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新ヤマタノオロチ伝

「それは新しく日巫女となったトヨ姫様の御世でした」

 腰の曲がった老女が、木陰で休んでいたぼくに語りかけてきた。それまでの国同士の結びつきが崩れ、新しい秩序が求められている時代の息吹のなかで、ぼくは久しぶりにトヨ姫様のことを耳にしたのだった。

「ぼくが誰だか知っているのかい」

「よく存じておりますとも。あなた様は隣国ウサのくにの若君様、お父様に生写し」

「お婆さんは何者だい」

「へい、わしはあなた様の国で長いこと砂鉄を採っておりました。今は年をとってしまいましたので、トヨのくににお世話になっているところでございます」

「それは大儀だった。しかし今、トヨひめ様の時代がと言っていたが」

「スサが謀反を起こしたあの時でございます」

 それはまだ邪馬台国が瀬戸内海一円をようやく治めていた時のことだった。一部の豪族達が徴税に抵抗したことがあり、それを機に属国であったイズモまでもが反乱して朝貢を拒否したのだ。あの時はぼくはまだ幼かったが、大人達が慌ただしく武具を揃え、戰仕度を何が始まるんだろうと眺めていたことを思い出した。スサという大男が、一団を従えて豊の海から上陸してきたことは、父王からも聞いていたが、それ以上詳しいことは、父は口を噤んで教えてはくれなかった。父ばかりでなく、誰もがそうだったのだが、ぼくも今までそれを忘れていた。

「それはぼくも聞いたことがある。スサがこの谷々を荒し回ったんだろ。何十人もの男女が斬り殺され、それでついにヤマタのくには崩壊した。ぼくのくににもその後戦火が広がり、あちこち転々としたことを覚えている」

「そうでございますね。あの時亡くなられた王族の方々を、後でお弔いした折には、わしもお手伝いさせていただきました」

「嫌な思い出だ」

「ところで若様は、むらくもの剣はご存知ですか」

「詳しくはないが、ヤマタの国の神宝でスサに奪われた剣のことか」

「左様でございます。わしはつい数日前夢を見ました。そこで誰かに命じられたのです。『今日ここにウサの若様が休んでいる。おまえはそこに出向き、あの剣をイズモから奪い返してくるように伝えよ』と」

 ぼくはそう語る老婆に、常人にはない畏怖を覚えた。神の託宣かとも思ったが、なぜこのような市井の老婆に神が宿るかとも訝られた。

「それは神のお告げですか」

 率直に聞いてみた。

「わしには分かりません。ただ言われるままにお伝えしなければとここへ来たのです」

 なぜか知らないが、ぼくはこの一瞬にイズモに行ってみようと思っていた。イズモは敵地でもあり、ヤマタを支えたウサの王族のひとりであることが判明すれば殺されるかもしれないのだが、ぼくはこの冒険にとてつもなくワクワクしていた。国にいる兄王にしばらく旅に出ると伝言を頼むと、ぼくは旅の支度に取りかかった。

 そのころのイズモはどんなところなのか、伝え聞いたところはこのようなところだ。

 ヤマタの国々を蹂躙したスサは王となり、イズモは近隣の小国を多数属国としていた。西は九州に近いネの国からセトの沿岸をアキまで押さえていた。そして東は国境を接する大国キビとの勢力争いに明け暮れていた。そのなかで事態の打開を謀ろうと、資源の豊富な九州を狙おうとしていたのだった。大国ヤマタはすでにない。しかしなぜ急速にイズモは勢力を拡大できたのだろうか。それもこれもあの剣の力だということなのだろうか。イズモは巨大なたたら場を設け、戰の明暗を分ける鉄剣を鋳造するようになっていた。まだ多くの国々は、青銅の剣を使っていた時代だ。それだけでもその力はあなどり難いものとなっていた。彼の従者は千人を超え、さらにその勢力を拡大しようとしていた。

 ぼくは旅の準備を終えると、旧来の友であるクマデの元を訪れ、これまでの経緯を話した。彼は神に仕えるのが仕事であり、非常に頭が切れるやつだ。彼の家は代々、神託を受ける場所であったので、人々はこの一族をコヤネとも呼んでいた。彼は興味深そうにぼくの話を聞き終わると、

「おれはその話に乗るぞ。あいつらの鼻をへし折ってやりたいからな。だが、まだまだ人が足りん。ナのくににこころあたりがあるんだ、今から行こう」

 彼は唐突に立ち上がって、もう早速ナの国に向おうとしていた。

 ナの国というのは、ヤマタの国からは西に位置し、山をいくつか越えていくか、海路でアナトから外海に出て、沿岸づたいをしばらく行ったところにあった。徒歩でも海路でも5日くらい要するところにあったが、交易が盛んで非常に栄えた邑々で構成されていた。ヤマタの国があったころは、その隣国のイト国やウミ国と並んで、先進的な文化を有するところだった。ぼくも何度か訪れたことがあるが、そこの女の奔放さは、ぼくが知る国々では垢抜けていた。コヤネが前乗りなのは、そんな思惑もあるに違いなかった。

「おい、待てよ。ナのくにまで何日かかると思ってるんだ。それに山越えは何かと物騒だぞ」

「いいからおれに任せておけ」

 ぼくの制しはまったく効かなかった。それどころか、彼の早足についつい置いていかれそうになってしまう。夕方近くなって、ぼくたちはかつてヨト姫の屋敷があったところまで来ていた。

 そこはホトギ山の西、日子の山からの尾根に左右を挟まれた肥沃な土地にあった。広い谷の中心を、流れの緩やかな川が流れている。離れた岡の上では、少女が花を摘んでいた。人は生まれ、その地で育まれて死んでいく、それが当り前のように何代も繰り返されていく。時折嵐がやって来て、何もかもを根刮ぎ奪い去って行く。そしてその嵐が去ると、また同じ営みが繰り返されるのだと、ぼくはこの静かな谷のなかで感じていた。

「いい土地だな」

「まったくいい土地だ」

 どちらともなく言った。

「生まれ変わったら、ぼくはこんな土地の王になってみたいと思う」

 そうぼくが言った。

「もっと大きなものを背負う気はないか」

 コヤネが、いつものように皮肉るのでなくぼくに聞いた。

「望んで得られるものでもあるまい」

「時として選ばれることはある」

「その時に考えるさ」

 その時、ぼくたちの頭上で、雲雀がけたたましく鳴き始めた。ぼくたちは我に返ると、屋敷跡を探した。そして無惨にも打ち捨てられた一郭を見つけた。

「廃れていく一方だな」

 コヤネがそんな言葉を口にした。心地よい五月の風が、髪と頬を撫ぜていった。

「おっ、どうしたこんなところまで」

 声の方を振り返ると、フトダマと名乗る小男が立っていた。彼はその容姿に似合わず、人の魂を自由に操作できる幻術を持っていた。何度かぼくの父の要請で、ウサの国にも来ていたので、ぼくも彼とは面識があった。彼はその幻術を、魏国に渡り習得したと言っていたが、本当の所どこで修行を積んだのか、誰も詳しいところは知らなかった。しかしその幻術は凄く、異界の者をこの世に召還したり、人の動きをも自在に操れる術を用いることができた。コヤネとは、神に仕える者同士、非常に懇意であった。

「こんなところで何をしてるんだ」

コヤネが声をかけた。

「今日は、大地に精霊が降りる日だ。大地に再び悲しみが訪れぬよう、こうして精霊を招いているんだ」

「君ひとりでか」

「ああ、ここの怨嗟は強すぎるんで、ぼくひとりでやることにしている。君たちに害が及ぶかもしれんので、少し下がっていてくれないか」

 そう言われたので、ぼくとコヤネは少し離れたところからフトダマの儀式を眺めることにした。

 儀式が始まるや、フトダマは青い光に包まれていった。すると当時の阿鼻叫喚、剣が交わる音など、残留する思念がほとば散った。まだこんなにも無念が残っていたのだと、ぼくは思った。精霊たちの青い光が、地面に霧のように流れて消えていった。すると今まで聞こえていた幽界の物音も、いつの間にかしなくなっていた。

「終わったのか」

 コヤネが声をかけた。

「無事に終わった。これでしばらくはここも清浄が保たれよう」

「こんなことをいつもやっているのか」

「誰かがやらねばならんことだ」

「と言われても、おれには無理だがな」

「こんなことはできる者がやるし、その者はその使命が分かっている」

「この後は何か用事があるか」

「いや、また一年後に来ればいい」

「ならば、おまえも付いて来てくれ。おれたちに力を貸してくれ」

 コヤネがフトダマに言った。

「ぼくからも頼む」

 ぼくもそう懇願した。

「さては、あの剣を取り返しに行くのか」

「なぜ分かった」

「精霊が告げた。むらくもの剣を託したものが通ると」

「それなら話は早い」

 そう言ってコヤネはフトダマの腕を握ったが、フトダマはその手をやんわりと振りほどいた。

「待てよ。ここにおられるウサの若君には申し訳ないが、三人で行くというのは、命を捨てにいくようなものだ。今のスサ王の霊力は、このおれをも遥かに凌ぐ。勝てる見込みがない」

 フトダマは頑に拒んだ。

「このおれに策が無いとでも思っているのか。今より、なのくにの玉作りのおやじを加えようと思っとる。いろいろな者を巻き込むぞ」

 コヤネはそれでも食い下がった。

「あのおやじが役に立つのか」

「玉の売買で結構顔が広いと聞いているが、それだけじゃないようだ。詳しいことは追々話すが、あのおやじの客にはイズモでおれたちの協力者になってくれるやつがいないとも限らんだろ。それにナ王も味方に引き入れたいしな」

