1st Record
年齢にそぐわないほど小さな女の子が主人公です。初投稿故、未熟な点が多数あります。昔書いていた小説のリメイクなので、描写・説明が不十分かもしれないです。ちょっと注意してください。
【Prologue】
蒼天の下、風が強く吹き付けていた。
蒼い平行線に小さな影が立ち上がる。
影の正体は後ろ髪をお下げ状にまとめた少女だ。とても幼げな顔つきで真っ青な空を眺めている。
雲のように輝く銀色の髪が風に靡いた。
少女はそれを気にする様子もなく、弾んだ口調で呟いた。
「今日も空が蒼いです」
真上に浮かぶ空は無言で有り続ける。
三十年前、人々はある災害をきっかけに住処を地表からその上空へと変えた。それ以来、彼らは毎日同じ景色を見ることとなる。純粋な青。雲も太陽もなく、夜も来ない空。
それが、少女の暮らす世界だった。
【1st Flight】
オイルの匂いに塗れた広い格納庫の中。その少女は無骨なスパナを握り締めながら、巨大な機械の前に座り込んでいた。
小さな体躯とは相反する格好が異様に目立つ。少女が着ていたのは男物の作業服だった。当然のように、肘には幾重もの皺が出来ていた。
「ふう……」
少女が額に浮いた汗を大きすぎる軍手で拭う。肌に張り付いた髪は銀色の光を反射していた。
一息つく為、少女は立ち上がる。しかし、直立した全長も虚しいほど低かった。幼い顔つきからして、現場とは不釣合いな年齢に見える。
少女に向かって華やかな言葉がかけられる。
「リリスちゃーん。そろそろ上がっていいわよー」
名前を呼ばれた幼い少女は声の方角を振り返る。広く暗い格納庫の中、声の主を探すことは難しいが、リリスは難なく返事を返した。
「分かりましたー」
この現場におけるリリスの役割は細かい機械整備だ。大人だらけの作業場で、少女の博識と器用さは周囲に一目置かれている。
リリスが整備された機械を見上げた。梟を髣髴させる流線型の機体。黒寄りのカラーリングから巨体なりの威圧感を伺える。
「……小鳥の整備完了です!」
誰に言われるまでもなく、リリスは真面目な口調で呟いた。
『小鳥』と呼ばれた機体。それこそが、空に住む住人達が新たに開発した次世代小型航空機だった。
最新鋭の技術を搭載し、飛行に必須な翼を自分で生やす。つまり、搭乗者は小鳥を通じて、天使のように自らの翼で羽ばたけるのだ。
これらの機体を開発するに至った経緯は、三十年前に世界に起こった大災害に一因がある。
「もう三十年も経つのですね。あの大災害、『超重力爆発』から…………」
リリスが感慨深そうに漏らした。
手に持つスパナを大事そうに抱えて、格納庫内のある一室へと少女は向かう。そこは一際重い扉で隔てられていた。脇に設置されたボタンで開けると、冷たい空気が全身へとかかってくる。
倉庫及び古い小鳥の収納庫だ。
「えっと……、ここですね」
周囲を見回して発見した横長い机。リリスはその上の道具箱にスパナを丁重に仕舞い込む。
壁際に置かれた作業机の真上には、無造作に貼られた用紙の数々があった。中には青一面に染まった写真もある。
「空の資料ですね。……三十年前より、空には雲と太陽の姿は一切見当たらなくなった……ですか」
添えられた解釈を読み上げ、リリスは興味深く息を吐いた。
――三十年前の『超重力爆発』。原因不明の災害は史上最大の被害をもたらした。『黒雲』という重力を発生する雲が空を覆いつくしたのだ。
結果、人々は地上から抜け出すことを余儀なくされた。急造の巨大な都市型飛行艇に乗り込み、黒雲の向こう、遥か空へと飛び立った。
「けど……」
リリスが乗り込む飛行艇、『カエルム』。この飛行艇は空の彼方で虚無の蒼を目撃することになる。太陽も、月も、雲も消えた空。
そして、未だ逃れられない黒雲の恐怖。
「それで開発されたのが、貴方達なのですね」
リリスは室内の奥へと話しかけた。常闇へと続くような向こう側に、頼りない照明が不規則に点灯しているのが見える。微かな明かりによって暗闇に浮かぶ輪郭があった。
鳥のような形状をした航空機、『小鳥』だ。
「ふわ~」
歓喜の声をあげてリリスはそれらに近づく。
ただし、そこにあった機体はどれも朽ち果てていた。奥にあるのは、廃棄処分が決定した小鳥だったのだ。その為、起動することは殆どない。
