4th Record:together⑨
カエルムとロージナの同盟が決まった会議から数日後。小さな喫茶店で、二人の女性が対峙していた――。
【9th Flight】
からん、とベルが鳴った。喫茶店『翠園亭』の扉を開けて、一人の女性が室内へと入って来る。興味深そうに店内を見回すあたり、初めてここに訪れた客だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥で、制服に身を包んだミテラが客を出迎える。サファイア色の髪を揺らし、穏やかな微笑を浮かべていた。
「ここ、いいかしら?」
「大丈夫ですよ」
他の空いている席に脇目も振らず、客は即座に選んでいた。彼女が腰を下ろしたのは、ミテラの目の前にある席。そこに座った女性が注文を口にする。
「ブレンドをお願いします」
軽やかに声が響く。その音色にミテラは聞き覚えがあった。多少の違いはあれど、長い間共に生活してきた少女と似通っているのだ。
「はい。ブレンドですね」
当然だ、とミテラは胸中で呟く。指摘するまでもなかった。けれども、内心では緊張が顔に出ないかと心配である。
まずは注文に応える事が最優先だ。
手慣れた動作でミテラがコーヒーを淹れ始める。コーヒー豆をがりがりと挽いていると、自分の周辺へと芳ばしい匂いが満ちていった。
「お待たせしました。ブレンドになります」
湯気の立つコーヒーカップを客の前へと置く。並々と注がれた液面には客の顔が映り込んでいた。美しい銀髪の、三十代後半の女性だ。
彼女はミテラが淹れたコーヒーを口元へと近づけ、カップを傾けた。
「美味しいわ」
一口飲んだ彼女が、率直な感想を漏らす。かちゃり、と純白の器がテーブルに置かれる。
「……ありがとうございます」
ミテラは頬を薄く染め、頭を下げた。お世辞だろうと純粋に嬉しかった。同時に、彼女の振る舞いから感じられる気品に恥じらいを覚えた。格の違いを見せつけられた気分になってしまう。
――やっぱり、私なんかの若輩者じゃ……本当の母親には叶わないわ。
悟ったミテラは、改めて目前の女性を眺めた。
銀色の髪に、少し幼げな顔立ち。身体つきも何処か細く、あの少女に似ている事は一目瞭然だった。
「さて。遅くなりましたが、自己紹介をしましょう」
彼女が唐突に提案し、己の胸元に手を当てる。視線をミテラへと固定し、彼女ははっきりと自分の本名を語った。
「私は、フィーゼ・エレフセリア。……リリスの、生みの親です」
「っ」
この出会いは決して偶然ではなかった。数日前、ミテラの元へと連絡が入っていた。近いうちにお会いしたい、と。
ミテラはすぐに了承した。それ故に覚悟も出来ている筈だった。
「わ、私は……ミテラ・ツァールト……です。その、あの……」
舌が上手く回らない。緊張のせいなのか、ミテラの目の前は真っ白に染まっていく。体の内側で伝えたい言葉が、浮かんでは儚く弾けていった。正面のフィーゼには無意味な動揺だけを振りかけてしまう。
「ミテラさん」
「は、はい!」
フィーゼからの呼びかけに、ミテラは姿勢を正した。直立の体制を取って彼女からの言葉を待った。
昔の癖で怒られるとミテラが直感する。自分は娘を奪った悪党だ、という反省が咄嗟に思いついてしまった。普段のミテラからは考えられない消極的な発想である。
そんな心境も知らずに、リリスの実母が言葉を投げかける。
「ありがとう」
予想外の感謝が、硬直したミテラの耳に届く。
「え…………」
ミテラが瞳を大きく開け、フィーゼの顔を確認する。
穏やかな笑みが向いていた。リリスの無邪気な笑顔に似てはいるが、フィーゼはそれよりも大人びて見える。娘の成長した姿と直面している様だった。
「あの子を、立派に育ててくれてありがとう。いくら感謝しても、しきれません。……本当に、ありがとう」
フィーゼはミテラのぶら下がった片手を掴み、懸命に頭を下げていく。ありがとうという言葉が彼女の口から出る度、俯いた涙声が更に潤まった。
