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-9- 近づく運命

 アンネリーゼは夢を見ていた。

「あなた、アンネリーゼをベットに連れていってね」

 母の声だ、とウトウトした意識の中でそう思う。

 やがて、あたたかく力強い腕が、少女を起こさないようにそっとその体をと抱き上る。

 そして、彼女の体を寝床にあずけると、一緒に隣に添い寝をして、胸に抱き寄せる。

「今日も一緒に?」

「うん」

 楽しげな声が頭の上で響く。

「寝ている時じゃないと、こうしていられないからね。父親の特権さ」

 甘く低い心地の良い声が囁くように答える。

 やがて、大きくあたたかい父の手が、少女の髪と頬をいとおしそうにそっと撫でていく。

 逆らいたいとは思うのだが、ただただ眠かった。

 アンネリーゼは、夢の世界の扉に手をかけながら、遠のく意識の中でぼんやりと両親の会話を聞いているだけだった。

「寝ぼけている時がさ、この子は最高に可愛いんだ。起きている時とは別人だからね」

「ごめんなさい。あなたのことを、もっと早くに本当のことを話していたら、この子もあなたのことを素直に受け入れられたかもしれないのに」

 母の声が近くなる。

「謝らないで。君は生きることに必死だっただろう。僕はあの頃は自分では認めたくないけど、まだガキで、君を取り巻く状況がどれだけ危険だったかなんて、恐ろしいほど気がつかなかった。君が生きていてくれて、アンネリーゼを産み、育ててくれたことに、ただ感謝しているんだ」

 ささやく声が、アンネリーゼにはくすぐったかった。

「私に似て頑固者に育ってしまって……」

 母の声がゆっくりと下りてきて、アンネリーゼの耳元に囁きかける

「アンネリーゼは、パパのこと好きよね」

「……うん」

 夢うつつの中でアンネリーゼがうなずくと、おでこや頬にやさしいキスが注がれた。

「じゃあ、目が覚めている時も好きって言ってくれたら嬉しいな」

 父の声に寝言のようにアンネリーゼが答える。

「……それは出来ないの」

 クスクスと両親の笑い声が聞こえていた。

「今日も失敗だ」

「ね、私に似ているでしょう? 頑固なの」

「そこが好きになった。だから、嫌われていても実は嬉しいんだ」

「不思議な人ね」

「僕に似ているところを教えてくれる?」

「全部よ。あなたとアンネリーゼは私の光だもの。そばにいてくれるだけで前に進めるの。怖がらずに」

 その言葉に応えるように、父の声が囁く。

「生まれてきた時に抱けなかった分。寒くて震えていた時の分。怖かったとき、寂しかった時、苦しかったとき。僕を必要としていたときの分、すべての空白を時間をさかのぼってすべてをこうして抱きしめて、埋めてあげたいよ」