「貴方に会いたかったです!」
廃棄される機体の一つ。真っ先に向かう先に、その小鳥はあった。
灰色のカラーリング。烏のような形状。廃棄を示す札が貼られていない、新品同様輝く質感。
「どう見ても動くようにしか見えませんね。私の人生の中で、一番の大発見です!」
リリスは灰色の装甲に手を触れた。長く置き去りにされていたらしく、冷たい温度が伝わってくる。
「乗ってみたいです……。でも」
落胆したように頭を下げる。彼女は『小鳥』に乗るための条件が満たされていなかった。
――天使階級。
小鳥という特殊な機体を乗りこなすのに必要な階級だ。セフィロトに描かれた天使の名称を元に決められている。この階級は生まれた時に有無が判明するものだった。
「それがどうして私にないんですかー!?」
少女の絶叫が室内に響く。言葉通り、リリスには天使階級が認められなかった。それでも諦めきれず、情熱をばねに彼女は整備学校に入学を果たす。
そして入学から三ヶ月。小鳥に対する情熱は衰えることなく、更なる増幅を見せていた。
「うう~。この小鳥に乗れたら、なんて素敵なんでしょうか……」
想像を楽しむリリスの顔はだらしなかった。表情は緩みまくり、口元からは涎が垂れかけている。
それ故、すぐ傍で立つ人影に気づくことは一切なかった。
「涎、垂れてるよ」
横から差し出されたハンカチに、リリスは何の違和感も持たず受け取った。それどころか、優しげな声の主へ感謝を返す。
「ありがとうございます」
ハンカチで涎を拭う。直後に、リリスが高速で真横を振り向いた。
「――――だ、誰ですか!? いつの間に!」
「……今気づいたの? 結構前からいたんだけど」
リリスの横に立っていたのは長身な青年だった。黄金色の髪に穏やかな顔つきが何処か大人びている。しかし、格好は生徒用の制服であった。これでもリリスと同じ学生らしい。
「こんにちは」
青年は屈託なく笑った。唐突な挨拶に、少女もぎこちなく返事を返す。
「ど、……どうも」
「お父さんの手伝い? 凄いね」
「………………はい?」
リリスは思わず首を傾げた。自分に向けて言われた言葉に、理解が及ばなかったらしい。
彼はリリスに逢わせて膝を屈み始めた。降りてきた視線が少女と交錯する。青年の双眸に映っていたのは、間違えようもない、子供への丁寧さだった。
「その年で本当に凄いな。偉い偉い」
驚きを含めた声を上げながら、青年は手を伸ばした。目的地は少女の頭。今までの言動から、次の動作は感嘆に予測できた。
頭を撫でるつもりだ。
子ども扱いされた。その事実にリリスは屈辱で頬を赤くする。伸びてきた手を目掛け、頭突きをかましながら叫んだ。
「私は子供じゃないです! 十六歳です!」
「えっ……!?」
衝撃が走った手を引き戻して、金髪の青年は絶句した。
青年は膝を伸ばしつつ、リリスをまじまじと見つめた。立ち上がった青年とリリスの高低は凄まじい。思わず、掌で背の高さを確かめてしまうほどだった。青年は律儀にそれを実行する。
「先程から何なんですか! 私を子ども扱いしないで下さい!」
「いやあ……。どう見ても子供ぐらいにしか思えないよ。……ああ、ごめん、ごめん。背伸びをしなくてもいいから」
「きちんとした十六歳です! 大人です! カレーだって中辛です!」
精一杯背を伸ばし、リリスは子供らしく癇癪を上げていた。そんな少女の様子を眺め、言いにくそうに青年が呟く。
「僕の十六歳の妹は、辛口飛び越えて“激辛”を食べてるけどね」
「あうっ」
思わぬ反撃にリリスがショックを受けた。
ついにリリスはいじけ始めた。古い小鳥の近くでしゃがみこみ、俯きながら愚痴を零してゆく。
「どうせ、私は小さいですよ。小鳥乗りとして学院にも入れませんでしたよ。……小さいのがそんなに悪いですか!」
間髪いれず、青年が口を挟む。
「えーと、もしかして十六歳に見えなくて学院に入れなかった?」
「そんなことある訳ないじゃないですか!? その学校は酷すぎますよ!」
「違うの?」
意外そうに青年は眉を上げる。
戸籍上では十六歳なので、その通りの事例があるとは考えにくかった。リリスが小鳥乗りに成れなかった理由は一つだけだ。
「……私には天使階級がなかった……からです」
