3rd Record:Lusifer⑤
ついにAIRLINE3rdが完結しました。こういった人間ドラマが私の好む作風でもあります。カインド視点から5thFlightが再開されます。どうぞ、お楽しみください。
カインドはリリスが去った後も呆然としていた。リリスに叩かれた胸がもやもやと淀んでいる。か弱すぎる力だったので痛くはない。
しかし、もっと強く拒絶して欲しかった。自分が地面に転倒する程の勢いであれば、激痛で心が一杯になっただろう。中途半端な気味悪さが渦巻くよりは数倍はましだった。
「リリスちゃん…………」
わざと傷つけた少女の名を口にする。
次いで、カインドは自分に彼女を労わる資格がないことに気づく。原因が己にあることを十二分に知っていたからだ。
急に、がさり、と音がした。
「っ?」
リリスが戻ってきたのか、と一瞬カインドは音源へ視線を向けた。
公園入口の付近にある茂み。そこと自然に焦点が合う。名前も知らない植物は異様にも全体が蠢いている。
「…………?」
カインドは正体を探る為に一歩だけ前へ踏み込んだ。
「――こんの、馬鹿兄貴がああぁぁあああ!!」
目にも鮮やかな赤が飛び込む。
同時に、鼓膜全体を大音量の怒号が震わせた。
がっ!
左頬に無骨な形をした物体が接触する。刹那の後。接点を基準とした顔全体へと力が伝道していた。痛覚は意外と麻痺しており、鋭い感触だけが殴打点を占領している。
自分が誰かに殴られた。その事実をカインドは数秒間突き止められない程に吹き飛んでしまった。
思惑とは裏腹に、自分の巨体は地面に向かって転倒していった。背中から落ちたことで、カインドは息を苦しく詰まらせる。短時間の呼吸困難を際に激痛が左頬に帰ってきた。
「ぐっ!」
口中に鉄の味が広がった。厳つい拳が当たったことで何処かが切れたらしい。
冷たい地面にカインドが仰向けになった。
すぐさま自分の上に誰かが馬乗りする。赤い短髪が特徴的な小柄の少女だ。自分を殴り倒したのがこの人物だと直感が教えてくる。
衝撃で一時ぼやけた焦点が彼女を捉えた。
「何考えてんだ……兄貴!」
茂みに潜伏していたらしい少女は、カインドとリリスの一部始終を目撃していたようだった。憤怒のあまりに自分へと飛び掛かってきたのだろう。
滑った舌触りが残るカインドの口がある名前を呼んだ。
「……いつから隠れていたんだ……ミエン…………?」
自分に跨っていたのは妹であるミエン・エグニームだった。
「今訊いてんのはアタシだっ!」
妹の拳が更に降りかかる。ごっ、という鈍い音と一緒に右頬が大きく揺れた。
「ちょ! やめなさいって、ミエン!!」
カインドの腹部に座り込んだ彼女が引き離される。ミエンの背後からは二つの腕が回り込んでおり、もう一人茂みに隠れていたことが明白となった。
「離せよ、アネット!」
粗方予想通りの名前が妹から飛び出ていた。楽になった上半身を起こし、カインドがミエンともう一人の少女に顔を合わせる。
尚も殴ろうとするミエンを背後から抑え込んでいる少女が見えた。彼女は自分も知っている人物である。緑色の髪に生真面目な雰囲気を添える眼鏡。ミエンとリリスがいるクラスの委員長、アネット・レンヴェルフだ。
「いいから! ちょっと落ち着きなさいよ……!」
加速狂と同時に馬鹿力を誇るミエンをアネットが懸命に抑え込んでいた。彼女の両腕による拘束が外れれば、今すぐにでも妹は自分に襲い掛かるだろう。それも遠くはない出来事だとカインドは考えた。
予想は良い方向へと裏切られ、少しだけ熱が引いた口調がカインドを問い質した。
「……兄貴。何で、あんなことをリリスに言ったんだよ?」
時折荒い吐息がミエンの鼻口から漏れている。妹の腹部ではアネットの腕で出来た輪がきつそうに閉まっていた。怒りと窮屈さの両方が激しい呼吸として表れている。
「仕方……なかったんだ」
思いを言葉にする度、頬に激痛が伴われた。