「そういうことか。確かにあのおやじは、裏に何かある感じがしたな。それにあのおやじは、日巫女様に非常に傾倒していた。同族であらせられるウサの若様の頼みなら断ることはなかろうよ」

 そう、日巫女はぼくの父の姉であった。父は姉の死後にウサの王になっていた。またの名をウサツヒコとも呼ばれて、領民には深く愛されていた。

「ぼくたちの力になってほしい」

 ぼくは再び彼に頼んだ。

「あなた様の頼みであれば、このフトダマも微力を尽くしてお助け致します」

「心強い助っ人じゃ」

 そう言ってコヤネがガハハと大笑いしたので、ぼくらも吊られて大声で笑った。


 ぼくたちは草原を抜けると、国々を一望できる山の頂きをツバ国に向っていた。

 ツバ国というのは、ヤマタ国とウミ国の間にあり、ヤマタ国の次に多くの人民を有する大国だった。またヒコの山からは豊かな水量を有する大河が国を南から北へ横切り、豊かな実りをもたらしてくれていた。そしてその地は、ヤマタ国が栄える以前に、大王を排出した国でもあった。邑々はどこも旅人にはおおらかだった。ヤマタ国からツバ国には、幾つかの峠越えの道があったが、ぼくらはオウサカの山を越える道を選んだ。

 山を越えるとすぐにカゼの邑に出るので、この日はそこで逗留できるところを見つけようと思ったのだった。

「ちょっと後ろを見てみろよ」

 フトダマが二人に呼びかけた。振り返ると、細く入り組んだ谷々に、ヤマタの邑々からの竃の煙がたなびき、その向こうに静かなセトの海が広がっていた。もうすぐ夜がやって来る、ぼくたちは少しずつ足早になる。しかしそれが焦りを生んだのか、ぼくたちは山中で道を間違えてしまったようだった。黄昏が深くなるなかで、ぼくたちはとうとう道を見失ってしまった。

「仕方ない、今夜はここで野宿だな」

 ぼくは草むらにどかりと腰を下ろした。歩き詰めの足に心地よい疲労感が感じられた。

「カゼの邑の娘はよいがのう」

 コヤネも残念そうに腰を落とした。

「まあ、飯でも食おう」

 ぼくは用意していた干し飯を二人に手渡した。

「美味い、生き返るぞ」

 コヤネが絶賛した。

「本当だ、今日は何も食べてなかったんで、胃に滲みるぞ」

 フトダマもかぶりつく。

「ところでコヤネよ、君はなぜこの旅に加わろうと思ったんだ。君は格式のある神官の家柄だ。こんな危険で困難な旅をする必要はあるまい」

「ぼくも夢を見たんだ。それにあの剣は、大王家か神官家の者しか手にすることはできない。ぼくが行かずして誰が行くんだい」

「夢とは」

「それを告げることはできない。たとえあなたにも、それは告げられない。ただ言えることは、やつらがまた攻めて来る前に、あの剣を取り戻さないといけないということだ」

 コヤネが呟いた。

「あの剣の持つ意味とは」

 ぼくはコヤネに訊いた。

「あの剣は日巫女様の前の時代に、このヤマタの砂鉄から作られた。代々大王が、その証として所有するものであり、最初にツバの国の大王、次にヤマタの国の大王が相続してきた。どちらも神に愛された方だった。この国が乱れ、大王がその力を失った時、国々の長老様達が日巫女様にこの国を託した。日巫女様は神託によりこの国を統治し、ヨト姫様と続いた。あのスサが反逆を試みるまでは。だからこそあの剣の所有者が、このワを治める正当な権利者なのだ」

「君はもっと打算的な男だと思っていたが、ぼくは誤解していたのか」

「いや、君の直感は正しいよ。今回は神の御意思がそれに加わったということだ」

「ならば神の御意思がなければ、ぼくに味方しなかったのだな」

「それは分からん。今回、神は君を選ばれた、それ以外の選択肢はないんだ。ぼくは神官として、従ったまでだ」

「今回はそれでよしとしよう。それでむらくもの剣を取り返したら、ぼくはどうすればいいんだ」

「それはまだ分からん。神が君に取り戻して来いとお告げになったのだから、それに従えばよい。誰しも運命はそこに行ってみなければ分からんよ。ただ君は神に愛されているのは確かだ」

「ぼくには神の声が聞こえないのだが」

「その時がくれば分かる」

 それ以上ぼくは何も答えなかった。兄王を助け、人々が日々を安寧に暮らすことができる、そんな豊かな国を守りたいという思いだけで、ぼくはこの旅を始めた。偶然にもよい仲間にも巡り会えた。後は一歩一歩を前に進めるだけだった。

 夜の帳が、山の頂を覆い始めた。ぼくたちはそれぞれに穴ぐらを見つけて眠り始めた。どのくらい眠っただろうか、頭に激しい衝撃をうけて目を開けると、がたいのよい大男に髪を引っ張り上げられていた。

「めぼしいものは持っていそうにないが、奴婢としては売れそうだな」

 頭目らしき男が、ぼくを睨んでいた。

「はなしやがれ、このやろう」

 少し離れたところで、コヤネも捕まってしまったようだった。

 国境には、決まってこのような輩がたむろしていたが、まさかここで遭遇するとは思わなかった自分の甘さが嫌になった。こいつらはヤマタの国々からもツバの国からも追放された賊であろう。人数は三人だったが、がっちりと大きな腕で固められて、身動きが取れなかった。

 ツバの国は、ヤマタ国とウミ国の間にあって、人口は約五万人の規模だった。やはりいくつかの邑で構成されていた。海はなかったが、英彦山を源流とする水量豊かな遠賀川流域そのものが国土であった。王は保守的な人物だったが、ヤマタの国との関係はそう悪くはなかった。

 そういえばフトダマの姿が見えないが、ひとり逃げ出してしまったんだろうかと思った時、辺り一面に鬼の一群が現れたのだった。賊らもその一群に腰を抜かし、その隙にぼくはコヤネを抱き起こして反撃の体制を整えた。

「わが君、もう大丈夫ですぞ」

 どこからともなくフトダマの声がしたが、暗くて何も見えない。

「こちらです」

 その方向に体を向けると、フトダマがぼくの手に鉄剣を掴ませた。

「賊は怯んでますぞ」

 その声に我に返ると、ぼくは賊の頭目の顔面に切っ先を突きつけた。

「命だけはお助けを」

 頭目の顔が哀願に崩れた。コヤネとフトダマも残りの二人を岩肌に追い詰めていた。あの鬼はフトダマの幻術に違いなかったが、今は眼前の賊をどうするかを考えなければならなかった。

「命は助けてやる」

 ぼくはそう言った。

「そのかわり、我が臣となれ」

「どんなことでも致します。七度生まれ変わってもあなた様の臣下となります」

 頭目の目は嘘をついてはいなかった。

「名前はあるのか」

 ぼくは訊いた。

「ございません」

「ならばぼくが名付ける。頭目のお前はオモカネ、次にお前はタジカラ、そしてお前はイワトだ。この旅が終わったら、お前達にも安心して住めるところを与えてやる」

「名をいただけるとは、勿体ないことでございます。これからはこの命、我が君に捧げます」

「頼もしい供が三人も増えましたな」

 コヤネはまだ首を痛そうに摩りながら、ぼくに嬉しそうに言った。ぼくも内心嬉しかったが、コヤネがこれを予期していたことかどうかは訊けなかった。


 日の出とともにぼくらは歩き始めた。国と国を結ぶ道といっても、それは獣道と何等かわりなかった。交易は行われていたが、それ程頻繁に人が通ることはなく、旅慣れない者にとっては道案内がいて初めて次の国が目指せるというものだった。まして国境はオモカネらのような賊が待ち構えていることが多く、一日十キロ進むのがやっとだった。

 ぼくたちは五日程でかつての王都ツバへ辿り着いたが、誰もがぼくたちを避けるように行き過ぎていった。たぶん賊の一団と思われているのだろう。タジカラの人相の悪さはずば抜けていた。ほどなく自警団がぼくらを取り囲んだ。

「この国に何の要だ」

 あからさまに出て行けと言わんばかりである。しかし再び険しい山越えの前に、少し休みたいと思っていた。

「ぼくらはヤマタの民だ。ナのくにへの道中、ここで休ませて欲しいのだ」

 ぼくはそう自警団に申し出たが、彼らは首を縦には振らなかった。

「仕方がない、今日は国境で休むか。誰かひとりは賊の番をしてくれ」

 そう言ってぼくたちは先に進もうとしたが、その時ふっと袖を引っ張られて足を止めた。

「ウサの若様じゃないですか」

 見ると、長年父に仕えてくれていた者だった。

「お困りならばわたしのところへいらして下さい。警護の方々、この方はわたしの恩人ですので、安心して下さい」

 老人にそう言われると、「怪しいやつらなんだがな」と言いながらも自警団はしぶしぶ戻っていった。

「ヤマタからですとお疲れじゃったでしょ。大したおもてなしは出来ませんが、寛いでいって下さい」

「ありがとう。これからナのくにへ行こうとしているのだが、ショウケ越えの前にゆっくり体を休めることができる」

「娘も若様にお会いできて喜びますな」

「サクヤもいるのですか」

「ええ、お会いになっていって下さい」

 ぼくの胸は高鳴っていた。サクヤ一家が去って行ったのは父が死んですぐだったが、サクヤは十歳くらいだったろう。あれからもう六年くらいはなる。美しい少女にぼくは一目惚れしていたが、言い出せずにしまった苦しい日々を思い出した。

