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作者の医療知識は皆無なので、物語の進行に影響しない程度の齟齬やおかしい点はお見逃しください。
目を開くと、白い天井が目に入った。クリーム色とかではなくて、まっさらな白。清潔と言えば聞こえはいいが、言ってしまえば無機質な印象だ。
知らない部屋にいるが、私はしょっちゅう知らない部屋に泊まっていた気がするのでそんなに違和感を覚えない。さて、今回はどうしてこの部屋で眠っていたのか……。
思い出せない。
布団に入って眠っていたのだから、自分で寝台に上がったに違いない。なのに覚えていないとはどういうことか。
まぶしかった目が慣れてきたので、起き上がって辺りを見回した。少し頭が痛いような気がした。
その結果、いろいろなことが判明する。
白い天井、白いベッド、白い壁。そしていくつかの医療機材。ここはどう考えても、病院だ。ということはきっと、私はここに運ばれてきたのである。自分でこの部屋に入った記憶がなくて当然だ。
しかしそれほどにひどい怪我をしているようには見えない。それとも麻酔がかかっているだけで、本当は危険な状態なのだろうか?私は意識を失う前には何をしていたのだろうか……。
……
思い出せない……。
何か、耳の奥で音がする。
頭が痛い。これって、もしかして……。
私は冷静にナースコールを押した。否、おそらくちっとも冷静ではなかったんだろうけれど、少なくとも表面上はまったく動揺を出さずに、どこか感覚を麻痺させたままで身体を動かした。
やがて看護師が顔を出して、私は自分が記憶喪失である可能性を述べた。
医師がやってきて、しばらく私は観察そして診断された。記憶の混乱はわりと起こることで、きっとすぐ元に戻るということだった。私は自分の名前を教えられ、自分の顔を鏡で確認させられた。確認のために免許証や保険証も見たが、間違いなく私は教えられた通りの人物のようだ。そうでなくとも、名前は聞いた途端自分にとても馴染んだもののように感じられ、自分の顔にもすぐに納得がいった。この調子ならすぐに記憶が取り戻せそうな気がしたが、気がしただけかもしれないので口には出さなかった。
立ち上がれるかと問われて、立ち上がった。そのまま検査室へと連れて行かれ、またいくつか検査を行った。放射線を浴びる検査もあったので少しだけ怖かった。実際には検査で浴びる放射線の量などたいしたことではないらしいと知っていてもだ。
検査は数時間で終わり、私はまた看護師に連れられて病室に戻った。テレビもなく、横になってぼんやりと天井を見ていると、看護師と医師が現れ、面会が来ているから通すが良いかと訊かれた。肉親だろうかと聞くと首を振られた。誰にせよ、医師が会っても良いと判断しているならいいだろうと思い、扉が開かれるのを待った。
現れたのは男だった。教えられた私の年齢より少し年上に見える。眼鏡をかけていて痩せ気味、落ち着いた物腰だったが少し神経質そうにも見えた。
「記憶が混濁していると聞いた」
私は頷いた。男は自分の名前を名乗り、私がそれを聞いても思い出した様子を見せないことにほんの少し表情を暗くした。
「山脇、さん。あなたは、私の何なんです」
「俺は、君の」
そこで男は一瞬ためらい、吐息まじりにゆっくりと続きを言った。
「……仕事仲間だ」
「…………そうですか」
そういえば、私は何の仕事をしていたのだろう?とっくに成人しているようだから、働いてはいるのだろうけれど。
「……それなんだが、こうなる前の君は、今の仕事について悩んでいたようなんだ」
曰く、仕事関係でトラブルを抱え、精神的に不安定になっていたために、このような記憶の混乱を招いたと。
「君が目覚める前まで、君の……パートナーも何度も見舞いにきていた。医者の先生も交えて三人で、こうして一時的に記憶がなくなることを知る前から、しばらく仕事と距離を置いてみてはどうかという話はしていた」
パートナー?