最初に殴られた箇所をカインドが右掌で抑える。すると、触れた部分に随分な熱と膨張が発生していることに気づかされた。鏡を覗けば酷い顔立ちの自分が迎えてくれそうだ。
「何がだよ……? ああやってアイツを傷つけなきゃならない理由って何なんだよ!?」
「ミエン……!」
アネットが同級生の暴言を窘める。妹を後ろから封じ込める彼女もリリスとは仲が良かったはずだ。その上でカインドの肩を持つことは少し不思議だった。事実から言えば、自分はリリスを完膚なきまで叩きつけたのだ。
「分からないの……!? ああでも言わなければ、リリスちゃんはカエルムに残る可能性が高くなっていたのよ!」
「それでいいじゃねえか!」
「駄目なのよっ!」
最早懇願に近い説得が公園中に鳴り響いた。
どうやらアネットは自分の胸中を見透かしているらしい。カインドは二人の仲まで引き裂かないよう、黙秘の義務を妹になら許すことにした。
「ミエン……それで辛い思いをするのは、リリスちゃん自身なんだぞ」
自由にならない唇でどうにか発音する。
「なに?」
真っ赤に染まっていたミエンの顔が変化した。当惑の様子が立腹と半々に混ざっているようだ。妹は自分の知る中で最も正義感溢れる性格である。友人を理不尽に扱った人物へ敵意を向けるのは自然な選択だ。
それ故に、リリスを傷つけることが本人の為になると言う事実が受け入れがたいのだろう。兄であろうと即座に敵対する直情さをカインドは羨ましがった。
…………僕も、もうちょっと素直になれれば。……彼女を、無意味に傷つけなくて良かったのかもしれない。
瞳を細め、己に嫌悪する。全てが自分のせいだと喚く後輩の姿がありありと浮き彫りになった。
「彼女は、ロージナに戻らなきゃいけない。そして、自分の母親と一緒に暮らすべきなんだ」
「だからって――」
「っ……!」
頭の奥に針が刺さったかのような刺激が生まれた。深い記憶の底からある思い出が泡となって海面へと浮遊してくる。些細な泡沫はやがて視野全体と混じり合った。
勇敢に抗議する妹に幼い頃の容姿が重なった。
「最初に……お前が僕に言ったじゃないか……」
カインドは思わず信念の発端を晒していた。皮肉にも、自分の意見はミエンへと最終的に収束していくのだ。その本人が心境を汲み取れないことが少なからず悔しかった。
口惜しさに堪え切れず、瞳が大きく開かれる。
「お前が、お母さんに会いたいって言ったんじゃないのかよ!?」
ミエンが唖然とする。
「…………な」
「僕は今でも覚えてるよ。母さんの葬式の時、……僕に向かって『お母さんに会いたい』って何度も言ったよなぁ!」
古い記憶。
妹と自分は実際に血が繋がっていない。母親を含めたミエンの家族は既に亡くなっているのだ。カインドの母親はそんなミエンの家族と交流があり、一人になってしまう彼女を見かねてエグニーム家に引き取った。
当時のミエンは今とは別人と称せる位に大人しかった。行き成り変わってしまった家族に戸惑っていたようで、カインドの母親にしか懐いていなかったのだ。
「あの葬式の日……。お前は、ずっと泣いていた」
信頼のおける母親がいなくなった。エグニーム家の一員に成りきれていなかったミエンはさぞ心苦しかったことだろう。直に泣き顔を目にしたカインドは断言できる。
ついには、殆ど交流がなかった自分にさえ問いかけてきたのだ。
『……お母さんに、会いたいよ。…………お母さんはどこに行っちゃったの?』
僕はミエンの兄なんだ。
『お母さんに……会いたい……よぉ』
亡くなってしまったお母さんに代わって、僕が守らなきゃいけないんだ。
『大丈夫……だから』
本当は自分も泣きたかった。けれども、弱々しく泣き縋る妹を前にして醜態を晒すわけにはいかない。ここで必要なのは、ミエンを支える絶対の言葉なのだ。
悲しみを打ち消すように灯った熱が、カインドの思いとなって響く。
『僕が、君を守るから』
カインドはその日からミエン・エグニームの兄となったのだ。出来うる限りの支援を行い、果てには妹を最速の操縦者と呼べる所まで押し上げた。
