彼女は食べて除霊する(プロトタイプ)
彼女の前に並ぶのは、ココア色のシフォンケーキに真っ赤なイチゴのショートケーキ。
白いクリームが雲のように盛られたホットケーキ。
溶けたアイスクリームが筋を描いて沈んでいく、輝く緑のメロンソーダ。
むせかえるほどの甘い空気の風下で、彼女は愉悦のほほえみを浮かべるのだ。
「そうだね。これが欲しかったんだよね」
そして口を大きくあけた。
「さあ、いまから食べるよ」
彼女の黒い瞳に、ぷくりと浮かぶ涙の滴。
「いただきまぁす」
生クリームを乗せたフルーツを口に押し込めば、彼女の背が白く揺れた。
ホットケーキにたっぷりのクリームを乗せて頬張れば、体が震えた。
シフォンケーキの空気のようなスポンジをかみ砕き、クリームを舐めとり、ショートケーキの赤いイチゴを噛みしめる。すると声が聞こえた。
それは喜びの声だ。
やがて彼女の背から、光が、声が、あふれる。
その光は喜びの色だ。
その声は至福の音だ。
彼女の背からあふれた光はやがて年輩女性の形となって、まっすぐ天へと駆け上がっていく。
同時に彼女の『体』は、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
倒れる彼女の体を自分の体で受け止めたケンタは、長い尾を垂れ小さくため息をついた。
「……見てるだけで胸焼けがする」
「……ん?」
彼女が倒れ伏して1時間。
古い置き時計の針がきっちり1時間を越えたのを確認してから、ケンタは口を開ける。
もしその声を聞くものがあれば、犬のうなり声にしか聞こえなかっただろう。
しかし床に伸びた彼女はその声で目覚めたように、かすかに頭をうごかす。
「おはよう、小百合。ひどい顔だな」
「おはようケンタ。きっちり一時間だね、いつもありがとう」
ひどく顔色が悪い。まるで二日酔いでもしたような顔だ。彼女は……小百合は乱れた頭をくしゃくしゃとかき回す。
どこで倒れてもいいように、彼女の頭はいつでもショートボブだった。
「3日前はチーズケーキで、昨日はたい焼き。とどめのケーキの詰め合わせ。確かに私、甘いもの大好きだけど、続くときついかも。塩っぽいものがたべたいなあ」
小百合は枯れた声で起き上がり、真っ白い顔を手のひらで軽くたたく。そして薄汚れた鏡に顔を映した。
小さな顔に、大きな目。小さな手に小さな体。夢見るような茶色の瞳は、一見するとティーンエイジャーだ。
彼女の実際の年齢をケンタは知らない。それどころか生まれも過去も何もしらない。
実際の所、その名前が本物かどうかさえ知らないのだ。
「そもそもおまえは依頼を受けすぎなんだ。太るぞ」
「言わないで。実はこの半年で2キロ増えてるの」
小百合は鏡をのぞき込んで柔らかい頬をつねる。餅のようによく延びる頬である。
ケンタはその横に座る……文字通り、足を揃えてしっぽを丸め、犬としては最高にお行儀のいい格好で。
「ケンタ」
小百合はぶかぶかのシャツから肩が丸出しになることも気にせずに、ケンタの頭をなで回した。
鏡を覗けば、大きな黒のシェパード犬が少女になで回されている風景が映っている。
「ケンタ、夏毛なのにふかふかだねえ」
「気安くさわるな」
ケンタはそっと、目を伏せた。
「でもねえ」
ケンタの目線にも気づかず、小百合は嬉しそうに微笑むのだ。
「おばあちゃんの最期の望みが、机いっぱいに並んだケーキを食べること……なんて、すごくかわいいよねえ」
指を絡めて微笑む小百合は、つい先ほどまで静かに死闘を繰り広げていたとは思えないほどの無邪気さだ。ケンタは思わずため息をつく
「食べて、除霊する。なあ小百合。人の仕事のやり方に口出しする事はしねえけど、俺は正直、気に入らない」
……彼女は、小百合は、この世界に少なからず存在する除霊師のひとり。そして世界にそれほど数多くない、本物の除霊師のひとりだった。
彼女は霊を体に取り込む。そして霊と対話する。この世に未練を残した霊は、何かしら思い残しがあるものだ。
死刑囚だって最期には好きなものを食べられる。しかし突然の死におそわれたものは?