「ああ、あとで来るよ」
どうして、この人が私の処遇を決めてしまうのだろう。ただの仕事仲間にそれほどの権限が?それに、そんなに簡単に仕事を休んでしまったりして良いのだろうか。確かに記憶がなければ仕事にもならないだろうけれど、少しでも触れていれば思い出すかもしれないのに。ああ、思い出させたくないのだった。
「この症状は一時的なもので、すぐに記憶を取り戻すんだろう?それでまだ仕事に戻りたいというなら、復職すれば良い。けれど、離れていることで君の気が休まるんなら、そのままの方が良いかもしれない。それがきっと、君のためになるんだろう。もしかしたら、君はそれを望んでいたのかもしれない」
試すような口調で彼は言った。そんな風に言われても、私には何も決められない。
「あなた方が、それがいいと思うなら、そうしようと思いますが、仕事場に迷惑はかからないのでしょうか」
男は寂しそうな顔をした。
「大丈夫だ。支障のないように調整しよう」
ため息まじりにそう言うと、立ち上がり、私を見下ろして付け加えた。
「あと数十分で君のパートナーも来られるそうだ。どうせしばらく入院だろうから、決断はしっかり話し合ってからで良いと思う」
「はい……」
彼が立ち去り際に、ふと思いついて訊ねた。
「外はずっと雨ですか?」
男は不思議そうな顔をする。
「いいや、朝からよく晴れている。なぜ?」
「いいえ……。なんとなく」
耳の奥で、雨音がずっと響いている気がした。
再び一人になった病室で、私は先ほどの男について考えた。仕事仲間だと自らを称した彼は苦々しげな表情だった。仕事仲間という立場に不満を持っている?もっと親しい間柄でありたいと思っている、のだろうか?
だとすれば、今考えられる可能性はいくつかある。彼と私が以前に男女関係を持っていた、あるいは私に片思いをしている、変わり種で言えば、私と彼は元家族で、どちらかが勘当されたせいで家族だと名乗り出ることができない、……とかいうのは、少し無理があるだろうか。主婦が好む昼のドラマじゃないのだから。
恋愛関係で考えるのが一番容易いが、彼はこれから私のパートナーが来ると言った。あまり探りすぎるとやぶ蛇になるだろうか……。
しかしやってきたのは小柄な女性だった。彼女は病室に入るなり私に駆け寄りぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。しかしふくよかな体つきは、ひたすらに心地よかった。
「ああ、ごめんなさいね。今のあなたにこんなことをしても、戸惑うだけなのはわかっているんだけど」
でも無事で良かった、ごめんねと涙声で言われては、拒否することもできない。
「山脇さんに、あなたは私のパートナーと聞いたのですが」
言うと、彼女はくすりと笑った。
「そうね。あくまで仕事上だけだけど。あなたは公私をきっちり分けるタイプだったから」
てっきりプライベートのパートナーだと思い込んでいたから、少し拍子抜けした。しかし、仕事仲間と仕事上のパートナーの間にどれほどの違いがあるのだろう。
「山脇さんは、自分は私の仕事仲間だと言ってました。あなたとはどう違うんでしょうか」
「うーん、彼は仕事仲間というか、同業者よ。これまでは仕事で関わることはそんなになかったけれど、あなたとはプライベートで仲が良かったんだと思う。何しろ、あなたから彼を紹介されたのはつい最近のことだから、よく知らないんだけど」
「プライベートの友だちだったんですか」
むしろ彼の方がプライベートだったのか。ではなぜ、仕事仲間などと言ったんだろう。
「やっぱり、彼のことが気になる?」
「ええ、まあ、私の知る人はいまや山脇さんとあなただけですから」
「森よ。森加奈。以前まであなたは森ちゃんって呼んでいたけど、今は別にどう呼んでもらってもいいわ」
「森ちゃん」
口に出すとやはり知っている名前のような気がした。
「森ちゃん……」
森は小首を傾げて私を見た。ボブカットの髪がそれにあわせて揺れた。なんとなく、見覚えがない。そこにあったのはもっと、長い、髪……。
「……髪を、切った?」
「思い出したの!?」
途端、森は身を乗り出して私の手を握った。ボディタッチが多い人だ。