自分はこれからも妹を支え続けるはずだ。『母親に会いたい』という、根本から始まった姿勢は一生変えるつもりがない。
――だからこそ、カインドはリリスをカエルムという居場所から押し出した。
「会えるんだったら、会わせなきゃいけないんだよ」
声の調子が一段と上がる。カインド自身もやり場のない憤慨が身体へと駆け巡るのを感じた。
閉じ込めていた願いの箱は開けられる時が来たのだ。
「僕だって母さんに会えるんだったら会いたいさ! でも、もう死んでしまったんだぞ!? 子供だって二度と会えないことは解る!」
抗えない現実が立ち塞がっていることをカインドは改めて認識した。ミエンに見せた姿は単なる痩せ我慢だったのだ。
「けど、リリスちゃんは違う。……会おうと思えば、会えるんだよ」
自分の指摘は飛行艇ロージナの方角へと直進する。鎖国体制と云えども、リリスの母親が確かに存在するのだ。存命しているならばリリスは再会すべきである。
「それを……僕なんかが邪魔しちゃいけないんだ。……いや、出来るはずがない」
ずっと自責の念に駆られ過ぎたのかもしれない。胸の奥に詰め込んだ母親との決別は今日で爆発してしまったのだ。どちらの飛行艇がリリスにとって利益があるかなど関係はなかった。
死別という違いはあれど、リリスの現状はかつてのエグニーム兄妹に酷似している。
「だからロージナに帰れって言ったのか? アタシ等がおふ……お母さんに会えなくなる辛さを経験したからか?」
降りかかってくる妹の声がやけに遠かった。
音もなく、カインドは首を縦に振る。溜まっていた鬱憤を吐き出し、瞼を落として脱力にふけた。体の軸が喪失した気分だった。
思考力が限りなく皆無に近づいた。虚無に飲み込まれる感覚。カインドは己が単なる自己満足で支えられていたことを自覚する。自身を覆いこむ無気力感はその反動なのだろう。
犠牲ではなく、満足だ。
……そっか。偉そうなことを言いながら、全部が僕自身の為だったのか。
「でも、リリスちゃんはミエンじゃありませんよ」
全身が一気に締め付けられた。
「え」
視界に公園の景色が戻る。驚きで自分の両目は開け放たれていた。
「リリスちゃんは、リリスちゃんでしかありません。それを一番知っているのは、……カインドさん。貴方自身じゃないんですか?」
――何を、言っているのだろうか。
いつの間にかミエンから両腕を外していたアネットの言葉にカインドが困惑する。
「悪いんですが……私はカインドさんの心中を察せても、協力は出来ないです」
妹の背中から進み出る少女は哀とも楽とも呼べない表情だった。
「ミエンやカインドさんの事情に余所者の私が口出しをするつもりはありません。ただ、これだけは言わせて欲しいです」
アネットが左の拳を自分の胸元へと押し付ける。その上に、右の掌も重なった。
丸い眼鏡の奥で力強い視線が瞬く。
きつく締められていた口元が素早く動いた。
「彼女だって弱いんですよ」
「っ!」
カインドの顔が歪む。
「どちらも大切だからこそ、選べないんでしょ? カエルムに残ることだって望んでいたはずなんですよ! ……それなのに、そんな場所から自分がいなくなった方がいいなんて言われたら」
リリスにとって操縦者としての生活は満足いくものだったのだろうか。先輩として過ごした数か月間。カインドはリリスの笑顔を多く見つめてきた。それが偽りだったとは思い難い。言い換えれば、思い出に縛られているとも断言できる。
だが、彼女は自分の言葉で泣いていた。それもまた動かしがたい事実だ。
長い合間を取って、アネットは切り出した。
「誰だって辛いですよ。あのリリスちゃんだって、辛かったはずです」
活発そうな顔立ちに純粋さが宿った双眸。
自分はリリスがカエルムだろうが何処だろうが自由奔放に飛んでいけると信じていた。伝説の大天使階級ならば場所など関係ない。心に潜む空への憧れが彼女を突き動かしていたはずだった。
――ここから消えるのは、単なる大天使階級じゃない。リリス・エレフセリアだろうが!!