その思い残しは、時に食べ物である。死に際にあれが食べたかった、これを食べておけばよかった……どんな悪人でもちょっとは思うものである。
その思いは後悔となり悲しみとなり、一周回って怨恨となる。
彼女はそれを探り出し、体内の霊と味覚を共有する。そして、食べる。つまり、彼女は食べて、除霊する。
「そもそもおまえの除霊の仕方はあまりに危険で……」
「待って。また依頼」
皺の寄ったケンタの鼻先を、小百合がぽん。とたたいた。
犬にするような態度は止めてくれ。と、ケンタが何度いっても、彼女はその行動をやめない。
小百合はむきだしの足で元気よく床を蹴り上げ、立ち上がった。
彼女が手にする古い携帯電話。その画面が青く光り、やがてカタカナだけのメッセージが届く。文字数は全角50文字までだ。
そんな時代遅れのデジタルで彼女は依頼を受ける。
「小百合」
「除霊の依頼だ。いこ」
小百合は立ち上がり、散らかし放題の……彼女いわくアンティークのアトリエ……そのタンスから帽子とリード、小さな鞄を取りだす。
「おまえ、倒れて目が覚めたばかりだぞ。あまりに早すぎる」
「平気だよ、それに仕事は縁のものだから、受けられるうちに受けておかないと」
髪を手櫛で整えて、少女趣味な麦わら帽子をかぶると彼女は古くさい鏡の前で一周まわってみせる。
「もう夏だし、麦わら帽子でもいいよね」
仕方なくケンタは床に散らばった上着と、長いスカートをくわえて彼女の前にぽとりと落とす。
「せめて何か上に羽織れ、その服はでかすぎだ、あと下も短すぎだ」
「ありがと」
彼女は満面の笑みを浮かべると、何の躊躇もなくその場で服を着替えはじめる。そのせいで、ケンタは不本意ながら伏せだけは上手になってしまった。
「……小百合。これはまずい」
携帯電話に届いたメッセージ。それに書かれた現場は、小百合の家から徒歩で20分ほどの場所にあった。
幹線道路を超えて住宅街を抜け、公園を横目に細道を曲がる。
一歩、近づくたびにケンタの背が震える。ケンタのリードを握り締める小百合の目つきも、真剣なものになっていく。
「小百合、これはよくない気配だ」
角を曲がったとたん、ケンタの背が震える。毛が一斉にそそり立ち、そして不快な空気がケンタを包む。
……どの場所が現場か、など教えてもらわなくても分かる。角を曲がったその場所だ。
幽霊の居る場所は、いやな空気は、離れていてもよくわかる。
その空気に向かって、ケンタは思わず小さくうなる。その声は小百合以外には犬の声にしか聞こえない。
小百合の隣に並んで歩く年輩の女は、怪訝そうにケンタをみた。
「わんちゃん、ご機嫌ななめ?」
「気にしないでください。ほら、暑いからご機嫌が悪くて……ああ。あの場所ですか、どよん。ってしてますねえ」
小百合はリードを器用にあやつって、ケンタの体を自分の横にぴたりとつけると、大きな帽子をぐいっとあげた。
彼女の白い顎に、汗が伝い落ちてくる。
日差しが刺さるように暑い時間帯だ。最近は異常気象で気温も高い。
しかし、不思議と腹の底が冷えるような冷気だけは薄れない。
「本当に、薄暗い。外は晴れてるのに、ここだけ、どよん」
「ハイツよ。昔は会社の寮だったんだけどね。社長が亡くなっちゃって会社もつぶれて、寮も解散。こんな古いアパート誰も住まないでしょう? だから潰して新しいマンションでも……って、なったときに……あれよ」
二人と一匹の前には、『工事中』の看板がかかった小さな建物があった。
ハイツなどといった、しゃれたものではない。古ぼけた、今にも崩れそうな錆のはえた古いアパートだ。
部屋は全部で6つ。立ち入り厳禁の看板が赤錆まみれの雨ざらしで立っている。そんなものがなくても、誰も立ち寄らないだろう。
夏が放つ青の色を弾き飛ばすように、建物からは不気味な空気が滲み出している。この場所は、暑い日差しにも美しい夕暮れの色にも染まらない。
重苦しい。息苦しい。悲しい。痛い。ここから放たれるのは、そんな負の色だ。ケンタは目を細めて、部屋をひとつひとつ、眺める。その目が、西の部屋で止まった。
「一階の西の部屋、女の子が死んでたの。あ、でもね、事件じゃないの……」
分かるでしょう。という風に、女は小百合に目配せする。ケンタはあきれたように欠伸を漏らした。
