矛盾する被害届 壱
小林香は気付いていた。
最近登下校中に感じる、視線を。
周囲を見回してみても、特に怪しげな人が居るわけでもないのだが、ただ、背後に不気味な気配がするのだ。
最初は気の所為だと思っていた。
しかし、それは一週間も続いたのだ。
夜も眠れない日々が続いた。
(どうしよう、またあんな事が起こってしまったら…)
彼女は震えていた。
◆
「こ…さ…!こば…さん!!」
(人の声が聞こえる。)
(馴染みのある声。一生懸命に何かを叫んでいる。)
「小林っ!!!」
(私の名前…?)
「はっ!!」
小林香の目が勢いよく開かれた。
視界に入るのはぼんやりとした白い壁、いや、天井。そして、ぼんやりとした人の顔だった。
それが前の席の男の子だと気付くのには少し時間がかかった。
「え?ここは?あ、あれ?」
でもここは教室ではなかった。
近くには薬品棚、何より自分が横たわっている白いベッド。
ここは保健室か。
覚醒し始めた頭で考える。
あまり見慣れない景色に戸惑っていると、白いレースのカーテンがさっと開いた。
「心配なのは分かるが、そう大声出してやんなよ…。お、起きたか。どう?具合悪くない?」
白衣姿の若い男性が入ってきて、男の子の頭を軽く叩くと、彼女の顔を覗き込む。
保健室の養護教諭の人だ。
彼女はゆっくりと頷いた。
「小林さん、倒れてたんだよ、覚えてない?」
男の子が心配そうに問い掛ける。
「…いや、な、なんとなくは覚えてます…?」
曖昧に返事をすると、男の子がベッドの横の机の上に置かれた眼鏡を指差しした。
「僕が君を見つけたときには割れてなかったんだけど…」
よく目を凝らすと、眼鏡はレンズにヒビが入っていて、若干フレームが曲っていた。
「ごめん、君を運んだときに割れちゃったかも!僕が弁償するから!」
この通り!と、顔の前で手を合わせた男の子に慌てていると保健室の先生が溜め息をついた。
「ほら、小林さん困ってるから。大体運んだ程度じゃ割れないと思うけど、まあ、少しは落ち着け。」
男の子を呆れた顔で宥めている。
「でも眼鏡無かったら全然見えないんじゃ…ってあれ?もしかして、今僕のこと全然見えてない?僕が誰だか分かる?」
男の子が彼女に顔を近づける。
「いや、そんなに視力悪くないですけど…。ちか、顔近づけ過ぎです!分かりますよ、私と名前同じですから流石に覚えてますって。」
すると先生は思い出したように男の子を見た。
「そういや、お前の名前も“こばやし かおる”だったな。」
先生のちょっと含みのある言い方に男の子はむすっと顔を歪めた。
「まあ、漢字は薫なんですけどね。って、そんな話じゃなくて!えーと、小林さん、なんで教室で倒れてたの?」
明らかに話を逸らされたような気がしたが、気にしないことにした。
「えっと…、確か凄い大きい蜘蛛が私の机の中から出てきて…。多分びっくりして、気絶しちゃったんだと思います。」
思い出しながら、少しずつ話す。
「そうなの?僕は蜘蛛見なかったなー。…まだ教室にいたらどうしよう!大丈夫かなー?」
男の子は不安そうに首を傾げた。
「まあ、放課後だし生徒が入ることは無いと思うが…。ああそうだ。小林さんは俺が送って行くからお前もそろそろ帰れ。日が暮れるぞ。」
先生は男の子の背中を押した。
「ええ…。小林さん、また明日ねー!」
男の子は名残惜しそうに手を振っていた。
「…また明日。」
小さく手を振り返すと、男の子は嬉しそうに走り去って行った。
「まったく…騒がしいやつだな。」
先生も困ったように笑った。
「さあ、俺たちも帰ろうか…と言いたいところなんだけど。」
先生が突然窓を開けた。
冷たい風が先生の髪を揺らす。
着ていた白衣も翻るように裾が舞った。
「んー逃げられちゃったかな。」
外には誰もいなかった。
「先生…?」
「ああ。いや、何か気配がしたからね。」
(え?も、もしかして…。)
すごく嫌な予感がした。
「…あの。せ、先生に相談があるんです。」
震える手を誤魔化すように私はスカートを握りしめた。
◆◆
「へえ、ストーカーね。」
帰り道を歩きながら先生にあのことを話した。
なんだか、先生になら話しても大丈夫な気がした。
先生は調子を合わせるように、私と並んで足を進める。
「小林さんはいつもは誰かと帰ってるの?」
「ひ、1人です。同じ方向の人あまりいないので。」
「そっか。」
先生は考えるように空を見上げる。
日が沈み始めた空は赤から青のグラデーションが鮮やかに色付いていた。
地面には夕日に照らされて2つの影が伸びている。
ふいに、先生が私のほうを見て柔らかに微笑んだ。
「それなら、明日からも俺と一緒に帰る?」
綺麗な夕焼けが先生を引き立てているように見えた。
私はそれに釘付けになって、しばらく声も出せずに立ち止まっていた。
「え?」
やっと出せた声はやけにうわずって変な感じだった。
「どうした?」
いきなり立ち止まった私を不思議そうにしている。
「…まあ俺よりも友達と帰ったほうが楽しいよな。ほら、早くしないと夜になるから。」
先生は私の手を引いて歩き出した。
その暖かさに驚いて思わず握りしめてしまったが、優しく握り返してくれた。
黒いジャケットを羽織った先生の背中は、私よりも断然大きかった。
それからは、お互い無言だったけど私にはそれだけでも充分だった。
歩くたびさらさらと揺れる黒髪、長い睫毛がかかる二重のぱっちりとした目に、すっと通った鼻筋に薄く引かれた唇。
整った横顔を眺めるだけで心が満たされる。
スタイルも性格も良い先生は、クラスメイトの女子たちからも評判だった。
そんな先生と一緒にいるということが嬉しかった。ましてや手を繋いで帰るなど、贅沢もいいとこだった。
にやつく顔を隠すように私は下を向いた。
「…あ。ここです、私の家。」
自分の家まであっという間だった気がした。
学校まで歩いて行ける距離だから、元々近いはずだけど。
「じゃあ、ここでさよならだね。」
先生は軽く手をひらひら振った。
「あ、ありがとうございました!」
私にしては大きな声で言えた。
先生は笑って頷き、歩いてきた道を引き返していく。
わざわざここまで歩いてくれたのかな。
そう思うと、先生の優しさがどこかくすぐったかった。
「…また明日。」
頭を下げて、そっと呟いた。
私は家に入ってからもうろうろと歩き回った。
そして、自分の部屋の窓から、珍しく雲1つない星空を見た。
「きれい。」
しばらく眺めていると、眠気が襲ってきた。
今日は何故かぐっすりと寝ることができた。