「ウサの若様を御連れした」

 老人は家人にそう告げて、ぼくを家に招き入れた。

「若様、御懐かしゅうございます」

 サクヤが足下に踞った。

「ぼくも君に会えて嬉しいよ。あの時は何も告げられず、君はいなくなっていた」

「わたしもずっと御慕いしておりました」

「もし無事に帰ってきたら、結婚してほしいのだが」

「どちらへ行かれるのですか」

「これからナのくにに立ち寄った後にイズモへ行く。スサ王からむらくもの剣を取り返してくるのだ」

「若君が行かなければ駄目なのですか」

「神はぼくを名指ししたそうだ。王家の者として、ぼくはその御意思に応えなければならない」

 ぼくはそう言って、彼女を強く抱きしめた。肌の温かさが伝わってきた。ぼく達は固く結婚を約してその場は別れた。

「若様」

 老人に呼び止められた。

「若様は、大王になられるおつもりか」

「そんな大それた思惑はない」

「わたしはあなた様が次の大王になられるような気がします」

「自警団に追っ払われそうになるぼくがか」

「それはあなた様がまだお気付きになっていないからでございます。日巫女様とも近い御血縁であり、ウサ王の弟君という地位ならば、誰も異議を唱える者はおりますまい」

「ぼくは何も所有していない。屋敷もなければ奴婢や家畜も居らぬ。どうして大王になれようか」

「いずれすべてが整います。ヤマタのくにでも、いやその地以外でも先ずは若君の都を築かれよ。この老人も微力ながらあなた様にお尽くしいたします」

「兄王が許さんかもしれん」

「ウサ王はそんな器の狭いお方ではありません。王はあなた様を讃えて下さるでしょう。またあなた様のためにあらゆる手筈を整えて下さることでしょう」

 ぼくはあの兄がそこまで寛容かなと思ったが、それを口にはしなかった。しかしぼく達が眠っている間に、老人はツバ王に嘆願し、ツバ王は軍を出すことを快諾していたのだった。また旧ヤマタの諸国にも、イズモへの挙兵を要請するための使者を使わした。

 そんなことは露知らず、ぼくたち六人はショウケ越えに挑んでいた。こんな時はオモカネ達が頼もしかった。鬱蒼とした密林のなかで草や蔓を払いながら進んで行った。半日かけて峠を越えたとき、六人にはさらに深い友情が芽生えていた。サクヤの家が用意してくれた握り飯が、とても美味く感じられた。

「我が君、あれを」

 コヤネが指を差した方には、美しいウミの国が輝いていた。

「もう少しだ、みんながんばろう」

 ウミの国の対応は、これまでとはがらりと変わったものだった。イズモと戦うために、ウサの若君が諸国を旅して軍団を組織しているという話が飛び交っていた。早速ウミ王の出迎えを受けて、ぼく達はその屋敷に招かれた。

「よく来られた、ウサの若君よ。我らがむらくもの剣をあのスサから取り返されるとか、実現すれば我らはあなたを大王としてお迎えいたす」

 ぼくの脳裏に昨日の老人の顔が浮かんだが、すでに引き返せない道を歩み始めていたことをぼくは自覚しはじめていた。

「ウサの若君、今が好機ですぞ。スサは勢力拡大のために軍勢をキビの国境沿いに集結させており、イズモは背後が手薄になっております。まさかヤマタの国々がまとまることなど思っていないようですぞ」

 ウミ王は自分も行くと言い出さないばかりにぼくに返答を求めた。数日前までののどかな生活はどこへ行ったのか、ぼくの周りにはぎらぎらした男達ばかりとなっていた。ウミ王と固く約束をすると、ぼくたちはその隣国であるナの国に出発した。道程は半日程の距離でしかない。選りすぐられた三十名の兵と共にナの国に入ると、兵をオモカネに託して、ぼくはコヤネとフトダマの三人で玉作りのおやじを捜した。

 彼はすぐに見つけることができた。交易を通して東西の様々な物を扱っている人物らしく、恰幅がよく脂ぎっていた。また傍らに二人の愛人を侍らせていたが、どちらも驚く程の美人である。

「何かい、するとわしに船でイズモまで行っとくれと言うんやな」

「行ってくれるな」

 コヤネが彼に詰め寄った。

「あんたの頼みやから行ってもいいが、この娘達も連れて行くよ」

「おいおい、女連れかよ」

「駄目ならこの話はなかったことにするよ。王でもわしには何も言えんのやから」

「仕方ない、分かった」

 このおやじには困ったものである。神に祈りを捧げる時に使用する玉が作れるのがこのおやじだけなので、誰も彼に逆らえなくなっているのだ。コヤネがここまで困った顔をするのも珍しいが、なぜこのおやじが必要なのか、この時のぼくには分からなかった。出航の日取りを決めて一段落すると、珍しい酒が次から次へと運ばれてきた。

「珍しい酒じゃろ。海の向こうから取り寄せたんじゃ」

 おやじは勝ち誇ったようにぼくに酒を酌んだ。この旅が始まって、初めて飲む酒である。

「我が君はよい男じゃ、わしの女で楽しんで下され」

「これはかたじけない。ナのくにはよい所じゃ」

 酒にほだされた、ぼくはすごく愉快な一夜を送った。風を待つ間、派手な宴は連日連夜繰り返された。


「よい風になりましたぞ」

 玉作りのおやじが皆を起こしながら叫んでいた。頭がガンガンしていたが、そろそろ行かねばと、女達を押し退けてぼくは起き上がった。いったい何日経ったのか知らないが、コヤネもフトダマもその場でぼんやりとしているのが見てとれた。

「おまえら腑抜けのようじゃ」

「我が君も同じじゃ」

 ぼくが指を差すと、コヤネはにやりとしながら反駁した。

「よい命の洗濯ができたな」

「これで思い残すこともなくなった」

「今までのようにおまえ呼ばわりをなぜせんのだ」

 ぼくはコヤネに言った。

「まったく、人前でそんなふうに言えるわけなかろうが。おぬしは、もうすでに周りは大王として担ごうとされているお方じゃぞ」

「大王か、そんな野心を持ってもようかのう」

「持て持て、おぬしがそうしてもらわんと、わしはどうする」

「コヤネは何になるんじゃ」

「わしはこのくにの貴族の頂点となる」

「ならばこのぼくも殺すか」

「大王は別格じゃ。大王が強大であればこそ、おぬしを支える大臣はこの世の栄華を満喫できる」

「おおいに満喫すればよい。ならばぼくも大王としてこのくにを統治しよう」

 そんな会話を交わしながら、ぼくらは船着き場へふらふらと歩いて行った。初夏のからっとした風が、旅の再開を感じさせた。すでに多くの国々から、選りすぐりの兵士が数百人集まっていた。ナ王がぼくのところへ歩み寄って、跪拝して言った。

「大王の御武運をお祈り申します」

 ナ王の言葉にぼくはとぼけるようにこう言った。ただ、ぼくは自分の野心が王に知られたのかと、背筋が寒くなっていた。

「王が言われたことがよく分からんのだが。ぼくはウサ王の弟で、大王ではない」

「いえ、我らの大王です。多くの国の兵が、ここにこうして集ったのがその証です。我らはあなた様に大王となっていただきたいのです。そしてその力でイズモを排し、我らの脅威を取り除いていただきたいのです。以後我ら臣下にあなた様を讃えて『ニニギノミコト』と呼ばせて下さい」

「ニニギノミコト様!」

 その場に居た誰もが、ぼくをそう呼んで跪いた。

「予は皆に応えよう。これから予はニニギノミコトと名乗る。軍を指揮する軍師はコヤネとする。海洋の都督はナ王とする。我らはこのワのくにの安寧のために出陣する!」

 そのかけ声に兵は櫂を握りしめると、力一杯海原を叩き付けた。船には二十名から三十名が乗れる大きさで、外洋に出るまではこうして皆で櫂を使って、風を捉まえられるところまで進んでいくのである。外洋に出ると、中央のマストに用意した大きな帆を使って、海を縦横無尽に行き来する。きらきらと輝く湾をぼくが乗る船を先頭に、二十隻の大船団が白く波を切って進んで行った。ノコの島を左手に、そしてシカの島を右手に見ながら、船は大きく東に舵を切った。

「帆を揚げろー」

 ナ王のかけ声で、一斉に帆が風をはらむと、船足がぐんぐんと上がっていった。

「海のことは、我らにお任せください」

 ナ王はそう言いながら、忙しく立振舞っていた。銀色に輝くイルカの群れが、船団と並走しては離れていった。ぼく達はまずムナを目指し、そこからオカの水門を抜けて、アナトの前で再集結する計画を立てていた。船団の後方には、足の遅い船が豆のように小さく見える。

「この船はこの世で一番の船足でさぁ」

 ナ王が自慢顔でぼくに言った。

「大げさだが、そうかも知れん」

「嘘ではございません。この船は何度も異国の海賊に遭遇しましたが、一度として追いつかれたことはございません。海賊に捕まれば、その場で殺されて魚の餌となりまするが、ナ王はこの通り生きておりまする」

「それはすごいな。かの漢の帝国にもこれで行ったのか」

「もちろんでございます。漢帝直々に印綬を受けましたが、我が君は漢帝以上のお方です」

 夕方近くなって、船団はムナの沖に到着した。ムナの国は、かつてはツバ国の辺境国だったが、海洋交易によって豊かな独立国となっていた。宗教にしても、ヤマタを構成する国々とは一線を画した神を崇め祀っていたが、近年そのムナとイズモが接近し始めていた。

 ぼくらはナ王を含め、新たに任命した将軍達と共に若いムナの王を訪れようとしていた。

「お気を付け下さい、ムナ王とスサ王は密約を結んだという情報が届いております。この同盟ですが、イズモがキビとの戦いのために、その背後である九州を牽制する目的だと思われます」

 コヤネがぼくの耳にそう囁いた。この男の情報収集力にはいつも驚かされる。今は軍師とは言え、自分の封土も持たぬ身であるが、たぶんこの男の家系は繁栄するだろうと、野心に満ちた顔を見ながらぼくはなぜかそう思った。

