記憶喪失の勇者
「ここは……?」
一人の男が、眠りから冷めた。
白のワンピースを革のベルトで留め、ブーツ、グローブ、マントを装着したその姿は、どこかで見覚えのあるものだった。
腰には輝く剣が装備されている。
「俺は……何があったんだ?」
「何してるの? アンタ」
「え、あ、お、俺?」
呼びかけてきた女性は、ブロンドの短髪に美しいロシア系の顔立ちを持っていた。 真人は彼女の持つ大きな胸に興味を惹かれ、顔を赤くする。
「気付いたらここに、というかここどこです? 映画の撮影中?」
「エイガ? 記憶を失っているのか?」
女は怪訝な目をしてこちらを見つめる。
「いや、まあそんなとこですけど……」
かなり怪しいが、ここは取り敢えずお茶を濁そうと考えた真人はそれに同意した。
「身なりを見るに例の勇者だな。 まあいい、取り敢えず寒いし中に入れ」
女は真人に背を向け、目の前にあった家の戸についた南京錠を開けた。
女についていって入った家の中は、木の匂いと女性の匂いの混ざった神々しい香りが充満していた。
女は机の椅子を引いて、座るように催促した。
「アタシはクレア・ワラフー。 アンタ名前は?」
「俺ですか? えー、狩野真人」
「カーノ・マサト?」
都合の良い耳を持つクレアに、真人は吹き出した。
ムッとするクレアを落ち着かせるのはちょっと楽しく感じた。
そんなクレアの人柄に、人見知りの真人はゆっくりと心をほぐしていった。
「まあそれでいいや、和名は変だし」
納得した真人はカーノ・マサトを名乗る事にした。
聞くに武闘家のクレアは、魔王討伐のパーティーを編成する為に勇者からスカウトされ、今日は勇者が家に訪問する約束だったらしい。
「肝心の勇者が、なんと記憶喪失だったとはな」
ニヤリと白い八重歯を見せ、クレアはオーブンから出した骨付き肉をかじり出した。
溢れだす肉汁を舌で掬い、噛みしめる。
漂う匂いが食欲を刺激する。
「でさ、俺何もかも忘れちゃってさ。 まずここどこ? 勇者って何?」
「ここはリュミエール王国の郊外だ。 魔物が頻出するこの地域を、代々私達が護ってるのよ。 勇者ってのは魔王を討伐する精霊に選ばれた戦士の事だ」
クレアは水で口の中の物を流し込み、木のコップを机に置いた。
クレアが話を続ける。 真人はそれを黙って聞いた。
「この世界には四つの大陸があってな。 二つは人間、一つは魔物が支配してる。 魔王は魔族の王で、こいつのせいで何十年かに一度大災害が発生する」
頷いていた真人は思わず疑問を投げかけてしまった。
クレアは失言とも思われた彼の発言に難なく答えてみせた。
「大災害って……それほんとに魔王のせいなのか?」
「ああ。 大飢饉は昔から奴等の魔王継承式の儀式の時に起きてる。 大震災は魔王が婚約した際、大洪水は魔王が子を設けたときに毎回。 さすがにこれで因果関係を認めねぇわけにはなあ」
クレアは眠そうに欠伸をした。
「ちなみに魔王は寿命数千年だ」
「殺す必要があんのか? だって子供まで産んだら数千年は継承されないじゃん?」
「ところがどっこい」
クレアは気怠げな声を漏らした。
「奴がいる間は魔族の力が強まる。 つまりパワーバランスが崩れて人が襲われ始める。 ただちょっと辺境で人が食われるとかそんなちゃちな感じじゃなくて、下手すりゃ簡単に人間が滅ぶんだとさ。 伝承によると実際に滅ぼされかけたことがあったんだと」
そして彼女は真人に細くしなやかな指を指した。
「その時に絶滅寸前の人間を率いて劣勢をひっくり返したのが初代勇者ってわけ」
戸惑う真人は、「俺がその勇者の後継者?」と色白な指を自らに指した。