「あ……」
先程までのリリスとのやり取りで応じられなかったことを思い返す。自分の愚鈍さが情けなく、カインドは歯を強く軋めた。
「ねえ、カインドさん。貴方はリリスちゃんとこれから先も一緒にいたくはないんですか?」
「…………君は、どうなんだい?」
「もちろん、一緒に居たいですよ。けど、結論はリリスちゃんにしか決められません」
そして困ったようにアネットは眉をしかめた。
「下手をしたら、カインドさんと同じようなことを言ったかもしれません。母親に会いたいって面と向かって相談されたら……どうしようもないですし」
でも、と追伸を加えてから後ろを振り向く。
「本当にいけなかったことがあります。ミエン、貴女なら解るわよね」
唐突に話題を振られたミエンが焦ったようにぼやいた。
「ア、アタシかよ? ん……」
赤い髪が栄える後頭部を指でぼりぼりと掻く。ミエンはカインドの話を耳にし、大分頭を冷やしたようだった。
やがて正面を兄である自分へ向け直す。敵意が抜けた表情はむしろ冷め過ぎているくらいだとカインドは感じた。
「その……そんな前のことを気にしていたはアタシも思わなかったんだよ」
罰が悪そうな顔だった。
「でも、殴ったことは謝らない」
ぐっ、と自分を殴りつけた小さな拳が強く握られた。ミエンはその拳骨を正面へと突き出し、良く通る声で断言する。
「アタシは兄貴がやったことは間違いだと思う」
「何故……」
妹だけは周囲と比較にはならない熱を放っていた。か弱い少女の涙が流れた公園でさえ、彼女は誇り高き聖地へと変えてしまうのだ。
カインドの口から真っ赤な血が零れる。生暖かい感触が肌をなぞっていった。
「分かんねえのかよ、兄貴」
顎に手の甲を押し付ける。流血を拭き取った手が紅色に染まった。
自分は考え得る限り最善の説得を行ったはずだ。リリスを傷つけるという結果自体は褒められたものではない。しかし、その行動に至るまでの理由は話したつもりだった。
「アタシは、リリスを傷つけたことを怒ってんじゃねえよ」
ミエンの力強い双眼が自分を睨み付けた。
「そのやり口……方法? とにかく、兄貴が言ったことにムカついてんだ!」
結論を張り上げ、妹は貧弱な語彙で理由を押し出した。
「ミエン……もうちょっと正確に言いなさいよ」
「う、うるせえっ。どう言えばいいか分かんねえんだよ」
博識そうな委員長によってミエンは発言の腰を折ってしまう。察するところ、妹は説得に用いた発言のどれかが気に入らなかったらしい。
「何処が、悪かったんだよ」
思わず煽るような口調になってしまった。カインドは血液と共に溢れ出した疑問の行く末を心配しつつも見守ろうとする。
「兄貴さあ、どうして自分が考えていることを言わなかったんだよ?」
「……母さんのことを言ってどうするんだ。そんなことをしたって、リリスちゃんに余計な同情をさせるだけだろう……」
自分はこんな経験をした。だから、お前はこうしなければならない。
……筋が通っていない。その論法はあまりにも破綻している。相手の事情を一切無視した極論じゃないか。……もし、本当に話していたら、今より酷くなっていやしないか?