 もしかしたらぼくが無欲すぎるのかもしれないが、すべてはこの旅が終えてから考えればいい。今は大王の神輿に乗っていればいいのだ。

 新将軍となったオモカネ、タジカラ、イワトらにも注意するようにと言い含めて、ぼくたちの上陸のために迎えに来た小舟に乗り込んだ。

 陸に着くと、そのままムナ王の陣屋に通された。その途中、ムナの兵にも緊張感が漂っていた。陣屋の内でも、ぼくとムナ王の間には、ただならぬ緊張感が夜の闇に増幅されて漂っていた。

「遠路はるばる、よくお出で下さいました。ムナのくにを挙げて、新しい大王様を歓迎いたします」

 ムナ王がぼくに跪いた。

「大儀であった」

 ぼくはムナ王に代わり、陣屋の上座に席を取った。オモカネ、タジカラがぼくの脇を固めていた。イワトとフトダマが背後に気を配っている。ぼくとムナ王の距離をはかるようにコヤネが、ナ王は交渉の調停の位置に着いた。しかし誰もが何も言い出せぬままに、時間だけが経っていった。切り出す間合いが難しかった。ひとつ間違えば、どちらもが斬り殺される状況だったが、ぼくは腹に力を据えた。

「我らはイズモを攻める」

 ぼくは率直にそう言った。少しの間、沈黙は続いたが、夜の闇をふるわせながらムナ王が答えた。

「スサ王とわしは、血の契りを結んでいる。わしの妃は、スサ王の娘の三姉妹じゃ。悪いが大王と共には戦えぬ」

「戦わずともよい、ただ動かぬと約束してくれぬか」

「それは無理な相談事じゃな。スサ王の敵はわしの敵じゃ」

「共にこの島に暮らす者ではないか。そなたの父はヤマタを支えていたのじゃぞ」

「ヤマタか、もうすでに幻のくにではないか。どこにヤマタがあるのだ。それぞれの王の依怗によって、かのヤマタは失われたではないか」

「今こそそれを再建しようと思っている。だからこそ力を貸してくれ」

「無理だな。言葉では何とでも言える。その点スサ王は違った。俺と共に覇を建てんと言ってくれたのだ」

「これが最後となるが、ムナのくにと言えども、予の連合軍が四方から攻めればひとたまりもあるまい。それでもおまえは否と言うのか」

「イズモへ進軍するというなら、わしはこのくにを失うかもしれないが、大王に対して兵を挙げるぞ」

「それは出来ぬな」

 陣屋に玉作りのおやじが入って来て言った。

「我が君の命を受け、ムナ王の三人の妃を捕らえ船に送った。もし大王の命に再び否と返事をすれば、三人の妃の命はない」

「貴様ら!」

 飛びかかるムナ王を玉作りのおやじは石火のごとく地面にねじ伏せた。彼と二人の女はヤマタの国の忍びであったのだと、この時ぼくは初めて知ったのだった。

「この首、もらい受ける」

 そう言うが早いか、辺りに鮮血がほとばしった。オモカネ、タジカラ、イワトらも、ムナ国の兵に襲いかかり、またたくまに陣屋を掌握した。そして再び、静けさが戻った。

「なぜ逆らったのだ」

 ぼくはムナ王の屍を見下ろしながら、そんな思いを強くした。

「男の意地ですな」

 玉作りのおやじが応えた。

「その意地のために、おおくの者を不幸にさせた」

「それもムナ王の生き様でしょう」

「やり切れんな」

「大王様がお悩みになることではありません。悩むのは我らが臣下で十分です。

「予は汝を含め、よい臣を持ったものだ。ムナのくにはそなたが治めよ。これより玉作りのおやじは姓を改め、タマノオヤに任ず。障りがないようムナ王の妃の三姉妹はウサのくにへ送れ」

 ぼくはそう命令を下した。彼女らは謀反人の係累として即座に処刑に付されるだろうが、ぼくにはそれをどうすることもできない。止めることは、自分の王権の否定に繋がるからだ。せめてその亡骸を篤く弔ってやりたかった。

「あの三姉妹がもし処刑されるのならば、良き地を探して祠を作ってやってほしい。またムナにも通じる海の水を採って、それを祠に供えてやってくれまいか」

 ぼくは、タマノオヤにそう指示をした。

 彼女らを埋葬した場所は、後世に亀山とも小倉山とも呼ばれた。そして奈良時代になって、壮大な八幡宮の神殿が築かれることとなった。宗像の海まで娘達の魂が帰っていけるようにと、和間の浜で蜷を撒く神事が残っている。隼人の乱鎮圧に際して殺された隼人族の鎮魂として、それは今に続いている。

「こんなに簡単にムナのくにを落とせるとは、思っても見ぬことです。もはや誰も大王に弓を弾こうとは考えますまい。明日はオカの水門を目指しましょう」

 宿敵が居なくなってナ王は愉快そうだったが、ぼくはまだそんな気にはなれなかった。殺戮の場面は、これまでも目にしてきたことはあったが、今眼前にあるのは自分が首謀した結果なのだ。

 国を背負うということが、これ程までに重いのかということを、今夜は思い知らされていた。あの老婆の夢に乗せられて旅立った日が、もう何年も昔のように感じられた。

「大王権により、ムナ王を成敗したまでのこと。そんなに落ち込むことでもありますまい。こんな光景に出くわすのは、珍しいことではなくなるでしょう。いや、もっと凄惨な場面に出くわすこともあるかも知れません」

 コヤネからポンと肩を叩かれた。

「ムナ王に対しての気持ちではない。ムナ王に嫁したスサの三姉妹は、何の罪もないのに可哀想とは思わんか」

「彼女らもまた自分の生まれを呪うか、さもなくば、生まれた時代を呪うべきでしょう。同情は禁物です。もし隙を見せれば、今度はあなたがこうなる番です。大王とはそれ程までの権威なのですぞ」

「そうだな、君の言う通りだ。これが嫌なら、大王なぞになるなということか」

「何を弱気になっておられる。大王たる者は、全てを飲み込む存在です。今ではあなた自信が、このワのくにを統べる大王でニニギミコトですぞ。あなたはもっと堂々としておられよ。これからは汚れ仕事は俺たちが全てやる」

「君がぼくの立場になったら、きっと同じように悩むだろうよ」

「それは当然でしょう。大王権とはそれ程までに強大だということです。ただ現実の大王はあなたなのですから、しっかりしなされ」

「もう言うな」

「そうじゃ、大王よ、女を捜しに邑へ行ってみませんか」

 コヤネは妙に冷静というか、常に平常心で振る舞える男だったが、今のぼくにはそのゆとりは無かった。

「ムナ王を成敗したと言っても、ここは敵地じゃないか。ムナ王の仇にぼくを討ち取ろうとする者がおらんとも限らん。返り討ちに遭うのが落ちじゃ」

「そんなことはありますまい。ムナ王の税の取り立ては凄まじく、下々から強い反感を買っておりました。解放されたと喜ぶ者がほとんどでしょう。それに今は大王のあなたに味方していた方が、分がいいと聡い者は思っているでしょう」

「しかし軽卒過ぎるぞ」

「そんなことはありません。手に入れた国の女を最初に味わうのは、大王の特権ですぞ、ここは躊躇するものではない」

 コヤネはそう言って、ぼくの手をぐいと引いた。そして今征服したばかりの邑のなかにと入っていった。

「おい、どこに行けばいいんだ」

 コヤネは近くを歩く女を引き留めて問うた。彼はすでにワ国の軍師を脱ぎ捨て、いつものコヤネに戻っていた。ぼくはそんな彼が少し羨ましかった。

「ここをまっすぐ行ったところに、集まっております」

 女が緊張の余り強ばった面持ちで、そう答えた。

「ありがとう、早速行ってみよう」

「あなた方はどこのくにのお方かな」

「ワこくの者だ」

「ヤマタが崩壊した時、ワも同時になくなったんじゃないか。あなた方に成敗されたムナ王が言っていた」

「その通りだが、最近新たなワが生まれた。このくにはおまえたちに安住を与えるだろうよ」

 コヤネがそう女に答えた。

「あなた方はムナ王を殺した方々か」

 女は恐る恐るぼくたちに訊いた。

「そうだ」

「新しい我が君なのか」

「そういうことだ。先王のことはこれより忘れよ。何もかもをイズモが牛耳る暗黒の時代は終わろうとしている。新たな大王、ニニギノミコト様が誕生した。もうすぐ新しい世となるのだからな」

 コヤネはぼくを振り返ること無く、この女に答えてやった。彼にとって大王とは、それ程の存在でしかないのだろう。しかしこの男がいなければ、ぼくはここにこうしてはいなかった。存在とはそんなものでよいのかもしれない。今はただのニニギでよいのだが、この名前は一個人としては使いにくいものになってしまった。

 未来を切り開いていくというのは、こんなことなんじゃないか、そう思うとぼくも吹っ切れる気がする。見上げると満天の星空だった。何もかもをぼくはただ受け入れる。幾千年の後には、どんな世になっているのか知らない、しかしその未来の基礎をぼくは一身に築いているのだと、ぼくはそう考えることにした。ぼくは明日を作っているのだ。


 親魏倭王の金印をヤマタ国の日巫女が受領した時、ワ国は朝鮮半島に大軍を動員した。当時の朝鮮半島は魏の植民地であったが、魏は国境の乱れを恐れ、辺境に強大な国が生まれるのを望まなかった。そのため北方の騎馬民族の侵入に際しては、同盟を結んでいるワ国に度々援軍を求めていた。ワ国はその要請によって、ワを構成する諸国や有力な邑々から兵を徴集し、大軍を動員した。そのためあちらこちらにその伝承を今に残している。