言われなくてもいわゆるプロには分かる。
この淀んだ空気は尋常ではない。殺人か、それとも相当の恨みを抱いて自ら命を絶ったのか、どちらかだ。
女のいう西の部屋の窓には、淀んだ黒い空気が見える。それは時折人の形になり、へどろのように窓に張り付いている。
窓を殴っているのか、掌の跡が浮かび上がることもある。
薄く開いた窓から黒い腕が見えた。細い指が窓枠をつかんで、ぞろりと外に漏れる。空気は冷えた泥のように重苦しい。
(……自殺か、ばからしい)
数百件の自殺者の霊を、ケンタは見てきた。小百合も口にはしないが、見ているはずだ。
自殺者はだいたい、この世に未練を残している。その未練は黒い影となり、とどまり続ける。
「会社の寮っていってるけど、実際は場末の飲み屋のね、寮だったみたいなの。だから訳ありの子だったらしくって」
「身よりは?」
「ない、ない。一人っきり。だから出て行く先もなかったみたいで最後までこのアパートに残ってて……取り壊す数日前に、ね……あたし、あんまりに可哀想でねえ。知り合いに頼んでお経だけ、あげてもらったんだけど……」
「マンションを潰そうとしたら、変なことがおきる……と」
小百合は目を細めて、西の一角を見ている。注意を促すように彼女の足を踏みつければ、小百合はケンタの背をなでた。
「……犬っころにするような真似はやめろ、小百合」
「どんな変なことが?」
「窓が揺れたり、水が噴き出したり……それくらいなら良かったんだけど最近は工事の人が足を滑らせて怪我をしちゃって。ああいう人たちって縁起を担ぐでしょう」
窓に張り付く影もこちらに気づいた。風もないのに窓が揺れる。
依頼者の女は鈍感なのか、それに気づきもしない。窓が薄く開いて、闇の向こうから淀んだ目が覗く。
長い髪の女である。がりがりにやせ細り、目だけがぎらぎらと輝いている。
恨みだ。その恨みの目は、小百合をしっかりと見つめている。ケンタは一歩進んで、小百合の前に立つ。
「あと、あけてもない窓が開くって噂も……これ以上変なことが続くようなら、この現場から手を引きたいって、工事の監督さんから言われてて……だから今月中にどうにかしないと。でね、除霊の上手な人がいるって紹介を受けて……私はそんな信じちゃいない……あ。ごめんね? でも、あんまりにも非現実的じゃない?」
「そうですよねえ。よく言われます」
小百合は気づいているのかいないのか、のんきに笑う。
「とても非現実的で、やっぱり信用できないと思いますよ。だから除霊料は成功報酬で結構ですし、お試し感覚で気軽に利用してくださいって、みなさんにお伝えしてるんです」
「あら、そう?」
「とりあえず、中を拝見して、それから一週間。どうでしょう。成功すればお支払い。失敗なら……」
小百合は顎に手をおき、首を傾げる。
「失敗したことがないので、この場合を考えたことがありませんでした」
小百合の軽い物言いに、女が吹き出す。場は一瞬明るく染まったが、すぐにヘドロのような空気に変わる。アパートにへばりついた霊は随分陰気な性質らしい。
「助かるわあ。あ、わんちゃんも一緒に?」
「ええ」
ケンタのリードを、小百合が軽くひく。
首を持って行かれるこの感覚はいつまで経っても慣れない。
「わんちゃん、私の相棒なんです」
笑う小百合の足を、ケンタは思い切り踏みしめた。
「人のこと、妙な言いぐさをしやがったな。噛むぞ」
女が去ったあと、ケンタは歯をむき出しにしてうなる。
しかし小百合は頓着もせず、工事現場の看板の隙間からアパートへ入り込んだ。
帽子がひっかかり地面に落ちても気にも止めない。ケンタは仕方なく落ちた帽子をくわえて、彼女のあとを追う。
「あ。ケンタ。こっちだよ」
「俺は人間だ」
「そうだね」
「前から言っているが、俺は犬じゃない、人間だ。でも今は見た目がこれだ。体もこれだ。だからリードにつながれるのも、犬の飯を食わされるのも我慢してやる。しかし俺のことを犬だなんて、二度と呼ぶな」
ケンタがうなっても、小百合は気にも留めない。いらいらと、ケンタはその鼻先を小百合に押しつけた。
軽く甘噛みをしても、小百合はくすぐったそうに笑って頭をなでてくるだけだ。