 父と母から注がれる穏やかな言葉に包まれて、アンネリーゼは深い眠りに導かれていく。

 無意識のうちに求めていた存在。

 なのに自分は求めてはいけない存在だと言い聞かせてきた。父と名乗る存在が現れても、戸惑い、心を頑なにし、反抗的な態度しかとれなかったあの頃。

 避けても、嫌がった。

 それでも父は笑顔でかまわず抱きしめてくれた。

「パパ……」

 いつか、いつか「好き」と言えるのかな、そう思っていた。

 けれど言えないうちに、母も、そして父も帰らぬ人になってしまった。


「ごめんね……」

 閉じた瞼から頬を伝っていく涙を、誰かが拭った。

「アンネリーゼ?」

 心配そうな声が耳元で囁く。

「パパ……」

 懐かしいぬくもりが、心地の良い眠りの世界へと再び誘われそうになる。

「気がついたのか?」

 声は、求めていた父の声ではなかった。

 その落胆が、アンネリーゼの眠りを解く。

 今になって、父に甘えたかった自分の心に気がついても叶わない。

 何度も繰り返し見続けた夢が自分の頑なな心に、悔いを植え付けていく。

「アンネリーゼ」

 名を呼ばれて、目を開けると、予想もしていない人物の顔がそこにあった。

「?!」

 至近距離にあるのが、シャルゼルトの整った顔だとわかるまで、時間がかかった。

 アンネリーゼの心臓が飛び跳ねそうになる。

 驚きすぎて声さえ出ない。

 反射的に逃げようと上半身を起こしかけようとした瞬間、アンネリーゼはシャルゼルトの胸の中に抱きしめられ身動きできなくなる。

 一体何が起きたのか、なぜ彼がいるのかわからず、混乱した。

 抵抗しようとするものの、幼い日に父に抱きこまれたときのように、もがいても逃げ出すことは叶わない。

「君は湖に落ちた。僕が見つけて助けたんだ。僕が見つけなければ君は命を落としていた」

 シャルゼルトはアンネリーゼの耳元に唇をよせて、ゆっくりと、言い聞かせるように同じ言葉を何度も繰り返す。

 何を言われているのかわからなかった。

 自分が、どこで何をしていたのか、記憶が混乱して思い出せない。

「湖を見ていたら突然すごい光が夜空を照らした。そして、何かが湖の中に落ちる音がしたんだ。それが人だとわかって助けたら、黒装束姿の君だった。一時は、意識を失っていて、息もしていなかった。何が起きたのかは知らない。でも、君は死んでいたかもしれないんだ」

 その声の真剣さに、言葉の意味することの重要さに、アンネリーゼは抵抗をやめて、わずかに顔を上げる。

 シャルゼルトの真剣な碧い眼差しが心配そうに自分を見つめていた。

 ゆっくりと首を横に振った。

「覚えていないの……」

 シャルゼルトの視線に向き合えずに目をそらし、視線をさまよわせた時、ようやく今いる場所が自分の家ではないことに気がつく。

 カーテンが閉まっていて薄暗い室内だったが、高い天井と広い室内、白と金の縁取りで装飾された家具が品よく設えられていて、貴族の屋敷なのだとわかる。

 アンネリーゼは、ゆっくりと目を閉じて記憶をたどる。


 M公爵邸で大規模な音楽会が行なわれると耳にして、モルバルたちと共に屋敷に忍び込んだのは夕刻間近の頃だったことを思い出す。

 多くの貴婦人たちが身につけている高価な宝飾品が狙える機会だったからだ。

 夜会の途中で燭台に灯った大広間を照らし出す火を消して、混乱に陥ったところを夜目に馴れた仲間が、身動きの取れなくなった女性たちに近づき首飾りや指輪、腕輪などを盗みとる手はずだ。

 高価な宝石を一気に大量に手にすることが出来る機会だったが、大きな危険も伴う作戦だったため、今回は万が一失敗した場合にそなえて、来るなと反対するモルバルを説得してアンネリーゼも同行したのだ。