 日巫女の伝承を神功皇后のものとすり替えていったのは、これより何代も後の天武王朝時代であったが、その時に貴重な歴史のほとんどは失われてしまった。

 岡の水門や穴門というところも、そのような伝承の地であり、ヤマタを構成する国のひとつだった。そしてその向こうには、従わぬ国々が広がっていた。

 従わぬ国々の多くが、イズモ国の影響下にあった。イズモは強大な武装国家であり、その原動力は鉄であった。たたら鉄の製法は、スサによってもたらされ、短期間で多くの鉄剣を手に入れたスクナビコもまた、新たなワ国建国を模索していた。

 彼らは、従わない者は手当たり次第に殺してきた。そして自分の意のままに動く者を新たな王と定め、その国に重い税を課した。イズモに侵略された国々が、その重い税により苦しんでいた。

 そして最近、スクナビコの娘を嫁としたスサが、その王権を受領していた。スクナビコはスサの補佐役として、陰に日当に彼を助け、まさにキビからナラへ侵攻を開始しようとしていた矢先だった。

 そのスサの耳に、かつてのヤマタの国々が再び連合してムナ国を攻め、ムナ王を成敗したことが伝わった。

 スサは、キビの国境から軍を分け、そこから西方に下ったサバに布陣していた。彼は二正面での軍事行動が不利と見ていた。ヤマタ連合だけなら問題はなかったが、大国であるキビにその背後を突かれたくはなかったし、サバからならキビが行動を開始してもその対応に時間的猶予があった。それにこのサバは重要な物資集積港のひとつである。ここを敵に渡す分けにはいかなかった。彼はここで、ヤマタ連合の動きを注意深く観察することにした。


 ヤマタ連合は、穴門に集結を完了していたが、その数はイズモ軍よりは劣っていた。かつてヤマタ連合は数万の軍を動員したが、今の時点では千に届くかどうかでしかなかった。誰もが厳しい戦いになることを自覚していた。

「ここからは三手に別れて進軍しましょう。敵はサバへ軍を集めているという報告がクサの者よりもたらされました。大王は陸路をサバへ、もう一軍はコヤネが指揮をとり、海路でセトの海に入りサバの背後のアキへ、もう一軍はナ王に任せ、転々と略奪を侵しながらイズモへと進軍するのです。そうすれば敵は兵力を分散するしかなく、サバの守りは手薄になることでしょう。そこを大王が一気に叩くのです」

 コヤネがその作戦を軍議に発表した。

「軍師殿のお考えとも思えません。今でさえ少ない兵を、更に三軍に分けるのは得策ではないのではないか」

 ナ王が異を唱えた。

「普通なら愚策でしょう。しかし兵を集中させても千名程でしかない。敵軍の数分の一です。集中して攻めれば、攻囲されるのが明らか。ここは分散して敵の混乱させるしか手がありません」

「混乱させても、スサに近付けなければ意味がない」

「そうです、敵が分散して本隊に接近しやすくするのです。敵の本隊だけなら数百、これならば隙をみて勝負できます」

「リスクが大き過ぎる。下手をすれば全滅だぞ」

「今回はそのリスクを乗り越えなければ、勝利はありません。昨日、スミヨシの神前で亀卜を行ったところ、我が軍の勝利に終わるとの神意を確認しました。どうぞこの作戦の採決を行っていただきたい」

 コヤネは譲らなかった。

「誰か異議のある者はおらんか」

 ぼくは玉座より立ち上がり発した。

「異議はございません」

 居並ぶ将軍達がこぞって賛成した。彼我の戦力を考えれば、この作戦しかないことは、すでに明らかになっていた。だが敵地深く侵入しているので、狼煙が使えない。もし別働隊が全滅したら、他の隊や本隊も危険に晒すことになる。ここに集った全員それがどうしても頭から離れなかった。

 しかし戦とは、そのようなものだと、ぼくは父から教えられてきた。最後の最後に仲間を信じれなければ崩れると父は諭し、それを最後まで実践した人だった。

「全軍出陣!」

 ぼくは居並ぶ将軍らに下知した。そしてぼく自身も、フトダマ、オモカネらこの旅に最初から加わってくれた者達と共に陸路でサバを目差した。陸路は敵には目立ちにくく、その隙を突く奇襲の成果が期待できた。

 しかし海路とは違い、一度道を間違えると大幅に時間を浪費する行軍でもあった。またいつ敵と出くわすかも知れない危険とも隣り合わせである。

 それでぼくらは穴門を出発する時、近くの邑で道案内人を雇ったが、その道程は困難そのものだった。

 まずぼくたちは人目に付きやすい海寄りの道を避けたかった。そのため大きく山地を迂回して、敵の背後から奇襲をかけることとした。

 ただしその迂回道は、ネ国をかすめていた。あのスサもまたネ国を彷徨ったという話を聞いたことがあるが、そこは魑魅魍魎が支配する土地であった。しかしぼくは人が支配しない国などを信じることはできず、この迂回道を大した問題とは考えていなかった。しかしフトダマはひとり反対していた。やはりネ国が引っかかるのだ。

「ネのくにには近付いてはなりません」

「だが、それしか敵の背後に回り込む方法はないのだ」

「我が君はそこがどんなにか恐ろしい地かお分かりにならない。この軍が全滅する恐れもあるのですよ」

「それなら聞くが、そこには何があるのだ」

「この世とあの世を結ぶ道がございます。その道に万が一迷い込めば、もはやこの世に戻る術はございません。あまりにも危険が大き過ぎます」

「我らには案内人もおる。少し考え過ぎなのではないか」

「あの道案内人は信用でませんぞ」

「それでも前に行きたいのだ。どのような場所であろうとも、ここは行かなければならない。従ってくれ」

「大王がそこまでの決心なら、臣はどこまでも従います」

 ようやくフトダマが納得してくれ、ぼく達は再び進軍を開始した。しかしフトダマの心配は的中してしまった。深い霧が立ち篭めるとともに、ぼく達は群羊石のなかに迷い込んでしまっていた。

「ここはどこなのだ」

 見渡す限り、白い石に囲まれていた。

「むかしからネのくにの入り口と言われるところに迷い込んだのだと思います」

 険しい顔をしたフトダマがぼくに答えた。

「その入り口より中に入った者で、出てきたものはない。たったひとりの例外を除いては」

「ここから出られるのか」

 ぼくは周りを見回した。しかしどこにも出口が見当たらなかった。ぼく達はいったいどこをどうここまで移動したのか。兵達も不安な表情をしていた。

「出口を探してきますので、ここでお待ち下さい」

 そう言うと、ぼくの制止を振り切って、案内人は出口を探しに軍団を離れてしまった。

「やはりこれは罠でしたな。しかしこうなってしまった以上、われらも周囲を探索してみましょう」

 オモカネが言った。

「この状況は、おまえの忠告を聞かなかった予の責任だ。すまぬ」

「もう済んでしまったことでございます。今は軍を生かして行軍を続けねばなりません」

「そうだな、君の言う通りだ」

 ぼくはオモカネにそう答えると、部隊長全員を呼び寄せた。

「残念ながら、我が軍は道を失ってしまった。このままでは我が軍は全滅、再びヤマタが混乱に陥るであろう。それはどうしても避けたい。それでは十名の小隊が一組となって、出口に至る道を調べてくれ。太陽があの山の頂きにかかるまでにここへ集合せよ」

 ぼくはそう各小隊に命じた。

 全軍、小隊に別れて出口に至る道を探し始めた。ぼくはここに本陣を敷くように命じると、再び太陽を見詰めた。太陽は非常に眩しかった。ぼくはワ国を、太陽の王国にしたいと思った。この強烈な生命力が、ぼくの野心をくすぐった。

 太陽よ、この戦に勝利したら、ぼくはおまえを絶対の神とする。だからこそぼくに勝利をくれ、ぼくはそう祈った。

 しばらくすると、ある小隊の伝令が血相を変えて戻ってきた。

「大王様、一大事でございます」

「何事だ、道が見付かったか、それとも敵に出くわしたか」

「いえ、我が隊の3名が深い穴に落ちてしまいました」

「穴だと、そんなものに分からなかったのか」

 ぼくはふと、力が抜けた。敵であれば全軍でこれに当らなければと身体が熱くなったが、穴に落ちたとはどういうことかと呆れたのだった。

「草に覆われて気がつきませんでした。隊長が大王様をお呼びするようにと」

「ありったけの縄をもってこい。それから手の空いている者は新たに縄をなえ」

 ぼくはそう言い残すと、その穴というものに向った。緑の草原に点在する白い石の群れが美しかった。戦いに向う自分が、なぜか滑稽でもあったが、それをぼくが言うことはできない。

