夜更けに一握りの温もりを
いつものホームに、いつものように降り立つ。
和志の後ろで、電車の扉が軽い音を立てて閉じる。そして、そのままレールを軋ませながら、終電は下り方面の闇の向こうへと走り去っていった。都心から2回ほど乗り換えて着くこのローカル線の駅では、22時台までしか時刻表に表記がない。もっとも、これでも昔に比べれば本数は増えた方なのだが。
肌を刺す夜風に、彼は少し顔をしかめた。夜中とはいえ随分と冷え込んでいる。もう3月も終わるというのに、春の気配がまだ感じられない日々が続いていた。老体には少々こたえる冷気、というやつだ。
それでも、息苦しくはない、か。
軽く口の端を歪めながら、和志は胸の内で安堵のため息を吐いた。彼は、都心の人ごみは苦手なのだ。何十年と、そして定年を過ぎてもさらにその雑踏の中で勤めてきても、その本質には影響はなかったらしい。この、単線でホームと外灯ぐらいしかないような駅に着くと、いつもほっとしたものだった。
ところが、本当のところ、もうほっとするだけでは済まなくなっていた。
今では、彼は複雑な心境でホームへと降り立つようになっていた。帰ったところで、もう待っていてくれる人はいない。急ぐ理由はどこにもなく、かといってこの年で朝まで居座るのもどうかと思われる。どうすればいいのかはっきり決められない感じで、つまりは所在がないのだ。
……いや、どうすべきかは分かっているんだが……。
ホームの逆方向の端辺りで人の気配が動いて、そして消えた。どうやら、駅員が後始末をして改札を閉じたらしい。外灯を除いて電源は全て切られたようだが、たいした不便はない。改札とてあって無きが如き代物なのだから、和志は一瞥をくれただけで特に反応しなかった。
照らされるホームの灰色と、雑草と雑木の緑だけが目についた。
草木が風に揺れる。かすれた葉音が尾を引いて鳴り続ける。
今度は本当にため息を一つ吐いて、彼は線路に背を向けた。
風が一吹き、二吹きと行過ぎる。
何も起きなかった。
彼も動かなかった。
ふと、和志の足元にかすかな振動が伝わってきた。それは徐々に大きくなり、近づいてきて、やがて上り方面への電車が駅へと滑り込んできた。
音も無く。
一昔前の形式のくたびれた車体の扉が開き、ゆったりとした間を空けて、同じように閉じた。そして、時刻表に無い電車はまた音も無く滑り出し、振動が遠ざかり、徐々に小さくなって、上り方面へと消えていった。
また、草木が風に揺れる。和志は線路に背を向けたままだった。
「まだいるの?」
その背中へと声がかけられる。十五、六歳ぐらいの少女の声。
小さくとも歯切れの良い、涼やかな声だった。
「どうしようかな、と思ってたんだよ」
肩をすくめながら、和志は軽やかに応えた。
その声に動揺は全く無かった。予感はあったのだ。いつかは、もしかしたら、と。
「どうしようかなも何もないでしょうに」
呆れたように小さく笑う少女の声。思わず、和志も苦笑してしまった。
「そうだね」
頬を刺す風が、緩やかに、緩やかに、なでるように流れていった。葉音が楚々と鳴り続ける。
ややあって、和志がうつむきながら呟いた。
「なあ……訊いて良いかい?」
「なぁに? ワタシはシアワセでしたって慰めて欲しいの? それとも、アナタのせいでって責めて欲しいのかしら? 気の済む方はどちら?」
呆れた口調で少女が応える。立て板に水の如く、そして辛らつな言葉だったが、不思議と害意が感じられなかった。
そう、長い付き合いの間柄の、気の置けない間柄での言葉のやり取り。
「相変わらず、厳しいね」
「あなたが甘いのよ」
和志が頭をかき、少女が勢いよく息を吐く。
「……私は私、貴方は貴方よ。私が自分の人生をどう思おうと、どう感じようと私の勝手。貴方が捕らわれることはないのよ」
少女が和志に語りかける。ほんの少し、低めの声だった。
頭に手を当てたまま、和志は首をかしげた。
「そうは言ってもなぁ……」
「そうなのよ」
和志の釈然としない呟きへと、少女が即座に切り返す。彼はもう苦笑するしかなかった。
「さ、行くわよ」
少女が明るい声とともに、彼の背中を軽く叩く。それに合わせるように、小さな振動がレールを伝わって、徐々に近づき、下り方面への電車が駅に滑り込んできた。
今はもう使われていない古い車体が、音も無く。
振り返ると、開いた扉の前、まばゆいばかりの光を背にした、出会ったばかりの頃の志津子の姿があった。
自分が死ぬよりも数年前に息を引き取った妻が、目の前で微笑んでいた。
「わざわざ、このために?」
「そぉよ。死ぬまで添い遂げた間柄とはいえ、一回順番を飛ばして来たんだから、感謝しなさいよ?」
腰に手を当てて、胸を張る志津子。
「かなわないなぁ」
ばつが悪そうに肩をすくめる和志。
さあ、と催促しながら差し伸べられる手を、和志は手に取った。
その姿は老いたものではなく、手に取る二人は、出会ったばかりの頃の姿だった。
そして、少年と少女は、まばゆい光の中へと消えていった。
音も無く扉が閉まる。音も無く車体が滑り出し、速度をあまり上げることなく駅を出て、そして、闇の彼方へと去っていった。
ゆっくりと、ゆっくりと。