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病室の窓から、中庭が見えた。私はそこを歩くことを許されたが、逆に言えばそこ以外のどこへも行くことができなかった。それでも外へ出られるというだけで、ほっとしたものだ。
相変わらずテレビは与えられなかった。新聞も、雑誌も。おかげで私は、ここで目覚めてから何一つ外のことを知らないままだ。今隣町で大災害が起ころうが、私には知る由がないのである。隔離されている、とより強く思った。しかしそれを訴えても、彼らは首を横に振るばかりだ。外の世界は、私にとって良くない影響を及ぼすというのが彼らの共通の見解で、私が記憶を取り戻すまでは、ここで安静にしているのが良い、ということらしい。それにしても、これは軟禁といってもいい状況だ。法的に、こんなことは許されるのだろうか。記憶が戻らなければ、ずっといつまでもこうして閉じ込めておくつもりなのか?
とにもかくにも、私は今の状況下で少しでも早く記憶を取り戻す必要があった。森が持ち込んだ本を読み、とりあえず何でも良いから情報を入れようと躍起になっていた。
山脇が再び現れたのは、そうして一週間ほど経った頃だ。森はこの時ばかりは同席せず、仕事の打ち合わせがあると言って出て行った。
「どうだい」
椅子に腰掛けるなり、山脇はそう問うた。
「大分思い出してきたわ。森ちゃんとは多分、以前と同じように話せていると思う」
彼女のちょっとした所作で、今まで見慣れた癖を思い出すこともあった。彼女の切るりんごは、妙に角張っているのだ。見舞い客も、顔を見れば名前が浮かぶくらい記憶ははっきりしてきた。
「でも、仕事のこととあなたのことは思い出せないの」
名前は浮かぶが、それがどういう知り合いなのかは思い出せない。目の前の人物と語り合っている場面は思い浮かぶが、そのシチュエーションは思い出せない。山脇に至っては、そんな場面すら思い出せないままだ。
山脇は分かりやすく表情を暗くした。この男が私に好意を持っているのは間違いないと思う。私はこの男のことをどう思っていたのだろうか?
この男との関係性は謎だ。私の記憶は、私に近しい人のものから戻っていっている。この男だけ戻らないというのは、どういうことか。あまりに、彼と私との距離が遠かったということだろうか。
「……私、今この本を読んでいたの」
そう言って私は棚から小説を取り出した。例に漏れず、森が持ち込んだものだ。
「なんてことない小説だけど。ちょっと思い出すものがあった気がする」
「なんだ?」
小説内に出てくる用語に、とても馴染みがあった。香盤、ト書き、素読み、……。その単語たちをわざわざ調べなくても、私は意味を知っていた。そしてそれらの共通点も。
「私、演劇と何か関わりがあった気がするの。観劇が趣味だったのかしら? それとも部活動?」
山脇はぎょっとして、私から本を奪い取った。その勢いに驚いて、空になった手を引いて握った。男は私に構わずその本の表紙を睨みつける。
「何の本だ、これは?」
「ちょっと、何なの、急に。ただの小説よ。私、何かいけないことでも言った?」
「いや……」
「もしかして、私の仕事って演劇関係なの?」
「違う!」
妙にきっぱりと、山脇は否定した。それから一呼吸置いて、冷静な声で言った。
「いや、違う。以前部活動で演劇をやっていたと聞いたことがある。そのときのことを思い出したんじゃないか?」
「そう……?」
それにしては、男の反応は過剰だ。触れてはいけないことだったのだろうか? しかしそうだとして、どうしてこの男に大声を出されなくてはいけない?
山脇はしばらくうつむいていた。私は少し怖くて、何も言わずに相手の行動を待つ。やがて男はふうと息を吐いて、私からもぎ取った本をベッドサイドに置き直してから私に向き直った。
「……演劇を、やりたいか?」
唐突な質問だった。仕事の話かと思ったけれど、先ほど違うと否定されたばかりだ。
「部活って中高か大学でしょ? 学生時代に戻りたいかって言われれば、その方が気楽で楽しいでしょうけど。演劇なんて成功するのは一握りでしょう? 私、結構堅実派よ」
「堅実派ね……」
少し皮肉っぽく笑った。記憶のないくせにどうして自分のことがわかるのだとでも言いたげだった。
山脇が帰った後、森がやってきた。
「森ちゃん。私、演劇をやっていたの?」
「え、山脇さんから聞いたの?」
森は驚いたように私を見た。『あの』山脇が、と言わんばかりだったから、もしかすると演劇と因縁があるのは山脇の方かもしれない。
「まあ、以前はやっていたけれど。そんなに気にすることでもないんじゃないかしら」
山脇のように動揺することなく、森は言った。それが演技かどうかは、よくわからない。
仕事のことで悩んでいるようだ、離れた方が良いのかもしれないと山脇は言った。
私は過去を忘れたかった、捨てたかった?