素早く組み立てた予想を再生し、カインドは余計に戦慄した。ミエンが述べたい理想とはそこまで傲慢なのか、と疑う程だ。
「だからって、人の大切なモン利用していいのかよ?」
聞き捨てならない言葉だった。
「空は無限に繋がってる……だっけか。兄貴がリリスに言ったのは」
正しくリリスの説得に用いた言葉だ。カインドにとっては彼女の辛さを和らげる最高級の薬だと思えていた。哀の感情を最終的に引き出したとしても、この事実をリリスの指針にして欲しかったのだ。
高熱と低温。触れれば火傷を負いそうな声が、ミエンの喉奥で震える。
「それ、言い訳だろうが」
「な――」
擦り付けられた反感にカインドは歯を剥き出しにした。
「何でだよ! 僕がいつ言い訳をしたって言うんだ!? ただ心からリリスちゃんの為に…………っ」
「結局は自分の為じゃねえかっ!」
妹はより大きな叫びで一蹴した。ミエンが人差し指を自分に突き付ける。
「アイツが本当に聞きたかったのは兄貴の本音じゃねえのかよっ!? 何で回りくどく追い詰めてんだっ」
迫力に身を任せ、ミエンは前かがみになる。対してカインドは下半身を引きずって小さく後退した。
「兄貴の言葉は間違っちゃいねえ。……けど、そうやってケジメをつけんのはアイツ自身だ!! アタシ達が……リリス以外が! 言っていい言葉じゃないっ!」
そして、ミエンは真っ直ぐ自分の間違いを口にした。
「アイツの好きな空を言い訳に使ってんじゃねえよっ!!」
「……っ!!」
体が強く硬直した。声も詰まっていた。
「ぅ……ぁ……」
返せる物は何もなく、がっくりと自分の頭が項垂れる。
カインドはリリスに後悔をして欲しくなかった。それ故に彼女が進みやすいように理由をつけて誘導したのだ。
結果は裏目に出る、と今更の不安が込み上げてきた。対象はまだ十六歳の少女なのだ。彼女が心を揺らさずに決別できるはずもない。ましてや自分はリリスの信念を揺さぶって退路を消してしまった。
「僕は……」
血で濡れていない手で地面を掴む。指先に力が滞り、掘られた土が纏わりついてきた。
「僕は――!」
カインドは苦渋の表情を浮かべ、強く瞳を閉ざす。
光が絶たれ、人と風の音が途切れた。
――その先に何と呟いたかは、自分の耳には入らなかった。
飛行艇全体を揺らす、猛々しい音。
空間さえ震えるような警報が鳴り響いていたのだ。公園に居た誰もが数秒間は唖然としていた。全身を飲み込む音の振動で身動きが取れなくなっていたのだ。
時間が経過するにつれ、莫大な音量は弱まっていく。
「グ、重力の嵐!?」
最初にアネットが金切り声を上げた。悲鳴めいた彼女の反応に釣られ、ミエンも驚愕の顔を露わにする。
「何でだよ……! この二週間で四回目だぞっ!?」
二人が驚く理由はカインドにも分かっていた。
ここ最近、黒雲の動きが三世代にわたる予想観測から大きく外れているのだ。カエルムでは平均一か月に四回程度である。ミエンが口にした頻度は他の飛行艇と比べてもかなり異常だと言える。
「……リリスちゃんっ」
走り去った後輩が急に心配になった。彼女は不安定な精神状態にある。自分が貶めた一因でもあるので、姿を探さずにはいられなかった。
当然、大天使階級の少女は戻ってきてなどいない。
「兄貴」
ミエンの一言が自分を正気に戻す。
「行くぞ。……アイツも、この警報を聞いたなら、きっと学園に戻っているはずだ」
「…………ああ」
嫌な予感を募らせつつ、カインドは立ち上がった。
【6th Flight】
ネア・セリニ学園――作戦室。百人以上も入ったこの広い一室に、リリス・エレフセリアの姿はあった。
立体映像などを駆使した説明の為、作戦室の照明は限りなく暗くしてある。だが、リリスは顔を合わせたくない人物を一瞬で見つけてしまった。
「…………」
自分が並んだ列の向こうにカインドの顔があったのだ。咄嗟に目を逸らそうとしたが、彼の顔が赤く腫れていることに気づく。リリスはあの後に何があったのかと考え、視線を動かすことを忘れてしまった。
「っ!」
カインドの眼が自分の方を向いた。
……う……!!
