歴戦の騎士
「王が……王が戦死されました!」
まさか、とヴァイセは声を漏らした。
彼は普段とは似ても似つかぬ荒んだ声を出す。
書斎のシャンデリアの炎が1個、プツリと消えた。
「被害状況は!? それと近衛兵団──トルイは!?」
ヴァイセが心配したのは、王国の英雄である騎士団長の名である。 彼は王の近衛兵長も兼任しており、戦争では専ら前線で近衛兵となり、指揮は副団長に委任している。
カリスマ的存在の王もいなくなり、その上武力の象徴であるトルイまでも逝ってしまえば、リュミエールの権威は大きく衰退してしまう。
「被害は死亡3000人、負傷14000人です、トルイ=アオフリティは胸に短刀を刺した状態で仲間の近衛兵団に搬送されましたが、魔術師団の治療で一命を取り留めました。 なお、王国騎士団によると、首都エチオは陥落した模様です」
「そうか……不幸中の幸いだ、近衛兵団と魔術師団を即時撤退させてくれたまえ」
ヴァイセは暗い声で呟くと、崩れ落ちるように近くのソファに座りこんだ。
その目には涙が滲んでいた。 窓から射した暗い闇は、曇天から放たれていた。
ポツポツと地面に垂れる雫の音が、リュミエール中に響いている。
進はヴァイセを直視する事は出来ず、ただ窓の外の黒い空を見上げる事しか出来なかった。
シャリテ教附属寺院を掃除する若い黒髪のシスターは、外の様子を伺いに出て来た。
「あら、雨。 すぐに買い出し行かないと晩御飯遅れちゃう」
籠を持って歩み出した彼女は、変わらぬ町並みを見ながらにこやかに歩いた。 彼女に挨拶を交わす人間は多く、彼女はそれに愛想良く応えてみせた。 やがて彼女のかけたメガネには、雨の雫が乗り始めた。
乾いた風が吹き抜ける中、彼女の背後から怒号が聞こえた。
彼女が振り返るとそこには、人混みを掻い潜る薄汚い衣を羽織った無精髭の男がこちらに向かって走ってくる。
手には無数の金貨が抱えられている。
その後ろからは馴染みのお役人が「そいつを捕まえろ」と叫んでいる。
彼女が呆然とその様子を見ていると、男は跳ねるように女の背後に一瞬で回り込み、羽交い締めにした。
「おっと、それ以上は近付くなよ」
盗賊は腰から取り出したナイフの切っ先をシスターの首に向け、追ってくる役人に警告した。
向けられた刃はよく研がれており、その光の妖しさに彼女を含めその場の全員がゾッとした。
盗賊は彼女の生殺与奪の権利を握りながらゆっくりと後退し始めた。
その時、盗賊の背中に何かが当たった。
と、同時に何かが落ちる音もした。
盗賊が振り返るとそこには尻もちをついた勇者らしき男がいた。
「はっ、あ、ごめ、すみません」
犯罪者に対してなのか、知らない人に対してなのか、真人は口ごもりながらも慌てて謝罪を申し立てた。
盗賊はため息をついてから、ニヤつきながら真人に言った。
「てめぇ、俺に攻撃してくるとはいい度胸だな。 勝負するか、持ち物全部置いて逃げるか選べ」
「え、そんな、その」
彼が泣きそうになりながら、盗賊に頭を下げていると、その後ろから現れたブロンドの短髪を持った女性が颯爽と現れた。
「おいおい、勇者の癖に間抜けだな。 私の後ろに下がっていろ」
女性は短パン、短い青のシャツとブーツを着て、その上から青い腰マントを付けた露出の多い服だったが、その言葉遣いからどうやら武闘家のようだった。
盗賊は勇者の腰抜けさを嘲笑いながら、「骨のありそうな奴が出てきたな」とシスターを放り出してクレア向けて走り出した。
盗賊の振るう刃がクレアを襲うものの、彼女は素早く身を引いて屈み、盗賊の脚部目掛けて脚払いを繰り出す。
盗賊は軽くステップを踏みながらそれを跳ねて躱し、クレアの頭部に刀を振り下ろす。
クレアは脚を引っ込めながら白く細い手を目にも止まらぬ速さで突き出して、刀の唾を受け止め、振り払ってから後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
驚嘆の声と共に吹っ飛ぶ盗賊の目には、微かに怯みが見えた。
「女の癖にやるじゃないか」
立ち上がる盗賊の頭髪が荒む。 その隙間から僅かに彼の片目が垣間見えた。
瞼は閉じたままで、上から深い十字の傷が刻まれていた。 それまで隠れていたようで、その場の誰もが気付いていなかった。
「……!」
シスターはその目に見覚えがあった。
片目に刻まれた十字の傷跡を持つ剣士。
聖騎士・オルテンシア。 五年前のシャリテ教の内部闘争で罠に嵌められその地位を失った無類の聖騎士。 その十字傷は八年前のイルガチェフェの侵略からリュミエールを救った聖戦で付いた勲章だったという。 彼は当時から子供たちにも優しく、彼等から懐かれていた。 事実、シスターもそうだった。 その聖騎士が今は盗賊なのかと、シスターは自問した。
クレアの連続飛び回し蹴りを鮮やかに躱すと、盗賊──オルテンシアはクレアの脇をすり抜けた。 気づくと彼女の腕はオルテンシアの身体と共に背後に持ち去られ、クレアは自由を失った。
オルテンシアはクレアの膝に蹴りを入れ、跪かせた。
「おっと姉ちゃん、ここまでかな?」
クレアは悔しそうに腕を振り払おうとするが、オルテンシアは容赦なく腕を固める。
「ああ……ああ!」
「降参するかい?」