 辺りを注意深く見回しながら進んで行くと、あちらこちらと大きな縦穴が地面に口を開けているのに気付いた。それはまるで人を黄泉へと誘うかのようだった。

「気色悪い穴だな、どのくらい深いのだ」

 ぼくはフトダマに訊いたが、彼でもそれはよく分からない風だった。

「私の霊力をしても、この穴の深さを知ることはできません。真さに黄泉まで続いていることでしょう」

 フトダマは答えた。

「みんな、気を付けてくれ」

 ぼくは兵に言った。

「どこもここも穴だらけです」

「いいから注意して進むのだ。おまえ達の仲間が、今助けを求めているのだ」

「みんな、頑張るぞ」

 部隊長が兵達を励ました。

 注意しながら、ぼく達は兵士が落下した穴の前まで来ると、皆がどうしたものかと思案に暮れているのを見た。

「縄を持って来たぞ。これを垂らして、誰か見て来い」

 オモカネが命じると、一番身軽そうな男が進み出た。

「ぼくは敵兵と戦うには小さ過ぎますが、この縄を使って大王の御心に添いたい」

「やってくれるか」

「そのお言葉をいただけるだけで十分でございます」

「では、行ってくれ」

 ぼくは、彼に下へ降りるように言った。すると彼は、まるで猿のように音一つ立てずに降りていったが、程なく地上に戻ってきた。

「どうした、下はどうなっていた」

「縄が短くて底まで届きません」

 彼は泣いていた。

「そんなに深いのか」

「まるで黄泉の国のようです。ここは本当に黄泉の国の入り口ではないのですか」

 彼は泣きながら言ったが、その動揺が他の兵に広がることをぼくは恐れた。

「バカなことを言うな。あるだけの縄をつなぎ合わせるのだ」

 そうして縄を継ぎ足しながら降ろしていくと、底に着いた感触があった。早速先程の男を下に降ろした。

 彼はやはりするすると降りて行った。そしてしばらくして、たぶん底に着いたのだろう、松明だろうか、小さく赤い光がゆらめき始めた。

「どうだ、何か見えるか」

 上から怒鳴ると、小さくこもった声が帰ってきたが、よく分からなかった。

「何を言っているんだ」

 しかしよく分からなかった。

「もういい、すぐに上がって来い」

 ぼくはそう穴に向って叫んだ。

 しばらくして、もう一度声をかけようとしたが、その前に彼は真っ青な顔で上がってきた。

「大王様、やはりここは黄泉の国じゃ」

 地上に転がり上がると、彼は自制を失って叫んだ。

「下に落ちた者はどうした」

 ぼくは彼に冷静になるようにと手振りを交えながらそう訊いた。

「全員、死んでおりました」

 震える声で彼は言った。こんな深い穴に落ちて無事な分けはなかったが、それがはっきりとした。兵達はこれで納得する。

「では、引き上げて弔わねば」

 部隊長がぼくに言った。現場を預かる者としては、当然なことである。

「しかしやつらの他にも、無数の髑髏がありました。まるで石の王宮の門前の生け贄のようで、今にもその石門から亡者が出てきそうでしたぞ」

 小さな兵は、怯えるように言った。部隊長もどうしていいか分からず、ぼくの顔を覗き込んだ。しかしぼくも解答を持っているわけではない。どうすればいいのかは分からなかったが、大王としては判断するしかなかった。

「どうもよく分からん。だが、地中に王宮などあるはずがあるまい。我が兵よ、付いて来い、予も降りるぞ」

 ぼくはそう言うと、将兵らと共に地下へと降りていった。

 真っ暗な闇のなかを、一本のロープだけで降りていくと、いったい自分は下へ降りていっているのか、それとも上へ登っているのか、分からなくなってしまう。ずいぶんと時間が経って、ぼくはようやく地面を踏むことができた。そこは妙に柔らかな地面だった。

「早く火を灯すのだ」

 ぼくの号令に、一斉に松明が灯された。するとそこには、兵士の死体と無数の髑髏が散らばっていた。なんとぼく達は、髑髏の山の上に立っていたのだった。足の裏が、気色悪く感じた。怖じ気づいて腰を抜かしている者もいた。

「ヤマタの兵だろうが」

 オモカネは、腰を抜かした兵の襟首を掴み上げた。どこにも逃げ場が無いと悟ると、多くの兵の顔から、恐怖の色が消えていった。

「先に進むぞ」

 ぼくは彼らの先頭に立ち、不気味な髑髏の山を下りた。ザクザクと乾燥した音が、まるで雪山を行くようだった。

 闇のなかに、松明に照らされた方にぼうっと浮き上がるものが見えた。何だろうと誰もが思った。無意識のように、ぼく達はその方向に進み続けた。

「お待ち下さい」

 フトダマがぼくを手で制した。

「これは一体・・・」

 フトダマの声が、途中から分からなくなったが、ぼくも彼につられて視線を上げると、先程の兵が言った通り、そこには地底の王宮が広がっていた。

「予はこの光景を聞いたことがあるぞ」

 ぼくは父がスサから聞いた話を思い出していた。父とスサはどんな関係だったか、なぜは思い出せないのだが、その場は互いに無事を安堵するような感じだった。

「これはネのくにへの入り口だ」

 フトダマが呟いた。

 ここを入ると、もう誰も出られないということだったが、それにしても神々しかった。ぼくはただその光景に見惚れるばかりだった。たぶん兵達も、ぼくと同じだっただろう。

「気を付けられよ」

 フトダマが低い声で注意したが、ぼくは聞いていなかった。はるか天井から聳える濡れた石柱が、ぼく達の松明に輝いていた。蜂の巣のような黄金の水溜りが、我が国の豊かな水田のように広がっている。それは地下の帝国だった。

「何者じゃ」

 突然だった。

 暗闇のなかから熱り立つ声が響いた。それは人の声ではなかった。

「大王、ここには何かおるぞ。それも地上のものではない。黄泉の国の何かじゃ」

 フトダマが、ぼくの耳元に小さく囁いた。将兵達も声の方に身構えたが、身震いでカタカタと鎧や剣が小さな音を立てていた。ぼく達は狙われていると直感した。

「皆の者、円陣を組め」

 ぼくは小さな声で皆を集めた。訓練を積んだ将兵は、するするとぼくを中心に円陣を形成し、闇に向って、まるでハリネズミのように槍と剣を突き立てた。その将兵の槍と剣が、松明のゆらめきに鈍く光っていた。

「うぁあー」

 誰かが叫んだとともに、ぼくの近くでドサリと何かが落ちる音がした。兵がやられた感触だった。

「やられたな」

「みんな殺されるぞ」

 皆に動揺が走った。

「落ち着け、我がヤマタの将兵ども。我らには太陽の化身、日巫女様が付いているではないか。闇の者に何を怖じけるか」

 ぼくはそう、彼らを叱咤した。それが効いたのだろうか、将兵も落ち着きを取り戻してきた。

「フトダマよ、やつが分かるか」

 ぼくはフトダマに躙り寄った。

「よく分かります。幽界を彷徨う獅子のごとき魂が見えます。これは非常に危険な魂ですぞ」

「殺せるのか」

「残念ですが、この魂は殺すことはできません。もう一度死んだ魂をもう一度殺すことは誰にも出来ないのです。しかし何とかあの獅子の魂を封じることは、この私の力でもできます」

「どうすれば封じれるのだ」

「わたくしが呪術を施しますとやつの動きが鈍くなります。そこで大王様に、この私の手にある翡翠を、やつに押当てて下さい。そうすればやつは翡翠のなかに封じられることでしょう」

 フトダマはそう言うと、ぼくの手に翡翠を握らせた。

「簡単に言ってくれるな、そうするしか無いのだろうが」

「大王には申し訳ありませんが、あなた様しかできないことです」

「言ってくれるな」

 ぼくの言葉を遮り、フトダマの白い指が闇を切った。そして彼の口から呪文が唱えられた。

 すると巨大な白い獅子が天井より降りて来るのが目に入った。多くの兵が、言葉を失っていた。しかし獅子は、明らかに呪術によって動きが縛られていた。

 今しかない、ぼくはそう思うと、手にした翡翠を強く握りしめると、前に押し出すようにして獅子に突進した。それから獅子と翡翠が触れた瞬間、ふっと眼前から獅子の姿が掻き消えていた。

 周りの空気が、ふと和らいだ。これで危機が過ぎたのだと誰もがそう思い、へたへたと地面に腰を下ろした。

「何をしているか。急いで地上に脱出せよ」

 フトダマの低く抑えた声だった。誰もが彼に振り返った。

「多くの幽界の魂が、ここに近付いてきている。急げ」

 フトダマの緊張した声に、将兵は我先に綱を登った。

「大王も早く」

 ぼくの身体は、フトダマに押された。

「お前はどうするのだ」

「臣はここで幽界の魂を引き留めておきます。大王は早く地上へお逃げ下さい」

「何を言う。お前が先じゃ」

「いいえ、この国を率いる大王が先でございます。短いながら、臣は大王にお仕えでき、幸せでした。オモカネ将軍、大王を頼んだぞ」

「任せろ」

 そう言うが早いか、オモカネはぼくをさっと小脇にかかえると、一目散に綱を登っていった。

「最後に大王に申し上げます。翡翠に封じ込めたその獅子は、すでにあなた様の命に従う僕ですぞ。何かの折には、その力が役立つはず」

 フトダマの最後の言葉だった。

 どのくらいの時間、ぼくはオモカネに抱えられていたのか、急に眩しさが目に飛び込んできた。無事に地上に出たのだった。地上では、まだ太陽が輝いていた。

「ぼくは生きているのか」

 そう自問していた。気付けばフトダマと多くの将兵を失っていた。

 誰もが自分を見失ったかのようにしていた。それはぼくも同じだった。それでもぼく達は何とか、本陣と定めた場所まで辿り着くことができた。

「大王様、サバへの道が見つかりました」

 南の方角を探していた一隊が、我らが手柄じゃと言わんばかりに帰陣した。

「大手柄であった。夜が来ぬうちにこの地を離れよう。全部隊に集合の合図を送るのじゃ」

 ぼくは帰陣の狼煙を上げるように兵に命じた。もう穴に落ちるなと願っていると、やがて続々と、ここを出発した部隊が集まってきた。

 全軍が整ったところで、早速南に軍を進めた。あの道案内は帰っては来なかったが、やはりイズモの手の者であったかもしれない。

 そうするとすでにぼくらの動きは監視されている可能性もあった。サバにあるイズモ軍を探るために、タマノオヤに潜入を命じることにした。

「いよいよわしらの出番にございますな」

「どのように潜入するのだ」

「それは大王にも言えません。我らはあらゆる手を使って、敵に悟られることなく潜入いたします。大王には、安心して吉報をお待ち下され。われらにとって潜入・撹乱・分断はお手の物でございます」