クレアは「そーゆーこと」と頷いてみせた。
「まあともかく、魔王が好き勝手しないように注意を逸らすのは大切な役割。 勇者がいない間は口減らしに適当な罪人を送り付けてるくらいだから、誰かがやらないといけないのよ」
クレアは頬杖をついて不満そうに事実を口にした。
「で、他に仲間はいないのか?」
「確か僧侶に連絡回したって言ってたし、その子じゃないかな──って、なんでアタシが」
クレアの機嫌は更に悪くなる。
真人は冷汗を書きながら彼女を宥めた。
立ち上がろうとした彼女の肩を抑える。 その肩からはどことなく懐かしい温もりを感じた。
「んじゃ、僧侶の所に行こうか」
クレアが真人の手を払い除け、立ち上がる。
呑気に欠伸をしてからドアを開けて出ていった彼女を、真人は慌てて追いかけるのだった。
「……なるほどな」
王の書斎をあさり、三日三晩休まず文献を読みふけった進は、この世界について大体理解していた。
元々進は文系であり、選択科目は世界史であり、それに関連する知識を調べるのが好きであった。
お陰で政治・経済・軍事の理論にはそれなりに詳しく、またこの世界の情勢についても興味を持つことができた。
「整理するか」
試験前のルーティーン。 進は紙とペンと定規を用意した。
黙々と紙に、得た情報を図と共に書き込んでいく。
室内にはペンのカリカリ、という小気味よい音が響き続ける。 しかしそれ以外は全くの静寂であった。
政治。 この世界の政治は大多数の国が絶対君主制である。
が、このリュミエール王国のみ、一部分立憲君主制に近い制度を取っている。
具体的に言えば、賢者会議である。
賢者会議とは、この国の宰相、王国騎士団の団長、王国魔術師団の団長、外務大臣、憲兵騎士団の団長、教会の大神官、尚書、大賢者による会議である。
この会議の全会一致により、王は一ヶ月その権限を失い、代わりに政治は大賢者が執り行うという物。
下手すればクーデターに利用されかねないので、この辺の人間と王は仲良くてはならない。
領土はエデン大陸の大半とその北側にある魔界大陸の南側。
遥か昔に人類が滅ぼされかけたとき、初代勇者が今のリュミエール王都『コスモス』から進軍し、怒涛の反撃によって魔界大陸の南側まで巻き返し、魔王を倒した事で休戦(実質は魔族の敗戦)により軍事境界線が引かれ、今はそこに貧民や奴隷が住んでいるという。
なお、エデン大陸においてはほぼ全ての国家を保護国化か属国化で支配下に置いている。
出来ていないのは隣国の「イルガチェフェ」のみである。
イルガチェフェはエデン最南の領土と多数の列島を支配下に置いているリュミエール、エスプレアには劣るものの、それに次ぐ大国家である。
経済。 当然ながらイデア大陸の大半の国家は金貨や銀貨での決済をしているが、エデン大陸では金本位制により『ムッシェル』という通貨が使用されている。
貿易は基本的にエデン大陸内で完結しているようだ。
軍事。 リュミエール王国は世界でも有数の軍国である。
世界最強と噂される王国騎士団と、最先端の技術を誇る王国魔術師団を抱えている。
この世界では当然近代兵器などあるはずもないのだが、起こっている戦争自体はかなり近代的である。
例えるなら騎士団は陸軍、魔術師団は海軍である。
騎士団とは王国直属の騎士や魔剣士達のギルドであり、近接戦闘を得意とする部隊。
装備は主に剣と盾である。
魔術師団は王国直属の魔術師や魔導師、召喚士のギルドであり、結界魔法による拠点、輸送船防衛や爆発魔法や雷撃魔法での騎士の援護、召喚士のクローンドラゴンによる航空支援等、主にサポートを行う。