本気で噛めば小百合も後悔するだろう。しかしその柔らかい肌を噛みちぎるような勇気を、ケンタは持ち合わせていない。
「やめろ」
そもそもケンタがこのような格好であるのは、不本意なことである。
もともとは人間だった……人間だったはずだ。
ただしその記憶は薄い。人間だったころの記憶は、日々薄れていく。
しかし遠くに、確かな記憶があるのだ。かつては人だった。顔も名前も覚えていないが。
世界でも数少ない本物の除霊師だった……はずだ。
しかし死んだ。いや、取り殺された……そのあたりの記憶は薄いが、死んだ記憶はある。
そして気が付けば、このような姿になっていた。それが霊の仕業なのか、除霊師の定めなのかは分からない。
このような姿になってなお、彼は人としての知性を持ち合わせていた。記憶さえ曖昧な癖に、人としての矜持が残されていた。
記憶があるからこそ、絶望だった。悲痛だった。
過去をなくしてなお、かつて自分が人であったことを覚えているのは悲しかった。
ケンタは犬の姿のまま数年さまよい、保健所や野良犬との戦いを繰り広げた。そして半年前、彼女に……小百合に出会ったのである。
彼女は不思議とケンタの言葉を理解した。さらに無類の犬好きであった。
このような小娘に頼るのははなはだ不本意ではあったが、ケンタは彼女を頼らざるを得なかった。
彼女がケンタと同業者であったのは偶然か必然か。
しかし彼女のおかげでケンタは身を隠す場所と安心して眠れる環境と、何より孤独を忘れられた。
口にはしないがケンタは多少、小百合に感謝はしている。
「俺はいつか人に戻るのであって、今の姿は仮住まいなんだから……ん?」
文句を付けるケンタの口が、自然に閉じた。小百合もリードを握る手が強くなっている。
「おっと……なあ小百合。これは冗談抜きだ。まずい」
ケンタは思わず小百合の前に立って、身を低くした。
二人はすでにアパートに入り込んでいる。古いコンクリート、錆が浮いて崩れかけたポスト、崩れた電灯、日差しさえ届かない冷たい空気、どこかで漏れる水の音。
真っ暗な廊下の向こう、それは西に向かう廊下だ。その奥、闇の淀んだその場所に……白い影が揺れている。
先ほどは窓にいた影だ。それが小百合の気配に引き寄せられるように、廊下へ滲み出している。
化け物となり果てたその女がどのような悲惨な死を遂げたのか、ケンタは知らない。怨んで出てくるくらいなのだから、ろくな死に様ではなかったのだろう。
今や女はヘドロのようななりで、その霊は廊下に文字通りにじみ出ている。
これは尋常の霊ではない。と、ケンタの背が膨れた。ぞくぞくと、腹の底が震える。期待から歯が鳴った。
……かみ殺してやる。ケンタの中に眠る、凶暴性が喜びの声をあげた。
強い霊をみれば、凶悪な霊に出会えばケンタは嬉しいのだ。
このような理不尽な姿にした霊という存在を、この口でかみ殺せる。犬の姿になってなお、ケンタの持つ除霊の力は薄れていない。
人の頃にどのような除霊をしていたのか記憶にないが、今の姿のケンタは霊をかみ殺せる。
かみ砕き、地面にたたきつけ爪で潰す。どんなに凶悪な霊でも、泣いてわびる。さんざん泣き言を聞いてやり、そしてそれからかみ殺すのだ。希望を与えてから、絶望をたたきつけるのだ。
それが、ケンタの喜びとなる。
「小百合、おまえの手に負えるような、やわやわな霊じゃねえ。引っ込んでな。俺が一瞬で終わらせてやるよ」
「だめ!」
飛びかかろうとした瞬間、首が締まった。小百合がリードを強く引いたのだ。きゃん、と自分でも情けない声が漏れる。
「ケンタ、だめ。だって」
「おま……え」
「この子。泣いてる」
小百合はケンタのリードを水道管に結びつけて、一人で廊下を歩きはじめる。
急いであとを追いかけようとするが、足がコンクリートにから滑りする。首が締まって、一歩も進めない。
「小百合っ」
「だって泣いてる子を無理矢理、除霊なんてできないよ」
小百合は一歩、一歩、白い固まりに向かっていく。スカートがゆらゆら揺れる。
真っ白なスカートに、黄色いカーディガン、大きなつばの麦わら帽子。この暗闇に、ちっとも似合わないその格好だけが不自然に浮かんでみる。
崩れ落ちた扉が並ぶ薄暗い廊下。風もないのに揺れる電灯。割れて転がる消火器に、腐った電気メーター。