「ではそなたに全て任そう」

 タマノオヤは一礼すると、ぼくの前を風のように去っていった。


 場所はサバのスサ王の居所である。ニニギの軍が移動を始めたことは伝えられていた。またネの国へ誘き出すことに成功したことも逐次耳に入っていた。どのような大軍が来ようとも、この居所を落とすことはできないと彼は確信していた。

「ネのくにを脱したところまでは確認しましたが、霧のためヤマタ軍を見失ってしまいました」

 物見が戻ってきて、スサにそう告げた。

「まあよい。こちらには巨人族が味方についているのだ。敵がどこから攻めて来ようとも恐れることはない」

 スサはそう答えたが、それは自分に言い聞かせるようだった。

「スサ王よ、ニニギとはどのような男なのか聞かせてくれないか」

 スサの義父であるスクナヒコが、彼の陣屋に現れると問いかけた。

「まだ詳しくお話しておりませんでしたが、あのニニギはわしの一番下の弟の子なんです。わしの甥です。敢えて、恥ずかしながら出自をお話しします。かつてわしは、我が姉である日巫女に長らくお使えしておりました。姉の死後、長老らは新たな女王を擁立して、そこでわしは追放されたのです。

いや、それも事実ではない。わしは日巫女に死んで伴とならねがならなかった。しかしそれが恐ろしかった。そこでわしは夜の闇にまぎれて、ひとり逃げ出した。それはもう哀れなものでした。長い流浪の末に、イズモへと辿り着いたところを、あなた様に救われたのです」

「そうだったのか。それであのようにヤマタを嫌っておったのだな。ついには貢ぎ物を催促するヤマタの使者を有無を言わさず斬り殺すや、少ない手勢を率いて攻めるや、女王や長老達を弑した理由がそれだったのか」

「あの時は、どこが手薄なのか、はっきりと分かっておりましたし、いつか復讐をと常に考えておりました。それがこのイズモの思惑と合致したまでのことです」

「あれで九州からの脅威がなくなったのは事実じゃ。セトの海を手中に収めるのも、そう遠い話ではない。そなたのような婿を得て、わしも心強い。ニニギとやらを討ち取って、九州攻略の一歩としようぞ」

「義父の言う通りでございます。ニニギは今、諸侯に推されて大王になったとか。増長するのも甚だしい。大王権はこのスサ王にこそ正当性がある」

「むこうからノコノコやって来おったのだ、即刻討ち取ってそなたが大王になればよろしかろ」

 そこに新たな知らせがもたらされた。

「一大事にございます。ヤマタのものと思われる軍船がアキの海に現れたとのことです。船上には無数の旗が立てられ、上陸の機会を窺っております」

「なんだと。では山中で見失ったという一軍は何なんだ。陽動隊であったのか」

「アキが奪われれば、イズモへの道が閉ざされてしまうぞ。今すぐ軍を送ろう」

 スクナヒコがスサに進言した。

「確かにあの地を奪われるわけにはいきませんな。この辺りの邑は我らの軍門に下って日も浅い。ヤマタが再び懐柔すれば靡くくにも出て来ないとも限らん」

「敵の軍船はどのくらいの数じゃ」

「百隻以上でございます」

「すると数千の兵力か。ヤマタにそんな力が残っているとは、あり得んことだ」

 スサの顔から血の気が引いた。何かの間違いでないのかと思ったが、もし事実なら大変なことになる。すぐにでも半分の兵を割かなければならない。

 だが、これは軍師コヤネの計略だった。穴門より引っ張ってきた無人の筏に帆を立てたものを浮かべ、船数が多いように見せかけただけなのだが、その効果は絶大だった。またヤマタの国々の多くの山で材木を切り出す噂を流していたので、スサも大船団が攻め寄せてきたことを疑うことができなかった。

「アキを占領されるわけにはいかぬ。よって我が軍の半分をアキへ送る。義父殿が指揮をとって下され」

 スサはスクナヒコを振り返った。

「分かった、早速行ってニニギの首を取ってまいるぞ」

 そう言うとスクナヒコは、アキへの援軍を率いてサバを後にしていった。

 しかしまた何日かすると、今度はイズモ本国からの伝令が飛び込んできた。

「緊急事態にございます。イズモの沿岸の邑々にヤマタの軍船が押し寄せております。略奪と放火で、邑々は混乱しております」

 ナ王の軍も時を同じくして、動き出していた。

「おのれニニギめが、わしを本当に怒らせたな。ここには守備隊のみを残して、全軍イズモへ引き上げるのだ」

 スサ軍は混乱を極めていた。いくら強靭な軍団を要していても、手薄になっている本国が攻められればその意味をなさない。海沿いの道を、スサの軍は走るようにアキを目差した。そしてその混乱につけ込んで、タマノオヤ達クサの者もスサ軍に紛れ込んでいた。

 しかしまだスサの近辺には辿り着けずにいた。彼はどうにかしてスサ王に近付こうと、スサ王の近衛隊隊長を色仕掛けで丸め込もうとしている矢先だった。隊長は警護が手薄なために、タマノオヤにも警護に加わるようにと指図したのだった。

「いいタイミングじゃねえか」

 タマノオヤはほくそ笑んで、スサの本陣を警備する隊に潜り込むことができた。少し遠くだが、あのスサ王の姿も確認することができた。

「ええぃ、わしが負けるわけがない。これは断じて撤退ではない、本国に向う敵への進軍なのじゃ」

 スサ王は半ば自信を喪失する将兵に向い、幾度となく叱咤を繰り返した。本国を離れ士気を失った軍ほど哀れで脆いものはないからだった。

「俺の旗を揚げろ」

 スサ王は叫んだ。言われるままに旗手はスサ王の大旗を蒼穹に掲げた。それまで、我先に逃げようとしていた将兵の足が止まった。

「ほぅ、スサ王もやりおる」

 タマノオヤはにやりとした。この旗は味方の士気を高めてはくれるが、逆に敵からすればよい的となるからだ。これからはあの旗のみに注意を払っておけばよい。あの旗の下に、必ずスサはいるのだから。


 そのころぼくの軍団は、山中をサバからアキにかける路上の中間地点を目差していた。この辺りは平野が少なく、小数で襲撃するには適した場所が多く見付かった。有利に事を決するためには、スサ王の軍がスクナヒコの軍と合流する前で、食事や休憩を取りやすい場所が好ましかった。

「イワトに心当たりがあるそうですが」

 オモカネがぼくにそう言うので、イワトを呼んできてもらった。

「どこが一番適しておるのか、そなたは知っているそうだな」

 ぼくがそう言うと、いつも無口なイワトが口を開いた。

「はい、大王。アキのくにの入り口近くに、神霊の宿る山が聳える島がございます。陸からは小舟でも行ける距離で、ここに誘き出すのでございます」

「じゃが、どうやって誘き出すのじゃ。敵は本国へ一気に戻りたいはず、そんな小島でぐずぐずはしまい」

「わたしに一案がございます」

 突然、敵陣に潜入していると思っていたタマノオヤが、ぼくの陣屋に現れたのだ。

「神出鬼没とは、おぬしのような者のことじゃな。それで、一案があると言ったが、どのような案じゃ」

 ぼくはタマノオヤに席を用意させながら言った。

「スサ王は殊の外、霊力が強うございます。それを逆に利用するのです」

「もう少し詳しく聞かせてくれ」

「スサ王の近辺にようやく入り込むことができました。わしの手の者にかつて巫女を務めておった者がおりますので、その者を怪しげな巫女を捕らえたということで、スサ王に引き出します。女は島の渡しで、スサ王に進言します。この島の神々に祈れば、イズモはその神威で守護されると。スサ王もその神威に気付かぬはずはありません。さすればスサ王は、小数の者を連れて島へ向うことでしょう。そこで待ち伏せをして大王様がスサ王を討ち取るのです」

「名案じゃな。だが、時を失ってはスクナヒコの軍も加わり、こちらが全滅ということにもなりかねん。ここが最後の決断の時か」

 ぼくはそう言って、中空に視線を外した。

「ご英断を」

 陣屋にいる一同が、ぼくの次の言葉を待っていた。

「やるしかあるまい。ここに集った者に確と言っておく。もし予が死のうとも、むらくもの剣だけはヤマタに届けよ」

「この命にかえても我が君と剣をお守り致す」

 オモカネが真っ先に応えた。

「わしもおなじじゃ」

「われもじゃ」

 陣屋にいる誰もがそう応えてくれた。

 いつものようにタマノオヤだけは、音も無く姿が見えなくなっていたが、スサ王の陣屋に戻ったのであろう。我々は場所を悟られぬよう、十名の小隊を移動の単位として、アキの島を目差して歩き続けた。

 行動を秘匿しなければならない行軍のため、ぼくらに出くわした者はことごとく殺害しなければならなかったのが、本当に辛らいことだった。

 しかしその甲斐あって、スサ王よりもいち早くアキの島への渡しに到着することができた。

 すでに神域に入り込んだのだろう、ぼくの腕は一面鳥肌立っていた。

「ここには本当に神がいらっしゃる」

 ぼくは本当に恐かった。あのネ国の入り口で味わった肉体の死の恐怖とは違う、魂の恐怖だった。ぼくは神の御霊を鎮める呪術を行い、オモカネ、タジカラ、イワトを伴って島へ渡った。残った者たちは、奇襲がかけられる山の中腹へ移動させ、いつでも攻撃ができるようにしておいた。


 一方コヤネが指揮をする船団の戦闘は、日増しに熾烈を極めていた。タマノオヤより状況がもたらされ、何とかスクナヒコ軍を引きつけておけなければならないと感じ、敢えて不利な陸上戦を選んだのだった。

