向かう先へと
回る。回っていく。回ってしまう。
今日も、明日も、それこそ未来永劫に――
彼の王国は永劫不滅であり、満ち足りている。
民は穏やかに暮らし、喪失の無い世界を噛み締めている。自分は素晴らしい世界を作ったという自負が際限なく湧き上がり、それが更に世界を強固にしていく。
兵は常に勇ましく、誇りを持って異物を排除していく。少しだけ悔やまれる。正規の兵を置けなかった貧しい人々の地だけが、彼の兵の武と誇りが充満していない。
かつて行った政策の影響が理想郷にまで残るとは思っても見なかった。おぞましい。欠けることない善意を否定した者達に屈したことが心底から恥ずかしい。
しかし、それもいずれは達成される。不幸中の幸いというべきか、異物達は壁の直ぐ側でわざと留まっているらしい。
異物らしく何を考えているかは分からないが、それも含めてこその蛮夷の者共。遊びに飽きた時、彼の兵達は壁の近くまで無事に派遣されるだろう。
愚かな臣達も今や完全に勤勉だ。
この世界には飢えは無く、病に怯えることも無く、老いを恐れることもない。完全に閉じた理想郷。まさに地上の王が紡いだ千年王国。
『ゆえに……邪魔だぞ、お前たち』
蛮夷の異物どもは取るに足らない雑魚どもだ。
しかし看過し得ない存在を感じる。所詮は人でない者達だが、徹底的に排除したはずの邪教の匂いが感じ取れる。
太陽剣
月光の君
蛇神の顎
そして桜の妖刀
所有者が蛮夷であろうことから、存在は朧気で位置すら判然としないが、それらがこの王国に傷を入れる可能性を秘めていることに変わりはない。
神秘は唯一この王国のみ。そうでなくてはならないのだ。予期せぬ痛みが愛する民達に訪れること決してまかりならぬ。
『しかし……気になるのは蛇神……なぜ我が子らに近しい気配を持つのだ? 我が聖道に屈服して頭を垂れるか?』
かつて最も激しくこの国を侵した忌むべき邪教。同じく永遠の円環を信奉しながら……いやだからこそ決して相容れなかった。
宗旨の鞍替えには最も縁遠い存在であるはずだが……
『時間だ……鐘を鳴らそう』
どちらであろうと、王のやるべきことは一つだけ。号令のために鐘を鳴らすこと。
決められた時刻に自ら鐘を鳴らすことが王の役割である。
この日も聖都カルコサに祝福の音を響かせるのだ。
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鐘の音が聞こえる。
『■■■■■■■■■■■■■■■■――』
いつも決められた時刻に響くその音色は、意味が分かりそうで分からない。だが近づくごとに段々と呼ばれている感覚は強まっている。
もっと近くに行けば意味がはっきりと分かるようになるのだろうか? それは分からないが妙なる声が心地いいことだけは確かだ。
ずっと前に同じ声でボクの名をそう呼んでいた人がいたのだ。レイシー、レイシーと。その人の顔は物心付く前だから余り覚えていないが、声は今でも焼き付いている。
世界で唯一人……ただのボクを愛してくれた人。化物でもなく、狂刃でもなく、ただのレイシーを愛してくれたのはあの人だけだ。
だからあの鐘へと近付こう。あの声はボクだけのものだ。
『………シー』
こんな風にまたボクの名を呼んでもらうのだ。
そうこんな風に、ボクをボクとして認めてくれる人のところへ行く。
『……イシー』
暗闇を告げる鐘が今日も鳴る。
しかし、他人には恐ろしいはずの闇はボクには全く怖くない。やはりボクは人とは違った存在で、どこかに仲間がいるのだろうか?
「……レイシー。起きる時間ですよ」
ボクは暖かい声で暗い安息から呼び戻された。
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目を開くと、お兄さんの顔があった。
黒い髪を後ろに束ねており、素顔を晒している。浄銀の仮面など験担ぎに過ぎないと言ったのは自分だが、この街の瘴気が怖くは無いのだろうか?