彼女の両手が温かい。身体中を縛っていた緊張が、その温度によって溶かされていく。
「頭を上げて下さい、フィーゼさん」
先程よりも滑らかに声が出た。
ミテラは彼女と対等に話し合いたいと考えていた。華奢なフィーゼの肩に片手を添え、面を上げる様に促した。リリスの実母はまだ「ありがとう」と口にしている。負けずと、ミテラは上半身を無理にでも起こしてやる。
「私は貴女にお礼を言われる事は、何もしていません」
こうした面倒がかかる点も、リリスに酷似していた。
おかしさが自然と込み上がる。ミテラの顔にも柔らかな微笑が刻まれ、押し込まれていた感情が晒されていく。義母として、彼女はフィーゼに話しかけた。
「私は」
顔が熱く、視界が揺れる。
「リリスの母親として、正しい事をしてこられたのか……ずっと不安だったです」
カウンター越しに咽び泣くフィーゼに感化されてか、ミテラも涙を流していた。大粒の雫が熱を持って顔をなぞる。
歪んだ視野に映る女性の顔も、涙で濡れていた。きっと自分も同じ様な顔をしているのだろう。そう思うと、この場に居る二人は対等だと納得できた。ミテラもフィーゼも、双眸を細めて泣き腫らしているのだ。実母と義母の間で最たる共通点であった。
「実の子供じゃないから、母親って歳じゃないから……そんな考えがずっと頭の隅から離れなかったんです。愛せるかどうか分からなくて。私なんかが、母親でいいのかって。ずっと、ずっと迷っていましたっ」
震えた声音が大きくなる。ミテラの感情は限界を超え、溢れ出ようとしていた。
「今回だって、あの子を大声で怒鳴ってしまって。…………でも、実の母娘同士で暮らした方が良い! 二桁にも満たない年数の生活で、私に情を残すなんておかしい。だから、私は……ロージナに帰れって……怒って……」
ミテラは残った手で自分の顔を覆った。ぽたぽた、と涙が掌を伝う。ミテラ自身、どうして自分が泣いているのか分かっていなかった。
目を真っ赤にしたフィーゼが、顔を上げてミテラを意外そうに瞠目する。猫の様な大きな瞳が又もやリリスを連想させた。
この時点で落ち着きの度合いは逆転していた。調子を落ち着かせた銀髪の女性が、静かに口を利いた。
「九年前。あの人から、この国を家族一緒に出ようと誘われました。でも、私は身体が弱くて、それに……そんな事は不可能だと思っていました」
フィーゼが語り出した話に、ミテラは黙って耳を傾けた。
「無理だとしか言えなかったんです。…………でも、私はその事を今でも後悔しています。もっと強く引き止めていれば、あんな事故は、起きなかった……」
九年前。ミテラはロージナから脱出した小鳥に追突され、操縦者として致命的な心的外傷後ストレス障害――PTSDを負った。
その小鳥に乗っていたのは、二人の父と娘。リリスとその父親である。
激突事故においてミテラは完全な被害者だった。しかし、彼女にリリス達親子を責める気は毛頭ない。何故なら、向こうでは死者が出ていたのだ。死亡したのは小鳥の操縦者であるリリスの父親。異邦の飛行艇には、娘のリリスだけが残されてしまった。
十歳にも満たない少女に罪は無かった。詰る事に意義はなく、むしろ憐れみも覚えていたのだ。
――もう操縦者として活躍は出来ない。
そう悟ったミテラは、リリスを引き取って育てるという選択肢を選んだ。
「本来なら私とリリスは貴女に恨まれても仕方がなかった。それなのに、貴女はリリスを立派に育ててくれた。……これを感謝せずには、いられませんっ」
「フィーゼ、さん……」
「貴女は、私とあの人を……リリスを憎んではいないのですか? 今でもそうだと言うなら、私は相応の罰を受けるつもりです」
決意を持った目にミテラの顔が映り込む。
自分でも酷い顔だった。涙は止まっていたが、色々とぐちゃぐちゃになっている。気品と覚悟を背負った貴婦人に見られるには余りにも恥ずかしい。