治安については憲兵騎士団により守られている。
宗教。 エデン大陸においてメジャーな宗教は『シャリテ教』。
唯一神『ゼルス』を信仰する物だ。
この国では宗教は統治に用いられているらしく、王は信じていなくても大体信じている振りをするらしい。
と言うくらいには宗教の影響力は強く、大神官は政治にも口を出す。
それに加え、騎士団の予備隊として『聖騎士団』を大神官が率いている。
彼等は「対魔族戦争」や「防衛戦争」、即ち聖戦のプロフェッショナルであり、基本的に国家に対し協力的だが、大神官側の軍であるため、王が無闇矢鱈に指揮できるものではない。 大神官が王に対して協力的な際のみ、援助してくれるだけである。
言語。 リュミエール語を使用。
通称「律語」。
進自身は律語を話せるが、「律語=日本語」なのか、はたまた話している律語が日本語として解釈されているのかはわからない。
伝説。 この世界では神話というよりは勇者伝説のが有名らしく、それが代わりに語り継がれている。
勇者とは、魔王の力が継承されると、大精霊が現れて胎児又は幼児に力を与える。
それが成長すると、精霊の力を持った戦士となる。 それこそが勇者であるらしい。
「ふう」
疲れきった進は赤い本を閉じた。 と同時にドアがノックされ、進は「入れ」と叫ぶと、プレートに紅茶を乗せたヴァイセが室内に入ってきた。
「お勉強ですか、シン様」
「ああ、この世界についてもっと知らないとな」
ヴァイセがティーカップを進の眼前にある焦げ茶色の大きな机に置いた。
「元々お勉強を嗜むような方では無かったのですけどね……どうしてしまったのでしょうか」
「俺だってそんな勉強好きではないけどな」
進はヴァイセの出した砂糖を紅茶に入れ、小さなスプーンでかき混ぜる。
溶け出した砂糖が、瞬く間に竜巻に呑まれていく。
「ところで聞きましたか、シン様」
プレートを抱えたヴァイセは、紅茶を啜る進に語りかけた。
「大賢者曰く、精霊の託宣で『まもなく勇者が現れる』とのことだそうです」
「勇者が?」
興味を示す進。 だがヴァイセ曰く、勇者に対する支援は見込めないという。
「なぜ?」
「我々は今、財政難に陥っています。 魔王のせいで作物が育たない上、魔界大陸の軍事境界線の防衛予算、それからエスプレア方面の国境警備隊の駐屯費用、イルガチェフェへの攻撃費用と、リュミエールへの脅威が多すぎて……。 剣と盾、鎧の原材料として鉄も枯渇していまして、故に用意できてせいぜい銅の装備程度かと」
ヴァイセの瞳には、やるせなさが垣間見えた。
しかし進は即座に回答した。
「だが、魔族は緊急的な脅威だ。 イルガチェフェやエスプレアと即時休戦協定を結んで対魔王連合軍の編成を進言すれば良いのではないか?」
「魔王に対して一般的な攻撃は無力です。 勇者とその周辺の極僅かな範囲からの攻撃のみが効力を持つので、所詮大部隊を送り付けても、無意味に消耗するだけです……」
ヴァイセは溜息をついた。 進は彼にティーカップを下げさせると、口を開いた。
「つまり、騎士団に外敵の排除をさせ、勇者に討伐させればいいんだな?」
「そうでございますが」
ヴァイセの不思議そうな返答に、進は不敵な笑みを浮かべた。
「面白そうじゃないか」
と、同時に、突如廊下が喧騒に包まれ、書斎を慌てて開けて入ってきた伝令魔術師が叫んだ。
「大変です! クラヌス王が!!」
進とヴァイセが、驚いて彼に問う。
「何事だ」
焦燥した伝令魔術師は、震える声を必死に紡ぎながら、言葉を発した。
「王が……王が戦死されました!」