 けれど、予想外のことが起きた。

 作戦決行寸前になって、屋敷の使用人が何本もの蝋燭に火のともった燭台あやまって床に落としてしまい、蝋燭の炎が絨毯に燃え移り、瞬く間に燃え広がったのだ。

 宴は悲鳴と恐怖で混乱に包まれた。

 庭や天井に身を隠していたアンネリーゼと盗賊たちは、とっさにその場を逃げ出した。

 園庭には避難してくる人々が押し寄せてきたため、それを避けるには、屋敷の奥へと逃げるしかなかったのだ。

 火の手は瞬く間に激しく燃え移り、通路、室内が黒煙が充満していった。

 逃げ惑いながらもなんとかモルバルたちと合流し、アンネリーゼは彼らと共にペンダントの妖獣の力を借りて脱出した、はずだった。


 けれど、そこから先の記憶はなかった。

「ここは、どこ? 私以外にも誰か、他にも誰かがいたでしょう?」

 アンネリーゼはシャルゼルトから体を放して、周囲に視線を走らせる。

「君だけだった」

「嘘よ」

「君意外の人間がいるなら、誰なんだ?」

 眉間による皺さえ美しいシャルゼルトの怪訝な表情にアンネリーゼは、自分が余計なことを口走ったのではないかと目を閉じる。

「ここはどこ? 教えて」

 モルバルたちの正体だけは知られないように、話題をそらさなくてはいけなかった。

「ここは親戚の別邸で、ブレネイ市街からは離れた山の中だから、追っ手を心配しなくても大丈夫だ」

 やさしくいたわるような言葉にもアンネリーゼは、どうしてここが自分の部屋ではないのかという疑問で、気もそぞろになり、落ち着くことが出来ない。

「私が、湖に落ちたの?」

「そうだよ。不思議な光が消えたあとに、湖面に黒いシルクハットが浮かんでいた。だから落ちたのが人だと気がついた。天満月の夜でなければ発見できなかったと思う」

「湖に? そんなこと……」

 ありえないことだった。

 これまではどんな時も、アンネリーゼの体は、それが約束であるように、安全な場所に移動していた。

 ほとんどは自分の部屋のベッドの中であり、別の場所に移動したのはアンネリーゼが希望した時の数えるほどしかない。

 ましてやアンネリーゼの身が危険にさらされるような事態を招くなど、ありえなかった。

 ペンダントの妖獣に何かが起きたとしか考えられない。

「蘇生処置を施して、冷え切った体を温めるために手を尽くしたよ」

 わずかに声を震わせながら、シャルゼルトは彼女を発見して救助し、この部屋に運び込むまでのことを手短に話した。

 柔らかな白いタオルで包まれているアンネリーゼの長い髪は、触れるとまだ少しだけ冷たい。

「メイハーナの正体はやはり、君なんだな」

 断言に近い問いかけにも、冷静に対処する言葉が浮かんでこない。

「通報してもいいのよ。あなたの言葉通りなら、私は死んだはずの人間なんだもの。言い訳はしないわ、好きにして」

 アンネリーゼの開き直ったような言葉に、シャルゼルトの腕の力が弱まる。

「通報はしない。前にもそう言っただろう」

 シャルゼルトの繊細そうな指先が、アンネリーゼの長い前髪を根元から分け額を露にする。

「でも、今の言葉は忘れないで」

 何を考えているのか茶目っ気のある表情をつくって片目を閉じ、アンネリーゼの双眸を覗き込む。

 改めて彫刻のような美しい顔立ちだとは、思う。

 若々しく、怖いものなどない気力に満ちていて、自分が急速に失ったものを嫌が上でも感じさせる。

「僕の許可がなければ、誰もこの部屋には入って来ない。君がメイハーナだと思っているのは僕だけ、なにも心配することは何もないよ」

「父のことなら…」

 アンネリーゼは、彼が望んでいたのが父親と王妃ココの話だと思いだす。

「残念だけど、以前に話した以上のことはないわ。失望させてしまって申し訳ないけど」

「そんなこと考えていないよ。まだ心配?」

 見つめられて、瞳がそれる。

「生意気ね」

 思わず口にした言葉に、シャルゼルトの輝くような笑みがこぼれた。

「スープは飲めそう?」

 シャルゼルトは起き上がると、いたわるようにアンネリーゼの頬に手を触れ、額にそっと口付けを落とした。

「温かいスープをもってくるよ」

 部屋を出て行く後姿を見送ると、急に激しい睡魔が襲ってきて瞼が重くなる。

 全身がひどく疲労していることに気づく。

 きっとペンダントの妖獣の力を使い果たしてしまったのかもしれない。

 宝石もあの火事で思うようには手に入らなかった。

 逃げ出すのが精一杯だったのだ。

 だから、メイハーナという金貨の中の妖獣も、いつものように彼女を安全な場所に送り届けることが出来なかったのかもしれない。

 夢うつつの中で思う。

(また……体が老化してしまっているわ。きっと)

 アンネリーゼは自分の体を両手で抱きしめた。

 この老いていく体を、この顔を、シャルゼルトが次にどんな顔で見つめ、驚きの表情を浮かべるのかと思うと、哀れすぎて想像もしたくなかった。もうどうでもよかった。

 今回は彼に命を救われたとしても、肉体の寿命は間もなく尽きる。

 奴隷のように、妖獣のために生きて行くだけの命だった。

 妖獣が力を失う時、自分の命も終わるのかもしれない。

 急速に年をとっていく肉体への現実は受け止めている。

 けれど、今はなにも考えたくなかった。

「パパ……」

 面と向って「パパ」と呼べないまま、「好き」と一度も言えないまま、反抗したまま迎えた永遠の別れ。

 得体の知れない妖獣に取り込まれ、逃げ出すことも出来ずに、盗みを繰り返す夜はなぜか父が恋しかった。

 寝ている自分を優しく抱き寄せ、大きな手で包み込むように撫でてくれたあの優しさが欲しかった。

(パパは怖くなかったの?)

 きっとこの恐怖を共有出来るのは、同じ道を辿った父しかいない。

 母やアンネリーゼにそんな素振りを見せなかった父が、今になって日に日に大きな存在になっていた。

――運命の人と会えたら、私が会いたがっていたと伝えて欲しい。

(会えそうにないかも……)

――光石を。

 妖獣の声が聞こえたような気がしたが、意識は朦朧としていた。

 そして、アンネリーゼは再び深い眠りに落ちた。


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