そんな薄気味悪い廊下を、小百合はまっすぐに進んでいく。
廊下の一番奥、闇の渦巻くその場所に向かって。
「小百合、いくな!」
霊は……その白い闇は、座り込んだ女の形となった。がりがりの体の、不健康そうな女である。傷んだ茶髪に、派手なメイク。淀んだ黒い目が、小百合をみる。
その目には恨みと憎しみしかない。
「小百合、駄目だ!」
ケンタはがむしゃらに首をふりまわす。ぎしぎしと、水道管がさびた音をたてる……あと少しだ。
「……小百合!」
がん、と派手な音をたてて錆水をまき散らし水道管がはずれる。
飛ぶように小百合に飛びつけば、彼女は地面に座り込んだまま、力なく微笑んだ。
「残念、ケンタ」
彼女の体に、静かに白い闇が吸い込まれていく。
まるで白い布に泥水が吸い込まれていくように、彼女の皮膚が一瞬だけどす黒く染まる。
「もう、入っちゃったから、食べて除霊するしかないね、ケンタ」
「おまえ……」
「ああくるしい……平気、大丈夫……いたい……大丈夫だよ……」
小百合の顔がゆがみ、霊の顔になった。続いて小百合の顔になった。口から漏れる声も、二人分だ。恨み声と、小百合自身の声と。
「ちょっとだけ、大人しくしていてね」
やがて彼女は大きなあめ玉を飲む込むように、ごくりとのどを鳴らす。
すると、顔も声も小百合のものに戻った。
「うーん……この感じ……こう、香ばしいもの……たぶん、甘いものじゃない。しょっぱいものだ。うれしいな」
くるくると彼女の目が動く。ケンタはそっと彼女によりそい、鼻先で小百合の首筋をつつく。驚くほど、そこは冷えている。
(いけない)
ケンタはぞっと震えた。これはいやな空気だ。これまで多くの霊をみてきた。強い霊も凶悪な霊もあった。しかしこれはタイプが違う。悲しみと憎しみが渦巻くような霊である。
先ほど、小百合の顔を支配していた女の顔からは、生前の楽しみなど一つも感じられない。
「……あ。分かった! これ、焼きそばだ!」
しかし小百合はのんきに、手を打ち鳴らすのである。
そして地面で打った膝を痛そうにさすりながら、彼女は立ち上がり手を振り上げた。
「さ。帰って食べよう。彼女の食べたかったものを」
「……どうしてそんな無茶ばっかりするんだ」
霊の消えたアパートは、いきなり湿度が戻る。
夏らしい白い日差しが急に差し込み、コンクリートに反射した。
「あれでもなかった、これでもなかった。さすがにもう、手打ちだなあ」
家に戻って数日。小百合はずっとうなっている。
「うーん。有名なお店の焼きそば……カップ焼きそば……」
ごてごてと飾りのついた大きなベッドに寝転がり、彼女はずっと天井をみあげ、手のひらを見つめる。
その手のひらは黒く淀んでいた。
アンティークな小物がところ狭しと転がる部屋は、いまやサウナのようないやな湿度である。
そのくせ、薄暗い。
気持ちの悪い、どろりとした空気が小百合からあふれて部屋を浸食しているのだ。
「お好み焼き屋さんの焼きそば。ちょっと高級店の鉄板焼きそば。中華の焼きそば」
小百合の指だけじゃない。顔も、腕も、足も。それは毒を受けたように黒い。
それに気づかないのか、無視しているのか。彼女は枕をかかえたまま、足を壁に押し当てて行儀悪く寝転がっている。
「いろいろ食べたけど、ぜんぜんだめ……約束の時間がすぎちゃう……」
体の中に女の霊を詰め込んで帰宅した小百合が最初に足を運んだのはお好み焼き屋だ。
この地方でも一番美味しいと噂のその店で、焼きたての海鮮焼きそばを食べた。それでも女の恨みは消えない。
続いて足を運んだのは、高級鉄板の店。なけなしの金でただ一品、締めのそばを頼んだ。
怪訝そうにする店員の前で完食したが結果は同じ。中華の湿った焼きそばも、カップ焼きそばも、屋台の焼きそばも、あれもこれも彼女は試した。
「夏祭りの焼きそばは、いけると思ったんだよね。安っぽくて、あつあつで、にぎやかで、提灯の光がきれいで……これぞ夏の思い出って感じで……」
大きな花火が打ち上がる河川敷。混み合う会場の中、真っ青な顔色で彼女は屋台の焼きそばを3軒も梯子した。
「カップの焼きそばは、駄目だったかな……だって、インスタントの焼きそばって、焼いてる感じがしないもの」