 コヤネに従う将兵は二百名だ。対するスクナヒコ軍は一千名のイズモ軍だった。まともに戦ってはコヤネに勝利はなかった。ただアキは川や沼が多い土地のため、大軍は動きが取りづらいところがあり、そこに彼は勝機を見つけようとしていた。

 菰が繁る草陰に弓兵を配置し、敵が数十人渡ったところで、一斉に矢を射かけるのである。当初、スクナヒコ軍は大軍で囲い込むことができず、ある河畔で押しては引き、また別の沼の畔で押しては引くを繰り返さざるを得なかった。いつの間にか軍はばらばらになっていった。

「コヤネ将軍、今こそ一斉に攻懸りましょう」

 部下の兵らはそう嘆願したが、コヤネはぐっとこらえていた。もしこの軍が持ち堪えられずに壊滅したら、敵の刃は大王に向う。そうなることだけは、どうしても避けなければならなかった。勝ち負けはどうでもよかった。できるだけ長く、こうしてスクナヒコ軍を足止めできれば、彼には勝利以上の戦果だった。

 しかし少しずつではあるが、確実に味方は減っていった。ある者は背負っていた矢玉を使い果たして取り囲まれ、またある者は体制を再び整えつつあるスクナヒコ軍に火矢を降り注がれて焼け死んだ。じりじりと追い詰められていく彼の目に、遠く狼煙が上がるのが映った。

「あのオヤジ、やりおったな」

 それはタマノオヤの計略が行われた合図だった。ここまで引きつけておけば、アキの島まで取って返すのに数日はかかる。そろそろ自分達が生還する準備をしなければなと思った。

「全員、逃げるぞ!」

 コヤネはそう怒鳴ると、一気に敵のおらぬ方向へ走り出した。沖合で仲間の窮状を心配そうに見守っていた船団も、海路その後を追った。コヤネは鎧も脱ぎ捨て矢立も打ち捨てると、刃こぼれの激しい剣一本を握りしめて駈けに駈けた。

 兵達も皆逃遅れまいと、それぞれに彼の後を追った。最後に剣を打ち捨てると、岩場から海に飛び込んだ。そして船に向って一目散に泳いだ。心のなかでは、「俺の役目は終わったな」、そんな満たされた思いを抱いていた。

 対するスクナヒコは、その光景に呆れながら言った。

「もう追うな。ヤマタの腰抜けどもを笑ってやれ」

 その一瞬の隙を突いて、どこからか飛んできた一本の弓矢が、スクナヒコのこめかみを貫通した。何が起きたのか、誰にも理解できなかった。イズモの覇王は静かに大地に崩れ落ち、彼の将兵達は我先にイズモを目差して走り去っていった。


 スサ王がアキの島の渡しに差し掛かった時だった。打ち合わせの通り、タマノオヤがウズメに目配せした。

「スサ王様、お待ち下さい」

「どうした女」

「あの島をご覧下さい」

「ああ、あの島か。そうだのう、非常に強い霊力を感じるのう。神の島なのか」

「左様にございます。あの神威をお味方に付けられませぬか」

 ウズメが言った。

「おまえにできるか」

「お望みとあらば」

「では女、わしを案内せい」

「危険ですぞ」

 スサの近衛隊長が押止めようとした。

「伏兵など、恐れるに足りん。わしには巨人族が付いておるのを忘れたか」

「いいえ、しかし胸騒ぎがします」

「案じるな」

 スサ王は近衛隊長を下がらせた。

「ウズメよ、案内できるか」

「かしこまりました」

 ウズメは相棒のイシコリと共に身支度をすると、船に乗り込んだ。

「スサ王様もこれに」

 ウズメはスサ王をそう招いた。

「王おひとりでは危のうございます。我らも共に参ります」

「あの島は神が認める者以外は入ることのならぬ禁足地でございます。たとえ将軍でも、これだけは叶いませぬ。あそこには王だけが入ることを許されます」

「いや、ならぬ。我らもお伴いたす」

 強引に将軍が乗り込もうとしてきた。

「将軍よ、ここで待っておれ。あんな島に何があるというのだ。ニニギの船団も近くには見えぬ。それにわしには巨人族が付いておる、いざとなれば彼らの力がある」

「左様でございますか。我らが千人集まろうとも、あの巨人族には足下にも及びませなんだ、ここは王に従います」

 将軍はそう言って引き下がった。

 三人がゆっくりと海を渡っていく。ぼくはそれを見ながら、自分の腰の剣をぐっと握りしめた。ヤマタ国で散々に暴れまわった無法者を、ぼくは許すことはできない。この剣を抜く理由は、それだけで十分だった。しかし怖くないと言えば嘘になる。スサ王は霊力も然ることながら、剣の腕前もずば抜けていた。多くの者がその剣を恐れていた。

「大王よ、心配ない、我らがおる」

 オモカネが軽くぽんと、ぼくの肩を叩いた。

「頼りにしているぞ。しかしあの男は途轍もなく強い」

「我ら三人、すでに大王に命をお渡ししています。存分の働きをご覧下され」

「よう分かった。しかし無茶はするな、もう予は我が臣を失いたくない」

「その言葉だけで十分でございます」

 そうするうちにスサの乗る船は、ぼくらが待ち伏せる島に着いた。

「こちらにございます」

 ウズメは神の山にスサ王を招いた。

「芝居はもうよい、ニニギがここで待ち伏せしているのだろう」

 言うが早いか、スサ王はむらくもの剣で二人の女を斬り殺した。

「ニニギよ、出てくるがいい。わしを殺そうと待ち構えているのであろう」

 その言葉に、ぼくの決心は固まった。

「お待ち下さい」

 オモカネが止めたが、ぼくは立ち上がっていた。そしてスサの前に現れると、腰より剣を抜いた。

「ニニギだな、待っておったぞ。今こそ我が力を受けてみよ」

 スサ王はそう言うが早いか、巨人族を召還した。ぼくには見たことも無い大男達だった。いくらオモカネ達が力自慢といえども、背丈が常人の三倍はあろう大男の敵ではないように思われた。

「大王、首に下げた翡翠を使いなされ!」

 背後から、死んだはずのフトダマの声が聞こえた。

 その声の通り、ぼくは首にぶら下げていた革袋から咄嗟に翡翠を取り出すと、巨人族に投げつけた。するとどうだ、白い煙のなかから巨大な獅子が現れ、次々に巨人族に襲いかかった。巨人族がすべて食殺され、次に獅子はスサ王に牙を剥いた。

「こしゃくな真似をしおって。それではこれはどうだ」

 スサ王が神剣むらくもの剣を抜くと、獅子は煙のように消え去った。

「あの神剣には、霊力では太刀打ちできません。真の力が必要です」

 フトダマがぼくに並んだ。

「生きていたのか」

「命辛々生き延びて、地上に出れたのが、この神の山の麓の洞窟でした。こうして再びお会いでき、臣は嬉しく思います」

「予も同じじゃ。しかしあの神剣を封じんことには、こちらに勝目はないぞ」

「とにかくここでは勝負になりません。神山を登りましょう」

 フトダマの言うままに、ぼくらは神山を登っていった。オモカネら三名が後詰めを務める。その少し後から、スサ王が追いかけてくる。ぼくらは苔むす岩をよじ上り、山頂に辿り着いた。

 そこは巨岩がごろごろしている場所だった。ぼくらは一番大きな岩によじ上ったが、もうこれ以上行き場は残されていなかった。

「ニニギよ、もう諦めよ。このワのくにはわしが治めてやる」

「何をほざく。お前ごときが大王となれるわけがあるまい」

「まだ知らぬのか。わしは日巫女の弟にしてお前の伯父じゃぞ」

 ぼくはその事実に驚いた。誰もその事実を教えてはくれなかったからだ。

「この世はな、力なんだよ。それ以外の正当性など、意味ないんだよ」

 スサ王の荒々しい声が響く。オモカネとタジカラがスサ王が登るのを妨げようとしたが、むらくもの剣に地面に叩き付けられて気を失った。

「覚悟せよ、ニニギ」

 そう言ってスサ王がむらくもの剣を振り上げた時、その奇跡が起こったのだった。俄にかき曇った一点から、一筋の稲妻がむらくもの剣に駈け落ちたのだ。

「うぉーっ」

 スサ王は叫ぶと、岩より弾き飛ばされた。髪は逆立ち、身体から煙が燻っていた。彼はぴくりとも動かなかった。イワトが近寄り調べてみたが、スサ王はすでに息絶えていた。ワ国を蹂躙した男にとってそれは、あっけない死であった。

 フトダマがむらくもの剣をぼくに手渡してくれた。

「これであなた様は、正真正銘の大王となられました」

「お前達もご苦労だった」

「ご覧下され、眼下では大王軍がイズモ軍を一掃する勢いですぞ」

「スサ王も今はネのくにへと戻っていった。もはや相争うことはあるまい。彼はもう二度と帰ってくることはないだろう。この山に鎮座する神の前で、予はこのくにをひとつの名で呼ぶことを決意する。このくには魏の言葉では友愛を示す『和』を国名とする」

「すばらしく美しい名前でございます。これより先、多くのくにや邑がこの名の下に新しいくにを築くことでしょう」

「また予はヤマタの出であることをここに封印する。予は今まさに天よりこの新しい命を与えられた。その出自は天であり、予は天孫を名乗るぞ」

「御心のままに」

「イワトよ、双方の軍に伝えよ。今まさにここに天孫が天下ったとな」

 軍船の甲板の上から、その光景を見ながらコヤネは呟いた。

「まさにあの老女を通して神が告げられたとおりになった。あのお方こそ、この大和国を統べる大王に相応しい」

この国の新しい歴史は、この場所から始まるのだった。


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