彼は彼女に微笑みかけながら、降伏を要求した。 だが彼女はオルテンシアを睨み続けた。
「ふん、じゃ、その身体で支払ってもらおうか」
オルテンシアがクレアの身体に手を伸ばしたその時、彼の脇腹に激痛が奔った。
彼が痛みの方向に振り返ると、そこには自身に渾身のタックルを浴びせる真人の姿が映った。
クレアはその隙にオルテンシアの手を払い、屈むと同時に強烈な肘打ちを繰り出した。
オルテンシアは二人の集中攻撃に遂に耐え難い痛みを感じて、立てなくなる。
「悪いな、マサト」
「俺こそごめん、助けてあげられなくて」
「アンタが私を助けるのは五億年早いよっと」
クレアはオルテンシアに馬乗りになって両手を拘束しながら言った。
「待ってください!」
シスターは、憲兵隊を呼ぼうとする真人の前に立ちはだかった。
両手を広げ行く先を阻む彼女に、真人は懐疑の目を向けた。
「早くしないとコイツが逃げちゃうんで…」
真人が視線を合わせずにそこを抜けようとすると、彼女も真人をその先へ行かせんとする。
「どうして!?」
クレアが彼女に尋ねる。 彼女は首を振り、唱え続ける。
「彼は悪い人ではありません、どうか御慈悲を」
クレア達は彼女の訴えかけには応ずる事ができなかった。 お尋ね者にかける慈悲などない。
「では彼の代わりに私を罪人として捕らえてください!」
シスターがか細い声を荒げて真人は呆れたように答えた。
「わかったわかった。 呼ばないから。 だからさ、代わりといっちゃなんだけど、俺達の旅についてきてほしいんだ」
クレアは「なるほどな」と呟いた。
シャリテ教のエンブレムをあしらった大きな帽子に裾の長いスカート。 見るからにゼルスの加護を受けた彼女なら、回復魔法を操れる事は間違いない。 ここで彼女を仲間に引き入れるなら、強くなってからまたこの盗賊を捕まえられる確率は高い。 どの道この男を牢獄にブチ込めないのは分かりきったことなので、代わりに彼女を味方にするのもありだとクレアは確信した。
「わかりました」
クレアは男の手を離し、その身体から降りた。
盗賊は舌打ちすると、その場から去っていった。
「君、名前は?」
真人が問うと、シスターは真人の目をジッと見た。
「私の名前は、リリー・グラジオラス。 よろしくお願いしますね」
リリーは、深々とお辞儀をして、その場を去っていった。
と思うと振り返り、「シャリテ寺院にお越しくださいね」とだけ言い残し、再びどこかへ去っていった。
クレアと真人は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げてから、宿へ戻っていった。
窓から外を見渡すと、そこには帰還した王国騎士団の馬車が無数に停車されていた。
王宮は僅かな時間で騒がしくなり、廊下は負傷兵達を運ぶ用の担架が玄関と救護室を往復していた。
そんな様子を進が見つめていると、不意に背後から何かが抱きついてきた。
「シンくん〜! たっだいま〜」
振り返るとそこには紫の美しく長い髪の特徴的な、輝くドレスを着た妖艶な女性がいた。
彼女のその豊満な肉体は、進の背中に押し付けられている。
進は不可抗力的に頬を赤く染めた。
「あれれ〜? また照れちゃって、相変わらず可愛いなぁ」
彼女は鋭い目つきからは想像できない愛らしい笑みを浮かべながら、進の頬を突く。
「マホロ様、おかえりなさいませ。 シン様をからかうのはその辺にしといて、お休みなさってください」
向かいの部屋から出てきたヴァイセは、「マホロ」という女性に頭を下げると、マホロの差し出したとんがり帽子を受け取った。
「だってアタシの生き甲斐だしこれ」
「シン様はこれから大事な面会があるので、またの機会に……」
「ヴァイセはそーいっていっつも誤魔化すんだから」
マホロは不服そうに呟いた。 それを見たヴァイセは少し考えてから、こっちを一瞥しマホロに頷いた。
「わかりました。 今晩はシン様の寝室にご招待いたしましょう」
「え、ホント? じゃお仕事頑張ってねー、シンくん」
マホロは嬉しそうにウィンクして去っていった。
進的にはあの容姿はバッチリ好みのタイプなのだが、あの様な騒がしいタイプは好みではない。
「今晩」というとつまりそういう事だろう。 ヴァイセに恨めしさを篭めた目を向けるが、彼はそれを察してか目を合わせずに「救護室においでください」とだけ言って、その場から去っていった。
救護室に脚を運ぶと、金髪青眼の騎士が起き上がり窓の外を見つめていた。
大した傷ではなかったのか、はたまた怪我をものともしないのか、他の騎士と違い、痛みを堪える苦しそうな喘ぎを洩らしていなかった。
その男の寂しそうな目は事情を知らなくとも同情してしまいそうなほどだった。
進の背後から現れたヴァイセは、進にそっと耳打ちした。
「リュミエール王国騎士団長・トルイ=アオフリティでございます。 シン様とは仲がよろしかったので、呼び捨てタメ口で問題ないと思われます。 二人称は『君』でございます」
進は頷いて咳払いした。
「御苦労だった、トルイ。 父の件は残念だったが、君には説明責任がある。 長旅の疲れに追い打ちをかけるようで申し訳ないが、話してはくれぬか?」
「……あれは、イルガチェフェのエチオ攻略中の事でした」
トルイの口は重々しく開かれた。