレに対する答えなど返っては来まい。
「神の残された秘儀……わずかに残った一つですら我々も完璧に理解したとはいい難いのです。現在、水薬と呼ばれているものに使われているのは……そうですね……“長所を伸ばす”とでも表現すれば良いでしょうか? ……どうかされましたか? まさか、私があっさりと明かすとは思っていませんでしたか?」
イサはまさに硬直していた。
もっと長い時間をかけて一端を聞き出そうとしていたのだ。それがこうもあっさりと相手から喋りだした。例え真偽を確かめる手段が無くともだ。
「……有り体に言えば、そうです。貴方方の飯の種でしょう?」
「その表現が相応しいかは分かりませんが、確かに秘匿することで価値が生まれるものも世にはあります。ですが、ここの技術は特殊な才能、努力、そして何よりも信仰心が不可欠。余計なことを考える輩が出ないのであれば、半分程度は公開しても構わないぐらいなのですよ」
なぜかレイシーが会話に加わろうとしないため、アリーシャナルの相手はイサ一人で務めることになっている。楽しみを求めすぎる性格が災いして、好んではいるのだがイサは腹の探り合いにはそれほど向いていない。
アリーシャナルは交渉役としては明らかにイサよりも上になるようだった。
「……教会の者に迂遠な手を取っても敵わない、か。ならば……率直に聞きましょう。教会から破門者や脱走者が出ることはありますか?」
「……」
この時、イサはアリーシャナルと初めて顔を合わせた気がした。
相変わらず瞳に何の感情の動きも見られないが、視点はイサという一人の者の合わさっていた。
「意外ですね。イサ様が来られたのはおそらくは巷を騒がせる疑惑について。そして、我々自体を疑ってのことかとばかり思っていました。いつからその可能性を?」
「正直なところを言えば、明確になったのは水薬に使う術の説明を聞いてからです。長所を伸ばす……つまり、我々が危機に陥った時に使う水薬の元になるのは単なる薬の類。それを強化させただけに過ぎないのでは?」
「その通りです。出来不出来については未だ研究中の段階ではありますが、成分的には水薬は単なる薬湯に過ぎません」
単なる薬湯……それを場合によっては瀕死から呼び戻すほどの薬へと姿を変えさせる。まさに奇跡と呼んでいいだろう。
数々の遺物を祀る家に生まれながらも、この街に来るまで奇跡の実在を知らずに来たイサ。彼の常識は足元から崩れ去っていくようで……イサは笑った。
「各国に支部を置く教会。その権威は絶大だ。もし貴方方が本気で『先を目指す者たち』を排除しようとしたのならば、こんな規模で済むはずが無い。方法も迂遠過ぎる」
「……続けてください」
「しかし、薬も過ぎれば毒となるという。ハルモアは件の原因を毒であって毒でないと言いました。ならば、貴方方ならそちらの道にも詳しかろうと考えたのです」
正直なところ、教会は毒を日常的に扱っているだろうとイサは考えている。それなりの期間を冒険者として生きている間にも、教会の黒い噂が絶えたことはなかったほどだ。
「……正直なところを言えば、今回の件による我々への風評は根も葉もないものです。ゆえに我々も解決のために聖騎士を動かすことになっていました」
「つまりは我々で解決するので引っ込んでいろ、と」
「ええ、その通りです。イサ様の仰るような脱走者や破門者は当院にも他院にも出たことは無いのですから。それでは案内を続けさせていただきます」
アリーシャナルはそれから機械的な案内を終わらせて、イサとレイシーに昼食を勧めた後で2人を送り出した。
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去っていく2人の冒険者を見送った後、門の下でアリーシャナルはため息をついた。彼女を知る人間が見たら信じられないほど人間的な行動だったが、それは彼女の後ろにいる影がそれだけ親しい人間だからだ。
「神字についての説明を伏せたのは良かったが、話の切り上げ方はお粗末だったな」
「仕方がありません。私は尼僧であって広報ではありませんから。それにお二人とも勘でとはいえ、ほとんど確信しているようでしたので」
「俺にも気付いているようだったからな。お前の言う通り仕方ないということにしよう。任務の説明も省けた」
影は偉丈夫であり、うねった黒い髪を垂れ下がらせている。顔は病人のように蒼白で、体調が良いようには思えない。美しい白の甲冑とは裏腹に酷く陰鬱な気配を出している。
聖騎士……それもこの街における第一人者、デメトリオだった。
「異端者狩りはいつものことだが……俺にも話してはくれないのかね? 件の毒の正体は?」
「身内にまで疑われるとは心外ですね。今回の物は本当に我々が作ったものではありませんよ。とはいえ推測は付きますが」
部門は違うが、2人は同輩と言っていい間柄だ。雰囲気が似ていることもあり、意外に親しい。
感情を見せてはいないが口調は少しだけくだけていた。
「あの街の奇妙なモヤ…俗に瘴気と呼ばれているものを増幅させた。もしくは魔物の血肉に秘儀を使用して、特定の魔物が近づくと異変が起こるようにしたもの。そんなところでしょう。目の付け所は悪くないですね」
「では生け捕るか?」
「いえ、上の方々の考えまで知っているわけでもなし。予定通り、誅殺で行きましょう。実行犯である末端の冒険者だけの犯行に仕立て上げて、異端者は人知れずに処理してください」
指示にデメトリオは軽く手を上げて、了承の意を示した。
こうした狩と呼ばれる暗殺は、彼にとって身近なものなのだ。
アリーシャナルとデメトリオは他とは違い、任命されてこの街へと派遣されてきた。口さがない者たちは島流しや左遷だと噂していたが……街に来てから、それは違うことに二人とも気付かされた。
この街は左遷先としては全く不適当であったのだ。位置だけ見れば辺境も良いところではあるが、独自勢力を築きやすく、金回りも悪くない。
2人は純粋に能力と忠誠心を買われていたのだが……
「上が何を考えているか……お前でも分からんのか? それさえ分かっていればもう少し動きようもあるのだが。今回のように後手に回る愚も犯さないで済むというもの」
「さて……教区長様も何も仰っしゃりませんし、この街の秘密を暴くことには問題が無いようですが……レイシー様についてはあまり良くない対応でありますね」
アリーシャナルは少しだけ歯切れが悪い。
次の階層への到達を邪魔したいので無ければ、教会はこの街の秘儀を知っているという可能性が高い。問題はこの街の秘密にやはり隠されているのだろう。
魔都の秘儀を取り込むのか、あるいは……壊したいのか? それはアリーシャナルにも判断が付かなかった。
「何時も通り……我らが神の御為に、微力を尽くすばかりですね。イサ様とレイシー様には実行犯の方の情報を流して満足してもらうとしましょう」
ごまかすような言葉を、デメトリオはあまり信じなかった。
この些細な出来事で、2人の高位冒険者に疑いを持たせてしまったのは間違いない。さらに言えば片方は血筋だけは身内、片方は存在そのものが異教の産物。
いつの日か、あれらとは決定的にすれ違う気がしてならなかった。