リリスは距離を置かれたという事実を受け止めきれず、すかさずカインドを視野から外した。
今だけは誰とも関わりたくなかった。大人数の存在から逃げるように、リリスの首が下方へと曲がる。だが、耳だけは作戦の内容をがっちりと掴んでいた。これから出撃する操縦者としての最低限の義務は果たさねばならなかった。
作戦の指揮はボーデン総艇長が直々に取っていた。大柄な体躯からは想像も出来ない繊細な指示が飛び交っている。二つの長を背負う有能な彼が全面に出ているのだ。今回はかなりの大規模だと全生徒が固唾を呑んだ。
「現在、カエルムに接近していた飛行艇が黒雲に飲み込まれつつある」
ボーデンの一言に特定の生徒を除いた操縦者が騒めきあった。
「もちろん、その飛行艇も予想観測から導いた安全な道筋を取っていた。……だが、不遇にも突然発生した重力の嵐に遭遇したのだ」
総艇長の説明は重たい緊張に染まっていた。想定外に発生した大規模災害。つまりは訓練通りの飛行でも負傷、もしくは墜落の危険があるということだ。
「各自、油断をするな。我々がしくじれば、飛行艇一つ分の人数が丸ごといなくなるのだ。――それを覚悟した上で、全員無事に帰ってこい!」
野太い叱責が飛び立つ天使の背中を押す。リリスの周囲では一斉に生徒たちの返事が響き渡った。
「……」
尊厳溢れた応答の中、沈黙という孤独がリリスだけを包んだ。
この出動でどれくらいの時間が奪われるのだろうか。不謹慎と思いつつ、リリスは自身に残された猶予を考えていた。期限は残り一日だけなのだ。小鳥に乗り込んだ分、別れを口にすることは出来なくなってしまう。
……人の、命が、かかっているんです。今は、集中しないと。
頭を振り、頭に湧き出る雑念を払い出した。
そんな迷想の最中にも作戦会議は進む。被害にあった飛行艇の小鳥がどんなふうに飛行しているか、という段階だ。
元々は救助要請を受けて、カエルム側の操縦者が出撃するらしい。
「……っ!」
情報がいきなり不吉な事実へと構築されていく。自分が知り得た事はあまりにも悲惨な状況だったのだ。
何故、その飛行艇はカエルムに接近しているのか。
何故、ボーデン総艇長が救助を求められたという話を直接切り出したのか。
「ま……さ……か」
リリスは自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
その飛行艇は、一体どんな名前なのか。
最悪の予想が裏付けられたのは、数秒後だった。
「飛行艇の名はロージナ、だ」
無骨と実直の混じった顔立ちでボーデンが告げる。
そこはリリスの実母が住んでいる飛行艇でもあった。自分を苦しめるきっかけとなった場所。今からそんな飛行艇を救助に行かなければならないのだ。娘としても、大天使階級としてももう逃げられない。
――リリスの心は、氷のように温度を失くしていった。
【3rdRecord Fin――To be continued】
……と、いうわけで4th Recordに続きます。面白いと感じたら、ぜひ感想やら評価をつけて欲しいです! 4thもなるべく早く投稿できるよう、頑張ります。ですが、次は恐らくE・Dの投稿になると思われます。こちらのシリーズもよろしくお願いします。