そう呟いて、リリスは押し黙った。青年も同様に無言になってしまう。
しばらくの間、少女の愚痴だけが響いた。
「よし」
気まずい空気が流れていた間に、青年が突然手を差し伸べる。
掌を上に向けて伸びる腕に、少女は振り返って皮肉な声を投げかけた。
「また子供扱いですか」
「いや、違うよ。君の夢を叶えてあげようと思ってね。……お詫びって奴だよ」
「…………どういう意味ですか?」
青年は意味のありそうな含み笑いを見せる。リリスはそれに警戒を持って答えていた。
そうして彼が滑らかに言葉を並べた。
「一緒に小鳥で飛んでみない?」
リリスが呆然とした表情を浮かべた。
だが、青年は気にせずに右手を差し出す。
「……カインド。僕はカインド・フォン・エグニームだ。君の名は?」
「私は…………」
二人しかいない格納庫に、少女の声が響き渡る。その発生源では、二つの手がしっかりと重なっていた。
「リリス・エレフセリアです」
【2nd Flight】
暗闇に一筋の光が灯る。次いで、前方に文字と数値の羅列が並び始めた。羅列が前方を埋め尽くすと、今度は周囲に光が広まっていった。
その光景を二人分の吐息が向かえる。
「う……、動きました! 動きましたよ、カインドさん!」
小鳥の操縦席に座るリリスがはしゃぎ始めた。彼女にとって初めての経験になる小鳥の操縦。溢れる興奮が抑えきれずにいた。
「ははは、喜んでもらえるのは何よりだけど…………。ちょっと静かにしてもらえるかな?」
窮屈そうにカインドが漏らした。
今、一人乗りの操縦席に二人が座っていた。カインドとリリス。身長が対極な二人だが、さすがに狭かった。――結果、少女が青年の膝の上に乗ることになった。
「乗り心地が悪くてごめんね」
「いえ! 乗れただけで最高です! 今日はもう死んでもいいくらいです!」
「……そんなに?」
「はい!」
目を燦々と輝かせるリリスを前に、カインドは瞳を大きく開けた。やがて、その口元に微笑と失笑の中間の緩みが現れた。カインドはその笑みを維持したまま、前方へと視線を移行する。
「ん?」
カインドが訝しげに目を細める。
視線が覗いているのはリリスの向こう側。小鳥のデータが並ぶ中央モニターだった。下寄りで浮かび上がる様々な数値に、気になる箇所をカインドは見つけた。
「どうかしましたか?」
「……いや。何でもないよ」
「で、では、発進……しますか!?」
「エネルギー残量は……っと、三十七パーセント? ずいぶん少ないな」
それを聴いたリリスが急にしょんぼりとなった。失望を思わせる表情を浮かべながら、暗い語気でカインドに尋ねてくる。
「飛べないのですか?」
小鳥の飛行には基本的にエネルギーが必要不可欠だ。操縦者にとっては正に生命を握る最重要な要素だ。整備士でもあるリリスも当然熟知しているので、強要するまではいかなかった。――ただ、リリスの表情はお菓子を買ってもらえなかった子供のようだった。
「あ、いや。大丈夫だよ。飛ぶだけならそれほどエネルギーを消費しないから。使うのは大半、黒雲抑制時だけだからね」
「では、発進しましょう!」
膝の上で騒ぐ少女に後押しされ、カインドは脇に設置された二本の操縦桿を握る。手袋も何もつけず、素手での操縦だ。小鳥の操縦は基本的にそうであるらしい。
「ふわ……!」
リリスが思わず奇声を発したのは、操縦桿から幾本かの光が走っていったからだ。光の筋は前方後方へと、全身を目掛け駆けて行く。
光が機内全体に充填された直後。
音を上げて小鳥が震えたのが分かった。素人でもそれが起動の合図なのだ、と容易に知れる。
「よし、動いた」
カインドが周囲の機器を確認していた。その手は片方ずつ操縦桿から放されている。リリスはそこからある推測に至った。
小鳥は素手での操縦が基本。操縦者の意思という力が起因となるのだ。素手から流れた光はカインドの意思だろう、とリリスが考慮する。
「三番ハッチ開口。目的は飛行訓練っと……。あ、一応整備後の調整にしておこう。長らく使っていないこともあるし」
意外と手馴れたカインドの手口を見て、リリスはあることを思った。
「あなたは不良なのですか?」
「いやいや。いきなり何を言い出すんだい、君は?」