私は、自分がそんなに思い詰めるような質だとは思えなかった。周りが重く受け止めすぎているだけなのではないか。
もちろん、誰しも思うことはあるだろう。誰も自分を知らないところに行きたい、いやなことをなにもかも忘れたい、
生まれ変わりたい……。
『生まれ変わったような気持ちになれない?』
そんな言葉を、口にしたような気がする。
初めてだ、こんなことを思い出すのは。私はじっと集中して、今思い出した台詞について考えようとする。けれど、そんなときに限って、外は雨が降っていて、その音が集中を乱す。
そう、この、雨音。ずっと耳の奥で鳴っている、雨音。私を洗い流してくれるような……。
瞬間、雷が鳴り響いて、私は我に返った。
外は豪雨だ。
「佐東。大丈夫か」
「何が? あなたのほうが、大丈夫?」
山脇が、びしょ濡れになって現れた。彼は、私が病室に閉じ込められているのを知っているくせに、私の心配をする。
「私、雷が苦手だったのかしら?」
「いや、そんな話を聞いた覚えはないが」
戸棚からタオルを取り出して、山脇に差し出した。
「大丈夫だ。それは君のだから」
「だから、持ち主の私が使っていいと言っているのよ」
山脇は、それでも少しためらってから、タオルに手を伸ばした。私はそれに満足して、以前もこんなことがあったような気がする。そのとき私は、その人と同じ空間にいられることを喜んで、私の好意を受け取ってくれたことが嬉しくて、そう、私はその人のことが……。
気がつけば、私はぽろりと口に出していた。
「……私、好きな人がいた気がするわ」
彼に言ってどうするというのだろう。よもや、山脇がそうだと思ったわけでもあるまい……多分。
「…………そうか」
山脇は静かに呟いた。その声に驚きはなかったから、私は彼を振り返る。
「知っているの?」
男は苦々しげな表情を浮かべていた。それがどういう意味を含んでいるのか、私には判断がつかない。
「いや、知らない」
君の内心なんてわからない、と小さく呟いた。多分それは聞かれたくなかったんだろうと思う。
記憶が戻らないとここから出してはもらえない、……それに、山脇は自分のことは思い出して欲しそうな言動をとる。でも、仕事のことを思い出させたくないが故に、すべての私に関する情報はシャットアウトされている。
「このままじゃ、埒が明かないと思うの」
「どう言う意味だ?」
「あなたと私、プライベートな友人だったんでしょう? 私のこと、知ってるんじゃないの……仕事以外でも?」
なら、仕事以外のところから、少しずつ思い出せばいい。いい案だと自分では思ったものの、山脇の表情はぱっとしなかった。
「よく、知らないな」
「私の学生時代だとかは?」
「……演劇をやっていたらしい」
「それはもう聞いたわよ」
どうやら山脇は、私の私生活のことでさえ話したくはなさそうだった。それとも、本当によく知らないのだろうか。
「じゃあ、あなたは?」
「俺か?」
男はしばらく考える素振りを見せた。ご丁寧に腕組みをして、小首まで傾げた。やがて、ぽつりと呟く。
「……カントクと呼ばれていた」
「監督? 野球かなにか?」
『監督』という言葉で真っ先に思い出したスポーツを上げたが、もっと他にも『監督』はあった気がする。しかし山脇は苦笑で答えた。
「小学生の頃は、野球チームに入っていたな」
どうも、その役職は似合わない。マネージャーがせいぜいだと思う。
「でも、カントクってあだ名は、なんだかしっくり来るわね」
「そう思うか?」
「もしかして、私もそう呼んでいた?」
「……そうだな」
そう言って、山脇は目を細めた。
しばらく和やかな空気だった。これならば、話を切り出せるかもしれない。私はなるべく口調を変えないように、さりげなく呟いた。
「私はストーカー被害に遭っていたんだってね」
私の言葉を聞いた山脇はびくりと身を竦ませ、それから笑みを取り繕った。
「もうそれは気にする必要はない」
「ここを出れば、またつきまとわれるかもしれないじゃない。私自身が知って対策する必要があるでしょう」
「なんとかする。君は、今は療養に専念すべきだ」
冷静に話をしようと思っていたのに、そこでかっとなってしまって、私は口調を荒くした。落ち着いた物腰で、しかし山脇は私の言うことに何一つ取り合わない。
「もう治ってるわ! 私に悪いところなんて一つもない! なのに皆して、こんなところに押し込んで、何のつもり?」
山脇は何か言いかけて、結局口を噤んだ。
「何か言ってみれば?」
「……君の言いたいことはもっともだ。しかし俺たちは……」
「あなたは、私のなんなの?」
また、男は苦しそうな顔をする。私は目を逸らさないように、男を観察した。
「……仕事仲間だ」
「本当に?」
「それ以上でもそれ以下でもない」
それ以上になりたいって顔にかいてあるようだった。しかしそれを、以前の私はどう捉えていたのだろう。
雨音が聞こえる。
私はそれを嬉しく思うと同時に、重く感じる。歩き出してもそれはついてきて、少し怖くなって足を速めた。
しかし雨音はついてくる。黒い壁から、気持ちの悪い人影が生まれて私を追ってきた。
いやだ、何これ、ついてこないで!