淀んだ部屋には、各種メーカーのカップ焼きそばのなれの果てが転がっている。
香ばしい香りもここまで部屋を浸食すると悪臭だ。
「小百合」
「ケンタも考えてよ。犬用の焼きそばとかあるのかなあ……」
「ちゃかすなよ。おまえ……鏡をみたか」
ケンタはうなって空気をはらう。ケンタの声が響いた場所だけ、空気が清浄なものとなった。
しかしはらえるのは、一瞬だけのこと。元凶が小百合の中にあるのだ。すぐに黒い空気がにじんで部屋を支配する。
「……みてない」
「みろ」
「やだ」
「だって」
小百合は顔をおさえた。
そうだ、彼女も気づいているはずだ。小百合の顔は、ひどく淀んでいる。女の顔がにじみだして、時折、顔色が失われることもある。
「わかるもん。ひどい顔をしてる。知ってる。だって、何度もこういうの経験してる」
「小百合」
ケンタはベッドに飛び乗り、小百合の体を鼻先でつつく。足でかく、それでも彼女は意固地に背を向ける。
「それはおまえが一人で除霊しているときのことだろう。今は俺がいる。俺がかみ殺してやるから、気を抜け、気を抜けばそいつは地縛霊だ。もとの場所に戻ろうとする。そのときにかみ殺す」
「だめだよ。ケンタが強いことは知ってる。だからこそだめ。だって」
小百合は顔をゆっくりと、あげた。その目は、真っ赤だ。そして涙で塗れていた。
ほろほろと、涙がいく筋も流れて落ちる。それはケンタの頭に雨のようにふる。
「この子、ずっと泣いてるんだもの」
「悪霊は、泣くもんだ。泣いて泣く振りをして相手の同情をかって、そして恨みを晴らすんだ。あいつらに善良な心なんてあるわけがない。ただの悪意の固まりだ」
「……」
ゆっくりと小百合の体がベッドに沈んだ。
小百合を支配している霊を引きずりだしたくとも、彼女の中にいる限りケンタには手の出しようもないのだ。今かみついても、傷つくのは小百合の体だけだ。
「小百合?」
鼻先でつつく、足先でなでる。しかし小百合は動かない。
「小百合!」
その細い肩を甘くかむ。動かない。体がどんどんと冷たくなっていく。
「小百合、もし、おまえが死んだら」
「けん……た……」
小さく、小百合が震えた。
その体を押さえると、彼女の目が大きく見開かれた。
「……手作りの」
「手作り?」
小百合はゆっくりと頭をおこして、ケンタを見つめる。その目の色はすっかり小百合のものに戻っている。
「手作りの焼きそばだ!」
彼女は意気揚々と叫び、そしてベッドから転がり落ちる。
その細い体のどこにそんな力があったのか、小百合はケンタが止めるのも聞かずに台所に立っていた。
「野菜は……キャベツちょびっとと、ああ、モヤシもあるある。お肉はないけど冷凍してるベーコンと……たしか焼きそばの麺は買ってある。ソースもあり」
冷蔵庫をのぞき込み大きなフライパンを構えた小百合のそばで、ケンタはおろおろと、ただかけずり回る。
自分の足がたてるカツカツという音が腹立たしかった。この体では、小百合を止めることもできない。
「おまえそんな体で……」
「だってケンタは作れないもの」
しかし小百合はケンタの心配などどこ吹く風で、案外器用に野菜を切る、炒める。
にんじん、キャベツにタマネギ、モヤシ。そしてベーコン。
ざくざくと炒めて酒を振り入れると、部屋中に野菜の香りが漂った。
「……うん。わかる……ふふ」
そして小百合は時折その手をとめて、目を閉じて、なにやらつぶやき笑うのだ。
笑った分だけ、不思議と空気が柔らかくなる。さきほどまで部屋を支配していた嫌な空気が薄れていく。
「……小百合?」
「私ね、幽霊と記憶を共有できるの」
小百合は袋入りの焼きそばの麺を手でほぐし、フライパンに放り込む。
野菜が跳ね飛ぶのもかまわずかき回し、そしてソースをかけた。
じゅ。と、派手な音が響く。
「……この子ね。小さな時に苦労して苦労して家を抜け出していけない道に進んで」
小百合は自分の胸のあたりをそっと押さえる。
「ぼろぼろになったところを、スナックに拾われたんだって。きついけど実は優しいママさんや、お姉さんたち。いやなお客さんもたくさんいたけど……」
波はあるものの空気が、どんどんと正常なものになっていく。
