壱
.
瀬上君の、鈴を鳴らしたような声音が私を呼んだ。
若輩者の自分に「せんせい」などという大仰な渾名を付けたこの少年は、私が転居を済ませた一月前から足繁く通うようになった。しかし、邸宅を間借りしている身では気安く招き入れることもためらわれて、縁側で幾らか話をする程度の付き合いにとどめてあった。
居候として住まわせていただいているこの屋敷は、酒蔵を営む分家一族のものである。遠い血筋を頼ってこの地に住み着くことになった経緯については、そのうち語ることとしよう。
今日もいつもと同じ時刻に訪れた瀬上君は、奥座敷から現れた私の姿を認めると、破顔していそいそと縁側に腰掛けた。
「今日は奥様から分けていただいた最中があるよ。食べるかい」
最中、と聞いて目を輝かせた彼の表情に、思わずプッと吹き出してしまう。
「瀬上君は本当に甘いものが好きだね」
子どもらしい無邪気さでコクコク頷く姿が微笑ましい。
「お茶も淹れてくるから、少し待っていなさい」
柔らかい鳶色の髪を撫でてやると、その手を取られ、ぎゅうと握ってきた。
「せんせい、ありがとう、ございます」
拙い滑舌でゆっくり話す彼に笑顔で頷き返してやると、私の手の甲を一撫でした幼い指がそっと離れた。
台所に向かいお湯を沸かしながら、彼の言葉を反芻する。
長い間父親の母国で暮らしていたという瀬上君は、日本語が巧くない。そのせいでからかわれることも多く、学校や近所に年齢の近い友達はいないそうだ。
本人も言葉が不自由なことを恥じて、あまり喋ろうとしない。それでも、挨拶やお礼、謝罪はきちんと声に出そうとするから、きっと御両親の教育がしっかりしているのだろう。まだ十やそこらの子どもなのに、好ましいことだ。
自分の幼少期を振り返ってみると、瀬上君ほど躾けられた子どもではなかったように思う。もっとやんちゃで、奔放で、傷だらけの少年だった。あの頃の自分は、あまり、好きではない。
漆塗りの盆に、急須と湯呑みを二つ、それから店名が記された箱に入っている最中を載せて、緩やかな風が吹き込む縁側へと戻る。
足音を聞きつけた瀬上君は上体を捩らせ、相変わらずきらきらと光る瞳で、歩み寄る私を待ち構えていた。
「待たせたね。さあ、開けてごらん」
彼の右隣に腰を下ろし、お互いの間に盆を置いて促す。瀬上君は満面の笑顔で頷いて箱を膝の上に移し、その蓋を開けるやいなや小さな歓声をあげた。
こんな穏やかな時間に、私の疲弊した心は癒されていた。勿論、彼がいつか姿を見せなくなる日が来るだろうという諦めは、常に胸の裡にあった。
けれどそんな私の思いとは裏腹に、彼は私の元に通うことをやめなかった。顔を見なかったのは長くても四日、聞けば体調を崩してしまったからという理由で、偶然出逢った得体の知れない男との交流を五年も続けたのである。
そしてある日、唐突に、私は見せつけられることになる。
瀬上紫苑という人間の、うつくしさを。
.