失礼、と断ってからミテラはハンカチを取り出して顔を拭いた。フィーゼも気を使ってくれ、握っていた手を離してくれた。そこにはまだ人肌の温かさが残っている。温かく、心を安らげてくれる温度。これが母親の手なのだ、とミテラは自覚した。
「フィーゼさん」
――当分は、追いつけないなぁ。
苦笑が内心で零れた。だが、それは諦めではない。
「私は貴女方を恨んでなんかいません。……いえ、私の方こそ感謝しているんです」
「え?」
意外そうにミテラを見つめ返すフィーゼ。
結局、どちらとも負い目を感じていたのだ。ミテラは母親としての不甲斐なさを、フィーゼは家族が引き起こした事故を、互いに謝らなければいけないと思っていた。
その二つを済ませると、心境が簡単に整頓されていった。ミテラを戒めていた長年の苦痛は既に消え去っている。義母や実母という名目に囚われていたこれまでの自分が、途轍もなく愚かに思えて来た。
ミテラは真っ直ぐにフィーゼを捉え、思いを伝えた。
「リリスに出会えて、私は幸せです。だって、あんなに可愛い子の母親になれたんです。私が生んだわけではないけれど……一緒に生活してきて、とても、幸せでした」
それに、とミテラは続ける。
「私はあの子を近くで見守り続けたい。母親として、先輩の操縦者として。ずっと、これからも……」
フィーゼの娘がいつから小鳥に憧れだしたのか、ミテラは細かくは覚えていない。けれども、とある思い出が自然と蘇って来る。
学生時代に見つけた秘密の抜け道。
そこから覗ける一面の蒼天。
膝元に幼い少女を載せ、境界のない空を指さし、ミテラはかつての夢を語り聞かせた。
その時に見た表情が、ミテラの失意を打ち消してくれた。憧れに目を輝かせ、果てのない自由を求めて手を伸ばす、リリスの顔が。
「私の夢を引き継いだわけじゃない。だけど、あの子は純粋に夢を掲げて、周囲の人に希望を与えてくれます。そんなリリスが我が子なんて、凄く誇らしいじゃないですか」
ミテラはフィーゼから視線を外し、喫茶店の窓へと焦点を当てた。いつもと変わらない蒼天が延々と広がっている。
かつてリリスと共に見た蒼さは、少しも色褪せていなかった。
「だから、お願いがあるんです」
目線を戻したミテラが、力強い声で言った。
次に細やかなフィーゼの手を握り締める。自分の思いが伝わる様にと、両手で優しく包み込んだ。
不安によって心臓が大きく揺れる。受け入れてもらえる、という自信が有りつつも、胸の鼓動は簡単には鳴りやまなかった。息を吸って吐いても落ち着かない。なので、言ってしまえと自分の背を押した。
そして、ミテラは問う。
「私が……これからもリリスの母親でいて、いいですか?」
返答にかかった時間は一瞬だった。フィーゼの柔らかな語調によって、ミテラは彼女の秘める胸の内を知る。
「はい。勿論です」
フィーゼがミテラの掌をしっかりと握り返した。互いに手を繋ぐ彼女等の姿は、まるで古くからの親友を連想させた。
――ロージナとカエルムの同盟が結ばれてから一週間。
友好の証として、双方から交換留学生を出す事が決定していた。数名の生徒を送り合い、互いの文化を浸透させていく目的だ。だが、初めての同盟だった為、ロージナ側では留学生の交換が滞っていた。未知の飛行艇を前に名乗りを上げる生徒がいなかったのだ。
そんな中、一人の少女が率先してカエルムへの留学を決意した。
ロージナとカエルム、両方の総艇長はその少女の立候補に賛同している。彼女がカエルムへと渡る事で、様々な準備が省略出来たからだ。
カエルムへと来る留学生の名は、リリス・エレフセリア。
世話になる寄宿先も即座に決まった。長い月日を過ごしていた事もあり、自然な対応としてロージナの過半数が認めている。
正々堂々と胸を張って、リリスはカエルムへ戻る事を許された。
殆どエピローグです。蒼天のAIRLINE、次回で完結する予定です。色々と伏線は残っていますが、来週でこのお話は終わらせようと思います。次回も来週の午前零時の前後に更新しようと考えています。