「かわいい後輩ができて、ママさんが悪い男から守ってくれて、お姉さんたちが優しくしてくれて、あのアパートで、まるで家族みたいに一緒の食卓を囲んで夜食を食べて」
ほろりと、小百合の目から黒い涙があふれて落ちる。それは霊の流す涙だった。
「……でも、本当の子供みたいに可愛がってくれたママさんが亡くなって」
部屋はいまや、ソースと野菜の香りでいっぱいだ。
熱くなったフライパンの上でソースが跳ねる。音を立てて、沸々とにぎやかに。
野菜とベーコンが焦げていく香りもする、ソースの甘い香りに混じり合う。
「仲のよかったひとたちが一人一人いなくなって、アパートが解体されることになって」
じゅ、じゅ、とフライパンが激しい音をたてる。麺がほぐれて柔らかくなっていく音だ。
ケンタは思わず台所に手をおいてのぞき込む。フライパンいっぱい、あふれんばかりに焼きそばが作られている。
「でも行くところもなくって、ひとりぼっちで」
小百合の体から負の色が薄れていく。
彼女の顔にまた一筋の涙が浮かんで、床に散った。
「ひとりぼっちには慣れていたけど、久しぶりのひとりぼっちは寂しくて」
押さえる胸のあたりがぽっと光り、ゆるりと白いものが飛び出してきた。それは恐る恐る、ゆっくりと姿を見せて小百合の手にふれる。
女の、生白い腕である。
「ママさんが入院しちゃう前に、ご飯を作ってもらう約束をしてたんだって……そう、そう……」
小百合の中から現れた手は恐ろしい色ではない。その色は、綺麗な白色だ。
「ママさんの得意料理は焼きそばで」
小百合はその手をしっかりと握った。
「楽しみにしてたのに、ごめんねって……だから、食べなきゃ死ねないって」
「小百合、焦げてる」
「おっと」
フライパンから香るのは、焦げる一歩手前のソースだ。
指摘すると小百合はあわてて火を止め、焼きそばの上から鰹節とアオノリ、それに紅ショウガをふりかける。
「……ん。これくらいがいいんだよね」
それを山盛り皿にのせると、大きなグラスにたっぷりの氷、そこにすっかり気の抜けたコーラをそそぎこむ。
かすかに残った茶色の泡がはじけて宙にとぶ。泡があふれてグラスを伝い落ちる。
白い夏の日差しが、窓から差し込んでテーブルの上を染めあげた。
白ぬけしたような日差しに、濃い焼きそばの色、紅ショウガの赤にアオノリの青。そしてコーラの泡の色。
「すっごく、夏っぽい!」
肘で机の上のものをはじきのけ、小百合は大盛りの焼きそばに向かい合った。
「これを食べたかったんだよね」
囁いて、箸をつかむ。
「いただき、ます」
柔らかくちぎれそうな茶色の麺、所々が焦げて堅くなっている。
野菜と肉と紅ショウガがからみつき、色とりどりになったその一口を、小百合は大きく噛みしめそして飲み込む。
「うん……ママの味だよ。そうだよ。おいしいよ。おいしいね。これが食べたかったんだよね」
同時に、彼女の中から喜びの声が聞こえた。
至福の音だ至福の色だ至福の声だ。それは小百合の中からまっすぐに飛び出して、一瞬だけ女の形を取る。
その影は小百合の頭をそっとなでて、そしてやがて宙へ離散した。
女の霊が去った瞬間から、小百合は伏せる羽目となる。彼女が回復するまで、3日は無駄にすることとなった。
除霊による困憊ではない。ただの胃もたれだ。
甘いもののあとに立て続けに焼きそばざんまい。体が持つわけがない。
「……小百合、今回はうまくいったから良いものを」
彼女が伏せている間に例のアパートからはすっかり悪い気が消えたと、オーナーより喜びの連絡を受けた。
不思議な現象はかききえて、今では突貫で工事が行われている頃である。
受け取ったのは予定よりも多い謝礼金と、中元代わりの高級ステーキ肉。
肉はともかく謝礼金を受け取った小百合は元気を取り戻し、ケンタをつれて夏の町へと飛び出した。
「わかってるわかってる。ねえケンタ。謝礼金が振り込まれたからいつもは買えない高いドッグフードを買ってみようか。具が豪華なやつ。もしくはスープっぽいやつ。おいしいってテレビでいってた」
外はこの夏一番の最高気温。毎日更新し続けている暑い夏だ。
刺さるような日差しをものともせず、小百合は薄いワンピースとサンダル一枚でアスファルトの上をいく。