奇妙に珍しいモノを見る目だが、街の住人とは違う目がこちらを見ている。『今日のこいつは珍しいことをしているな』。そんな目であり、他の人と違うのは異物を見る疎外感が無いのだ。
「……お早う、お兄さん。ボクを襲う気?」
「そういう趣味が無いわけではありませんがね。今日に限って言えば無罪ですね、残念ながら。レイシーの方が私の寝床に突っ込んできたんですから」
「ボクが?」
記憶を辿ってみても、何かの瓶のことしか思い出せなかった。
するとお兄さんの目には意地の悪い輝きが宿った。
「私とカレルが飲んでいた林檎酒。その材料がリンゴだと聞いた貴方は果実水気分で一気に飲んだんですよ。いや、中々に面白い見世物でした」
「わぁい……お兄さん趣味悪い……」
羞恥で顔が赤くなったのかと思っていたが、酩酊していたらしい。それはそれで恥ずかしいことではあるが……
「それにしても面白い。レイシー、私は貴方が寝ているところを初めて見ましたよ」
「うーん。気が緩んでるのかな?」
はぐらかしではあるが、事実でもあった。
お兄さんを筆頭に、カレルにセイラと変わった人間ばかりが増えていく。彼らは暖かく迎え入れてくれるような気の利いた存在ではないが、同時に他人の変わったところを放って置く寛容さを併せ持っていた。
求めているものとは違うが、悪くはない場所。それがこの一行であり、どうにも警戒心が抜け落ちていく。
「緩むのも良いが、ここから先はあまり我々でも悠長にはできませんよ。徐々に、だが着実に魔物達は強くなっています。奥に進むほど強い? 全く何かの冗談のような街ですね」
「それでも僕とお兄さんは大丈夫みたいだけどね。片手が無いカレルはそろそろ危険だ。セイラに至っては問題外だけど」
なぜだろう?
彼らを置いていこうと言えないのは?
セイラだけだった以前ならともかくとして、現在はカレルもいる。彼ら2人は糧食の補充だけしてればいいはずなのだ。どういう原因でそうなったかなど気にする価値はない。2人は現時点で弱者であり、それが似合いの仕事なのだ。
弱肉強食。簡単な言葉だが、この街においては絶対だ。そこで生まれ育ったボクには特にだ。そのはずなのだが……
「いやいや、もっと見込みが無いかと思っていましたが……二人とも成長しているようで面白いですね。特にセイラは珍獣のようです。とっくに死んでいて不思議はないのですが」
「ちょっと!怖いこと言わないでくださいよぉ!」
部屋の奥から声が帰ってきて、お兄さんは少し笑う。
お兄さんほど変わった人間をボクは見たことが無かった。自分では何でもやる卑劣漢を気取っているようだけど……その実は“楽しいこと”だけを軸に動いている。
死者はお兄さんを笑わせてはくれないため、時折思い出したように人助けなどを好んでする。言葉こそ辛辣なことも多い。そして実際に性格も趣味もかなり悪い。なのに行動の結果だけを汲み取ればかなりの善人のよう。
カレルもセイラもお兄さんに命を拾われている。その理由はお兄さんに言わせれば「生きていた方が面白い人間だから」ということになるのだ。
「街に戻れるのは随分と先になりそうですね。どこかの誰かのせいで林檎酒はしばらく飲めない」
「……安ワインでも飲んでたら? 好きでしょお兄さん」
ここは入り口街の宿ではない。
北西区画の家屋の一つだ。ここから先はボクも実際に行ったことはないため、危機感を持たなくてはいけないはずだが……
「お兄さんも良くボクの相棒続いてるよね」
「ああ、レイシー。自分でもびっくりですよ。私は結構貴方のことが好きなようです」
向かう遥か先には、ボクが求めるものがあるだろうか?
そしてお兄さんは……何を求めているのだろう?
簡易の寝所から立ち上がったレイシーは鎌を手に取った。
「さて、今日も行けるところまで進もうお兄さん」