「……いいえ、そんな気がしただけで。ごめんなさい」
一瞬落胆の表情を見せたものの、森はすぐに笑顔になった。
「謝ることないわ。確かに私、この間まで髪が長かったの。この調子だとぽろっと思い出しちゃいそうねえ」
「……あの、私、どうして病院にいるんでしょうか」
正確には、どうして入院するほどの怪我を負ったのかと聞きたかった。森は私の意図を正しく読み取ってくれたらしく、痛ましげに眉をひそめた。
「……あのね。山脇さんから、仕事から離れたらどうだって言われたでしょ。それは今回のこともあってなのよ。仕事関係でトラブルがあって」
「トラブルですか、どんな?」
「……ストーカー。仕事関係で一方的に知られてた人から、ずっと付け回されててね。それを振り払おうとして、高いところから落ちたの」
言ってすぐに彼女は頭を振る。
「いえ、ひどい怪我ではなかったんだけどね。このところ疲れも溜まってたからそのまま寝込んじゃって、熱もでたのよ。そのせいじゃないかってお医者さまは言っていたわ」
「そのストーカーを近づけさせないために、仕事を休めと?」
「それだけではないけど、一因ではあるわ。それがいいと、スタッフ全員思っている。もちろん、私も」
最後には彼女はまっすぐ私を見つめた。
「誰もあなたを騙そうとか、貶めようと思ってはいない。それだけ信じて」
「そんなこと、思ってないわ」
少しだけ砕けた調子で返すと、森は嬉しそうに笑った。
いくつかの事務的な話をしてから森は帰っていった。金銭的な話や、私の衣服の世話などの私的な話も入ってきたので、仕事のパートナーにさせることではないと思って、私の家族のことを聞いた。
「ああ、あなたの家族は、あまり折り合いが良くないみたいで」
さらりと答えたのは彼女の優しさだったのだろうか。連絡はしてあると言ったが、その後一度も家族の名乗りで見舞いが来ることはなかった。
ストーカーについてももう少し聞いた。最初は仕事場に手紙が送られてきていたが、近頃はプライベートなことまで探られ、家を突き止められたり待ち伏せされて写真を撮られたりしていたという。一つ一つはそこまで深刻ではないかもしれないが、私のストレスは端から見ても溜まっていく一方に見えたと。
鏡を見ると、確かに私の顔はそれなりに整っている。顔がいいといろいろ苦労するものね、と他人事のように思った。一方的に知られていたというから、もしかしたら私の仕事はどこかの受付嬢かなにかだったのだろうか。
数日経ったが、私は病室と検査室の往復しか許されていない。設備や部屋の広さから、そこそこ大きな病院に思えるが、私の病室はなぜか他の病棟と離されているらしく、他の入院患者も見舞客も目にしたことはない。もう歩き回ることができ、目立った外傷もないのに、未だ個室であるし、食事も毎食病室に運ばれてくる。もしかしたら私はそれなりの地位か何かを持っている人間なのではと思い始めた。あるいは私は重度の精神病患者で、他の人間に何か害を及ぼしたとか……。しかし見舞いに来る人びとは心底私を気の毒がっているように見えた。後者だとしたら当然あり得るであろう、腫れ物を触るような態度をとるような人物はいなかった。
そしてどうやら私は仕事人間だったらしい。幾人か見舞いはやってきたが、私には仕事関係の話しかできないと会話に困る人が多くいた。森は毎日訪れて、他の見舞い客のときには必ず同席した。仕事の話をしないように見張っているようだった。
「森ちゃんは、私に仕事のことを思い出させたいの、思い出させたくないの?」
仕事仲間であるなら、戻ってきてほしいと思わないのだろうか。ここまで甲斐甲斐しく世話を焼いて、一体どういうつもりなのか。
「思い出してほしい。本当はね。でも、山脇さんの言うことも一理あると思うし、このまま仕事を辞めてしまっても、しょうがないと思う。ここのところのあなたは、どうしても無理をしているように見えたから」
「山脇さんは、私に仕事を辞めてほしがっているの?」
「あなたが望むならその方がいいと言っているわ。本当のことはわからないし、あなたがそれを聞き入れる必要はないけど」
その通りだ、しかし。
「山脇さんは、私のなんなの」
「聞いてみたら?」