「ふつうの悪霊ってのは、食い物くらいじゃ動かない。これまでは運が良かっただけだ。わかってるのか」
「はいはい」
ケンタを引きずり町へ飛び出すなり、彼女がまず向かったのはペットショップだ。
理不尽さにケンタが唸ろうが、地面で足を掻いて抗議をしようが彼女の足が止まらない。
「あ。そうだ。夏のアスファルトは熱いから、犬用の靴をかわない? 最近かわいいの多いから気になってるんだ。でもやっぱり餌関係が最優先かなあ」
「小百合……たまには俺の話を真剣に聞けっ」
「私の食べ物を買ってもいいけど、焼きそばを作りすぎちゃったから、しばらく焼きそば生活だし、そのあとはステーキ。ああ。胃薬をかっておかないと」
小百合は人の話を聞かない。
除霊をおえた彼女はすっかり元気になって、跳ね上がらんばかりとなっていた。今また依頼があれば、飛んで向かいそうな勢いだ。
「小百合っ」
「それに最近お給料が少なくてケンタにいいもの食べさせてあげてないし、おやつも買ってないでしょ。おもちゃも最近はごぶさただし」
「前からいってるが、おまえのやり方は、危なすぎる」
すぐ目前には、この地区最大のペットショップが燦然と輝いてる。
夏の日差しをうけたその建物からは、犬や猫や様々な香りと音が聞こえてくる。
その声や香りを感じるだけでケンタはげっそりとしてしまう。
しかし、その方向に向かって、小百合は今にも駆けていきそうなのだ。
「はいはい。でも、私、共感できる霊しか吸い込めないから、だから危険はないんだ。共感して話を聞いてあげて……だから絶対、最後ははらえるの。このやり方を変えるつもりはないよ」
「共感?」
「なんていうのかな……寂しいとか、悲しいとかそういう霊じゃないと吸い込めないの。そういう子じゃないとはらえない……特に今回は境遇が似てたから放っておけなくて」
「小百合?」
小百合はふと足を止める。逆光となって彼女の表情はよくみえないが、小百合は目を細めてどこかをみている。
「ひとりぼっちは案外すぐに慣れるんだよケンタ。でも一回、ひとりぼっちじゃなくなってから、またひとりぼっちになると、とても寂しいしとても悲しい」
彼女のワンピースが、熱風をはらんで膨らむ。
「私はもう、悲しい思いをしたくないから。だから私はおいしいものを食べて除霊するの」
「小百合……」
ケンタは呆然と、小百合の顔を見上げる。
ケンタは彼女の過去を知らない。本名も知らなければ、彼女の人生もしらない。
しかし、唐突にふと思い出した。
ケンタが犬の姿になり町をさまよっていたころに、噂にきいたのだ。
……一年前、とある除霊師の男が養女を一人残して、死んだ。
この稼業の業なのか、良い死に方ではなかったようだ。ひどく凶悪なものを相手にしたようだ。その死に様と悲劇は除霊師の間で語りぐさとなっていた。
ケンタはただの野良犬のふりをして、除霊師たちの話に耳をそば立てていた。
そうだ。それは半年ほど前……小百合と出会う直前に聞いた話である。
男が残した養女もまた除霊師であるという。下手をすると養父よりも力が強い。事実、彼女は養父を殺した霊をその場で除霊した。
……いや。除霊などという、かわいい話ではない。
彼女は、霊を「食べて」除霊した。
「だからケンタ、一人にしないでね」
小百合は身を屈め、ケンタの鼻先にキスをする。突然降ってきた冷たいキスにケンタは思わず尾を後ろ足の間に差し込んで腰を落とす。
「おまえっ」
「ここでいい子で待ってて。フリスピー買ってくる。日が落ちたら、公園であそぼ」
小百合に一瞬浮かんだ物憂げな色合いはすぐに薄れた。やがて彼女はにこやかに、手を振るのだ。
「……いっておくが、俺はフリスピーに飛びついたりしねえぞ」
「どうかなあ、犬の本能に逆らえないんじゃない?」
楽しそうに駆けていく小百合の背に向かってケンタは唸る。
しかしその声は悲しくなるほどに犬の声だ。通りがかりの気の弱そうな子犬たちが怯えたようにきゃんきゃん泣きわめく。
その声に驚いた車がクラクションを鳴らして去っていく。ペットショップの扉があいて、軽い音楽が漏れ聞こえてくる。
「あんまり走るな、転ぶぞ!」
「だいじょーぶー!」
夏の日差しによく似合うにぎやかさの中、麦わら帽子を揺らしてかけていく小百合の姿を、ケンタはまぶしく見上げた。