影の足は速くて、私はやがて捕まってしまう。
がむしゃらに振り払って、走り出そうとした瞬間、足を踏み外した。
私は真っ逆さまに、落ちていく———。
目を覚ますと、閉じたまぶたから透けるはずの光が、少し暗い。ほんの少し昼寝をしたつもりだったのに、いつの間にか夜になったのだろうか。しかし衣擦れの音がして、これが自然に暗くなったのではないことを悟る。
誰かが、私を覗き込んでいる。
悲鳴を上げるのをじっとこらえた。こいつは、私に何をしようとしている? そっと右手を伸ばして、ナースコールのボタンを探った。なかなか見つからなくて焦る。
吐息が聞こえるくらいまで、誰かの顔は近づいている。髪に何か——たぶん、誰かの手が触れて、そっとかきあげた。そして一瞬離れて、私の頬へと、伸びる。
手が、私の頬に触れるか触れないかのところで、私はぱっと目を開け、指先に触れたボタンを引っ掴んだ。
「あなた、何ですか!」
覆いかぶさる体を押しのけて、私は上体を起こし、ボタンを押した。
すぐに看護師が現れる。私は一呼吸おいて、たった今押しのけた人物を認めて唖然としていた。
「山脇さん」
所在なげに立っているのは、細身の男。記憶をなくしてから会うのは三度目の、山脇だった。
「……悪い。さっきまでうなされていたようだったから」
「大丈夫ですか?」
看護師が心配そうに山脇に尋ねる。彼ははっと看護師を見て、ばつが悪そうに言った。
「ああ、すみません。私が寝起きに近づいたので、驚かせてしまったようです」
「ナイーブになっていますから、仕方ありませんね。でも、眠っている女性にあまり不用意に近づくのは……」
「すみません」
看護師は少し怖い顔で男に注意すると、私の方を見て尋ねた。
「大丈夫でした?」
「あ、はい……すみませんでした」
「あまり気にしないで、何かあったらすぐまた呼んでくださいね」
誤報であっても看護師は全く気にした様子もなく、病室を出て行った。
「悪かった。驚かせるつもりはなかったんだ」
「そう」
声が冷たくなってしまうのはしょうがなかった。山脇はすっかり困った様子でうろうろと部屋を歩く。
「うなされていたんだ。これまでもそういうことがあった。だから……」
「これまでも?」
しまったという感じで、男が口を噤んだ。
「何で知っているの?」
男が来たのは、最初に目覚めた後と、一昨日二度目に会ったとき、そしてこれが三回目のはずだ。男の前で眠った覚えなどない。
「……見舞いにきて、君が眠っているときがあったんだ」
「何度もあったように言ったわよね? そう何度も何度も眠っていたわけ?」
「それは本当だ。タイミングが悪かったんだと思う。一回は森さんも同席しているから、確認すれば良い」
慌てたように弁明をして、それからわざとらしく携帯電話を確認した。
「悪い、時間だ。なんだか妙な話になったが、本当に何もしていない、誓っても良い」
一人でごちゃごちゃと言いながら、さっさと出て行ってしまった。残された私はひとつの可能性を思いつき、じっと考える。
「あら? さっき、山脇さん来てなかった?」
「帰ったわ」
「あ、そう」
森がやってきて、お茶を淹れた。彼女のお茶はおいしい。私はそれをすすってから、彼女に尋ねた。
「山脇さんって、よくここに来ているの?」
「そうねえ、私もそんなに会っていないけど、ちょくちょく顔を出しているみたいよ。忙しいらしくて、いつも慌ただしく帰っちゃうみたいだけど」
「そう……」
「何、会いたいの?」
森がからかうように言った。
「そうね」
会って確かめたいことがある。
頷いてから、ふと思い出して訊ねた。
「私、好きな人がいた? 森ちゃん、聞いたことある?」
「あら、思い出したの?」
聞けば、彼女自身よく知らないが、どうやら私の押せ押せだったようだ。あまり相手にしてもらえないと零されたことがあるという。
自分がそんなに情熱的なタイプとは思わなかったので、驚いた。
「どんな人?」
「うーん、もう会ってると思うけれど」
「え?」
となると、仕事関係か。片思いなら、好みのタイプの人だろうか。これまで見舞いに来てくれた人で、かっこよかった人と言えば……、
「北林さん、とか?」
「格好いいわよね! 北林徹郎!」
もう壮年と言って良い年だが、渋くて男らしい。包容力のありそうな男性だ。森とひとしきり盛り上がり、二人でお菓子を食べてその日の面会は終わった。