即座に首を振って否定されたが、素朴な疑問をリリスはやめない。管理側を欺く技術を豊富に持っている人物が身近に居たからだ。
「私のお母さんは授業をサボる為に使ったテクニックの凄さから、蒼天の魔女と恐れられていましたよ? あなたも同類の匂いがします!」
自慢げに言うリリスに、苦笑を漏らすカインド。
「自分でも優等生だと思っていたんだけど……。はは、君のお母さんは小鳥乗りだったの?」
「…………そう、でした」
それは過去形の言葉だった。
急激にリリスの表情が暗くなる。今までの会話から、カインドはリリスが感情の変化が激しいことに気づいていた。一旦落ち込んだら、慰めるより歓喜で上書きした方が早い。
その法則を適応させる為、カインドが操縦桿を更に強く握り締めた。
「ほら、見てごらん」
「え…………? ふわっ」
冷たい顔をした少女の横を真っ白な翼が埋め尽くした。左右に見える純白の翼。天使が持つ代物と何ら代わりがないほど輝いていた。
「これが小鳥一番の飛行装置。まあ、単なる翼だけどね。…………あれ、聴いてない?」
「ふわぁ………………」
同じ呟きを二度するリリスの感覚は、蒼天に散らばる白い羽で支配されていた。
リリスは左右に視界をずらして、興奮の吐息を漏らす。少女にとってそこまで感動する美しさだったのだ。
憧れだった物の一部がすぐ目の前にある。カインドはそんな少女の夢心地を妨げる無粋な真似はしばらくしなかった。
小鳥の発進を急かされたのは一分ぐらい後。
現実に戻ってきたリリスが、真上を見て口早に喋る。
「次は飛行です! カインドさん、早く発進してください! もう待ちきれません!」
「はいはい。…………その前に、リリスちゃん」
いきなり深刻な面持ちになったカインドをリリスは見上げた。
何事か、と待ち構えるリリス。出てくる言葉が不吉でないことを祈って、カインドの顔を見つめる。
「君、本当に小さいね」
リリスはカインドの顎に頭突きをかましてやった。
彼曰く、些細な復讐らしい。実に厄介な青年だ、とリリスは思った。
【3rd Flight】
重い扉が厳かに開く。
発進経路を遮る壁はなくなり、代わりに空色の海が広がっている。雲ひとつない純粋な水色一色。それを真正面から受けて、リリスは興奮と緊張が入り混じる固唾を呑んだ。
「最終フェイズ、完了。さて、発進だ」
カインドの言葉を皮切りに、小鳥が動き出した。車輪ではなく、磁気を応用した移動でハッチ直前まで運ばれる。
ゴウン、と機体が何かに設置された音がした。実際に小鳥用射出機に連結したのだ。
射出機は発進に必要不可欠。まるで本当の小鳥が木の枝から飛び立つように、動かない足場に足を止める行為だ。
やがてカウントダウンが始まった。
画面中央に浮かぶ数字が減ってゆく。
最後の一秒――の寸前。
「掴まって!」
「へ?」
脳内が真っ白になりつつあったリリスは反応に遅れた。おかげで、最後の一秒も見逃してしまう。
――丸と見間違えるほどの零が見えた。
そう思った瞬間、途轍もない重力が身体に掛かっていた。
「にゃああああああ!?」
「…………猫?」
さすがに慣れているのか。カインドは背中を座席の背もたれに密着させている。それがこの圧力に有効な術なのだろう。
一方、リリスは初体験の圧力に押しつぶされていた。
後頭部をゆっくりとカインドに預けながら、リリスは瞼を力強く閉じて抵抗を続けた。顔がつぶれる、とまで思う程だった。
「ううう……………ふえ?」
急に重圧から開放される。
視界を闇から切り離せば、眼前には悠久の価値がある世界が広がっていた。
一面の空。
無限の蒼い領域がある。太陽もないのに降り注ぐ日差しが、濃淡のグラデーションを作っていた。
もしも、見える物が全て空色になったら。そう、思わせるほどの空がリリスの居る場所だった。
「これが、僕……僕達がいつも見ている世界だ。昔は雲やら色々とあったみたいだけどね。それでも、この空だけは偽り無しに美しいよ」
「…………はい」
リリスは視線を左右に動かした。
両脇から蒼い空が見える。時折、白い羽が入り混じって、斑のアクセントを表現していた。言葉通りの美しい景色に心が奪われてしまう。
「ちょっと待ってて」
カインドが操縦桿を動かし、機体を上昇させた。
しばらく進んで急に止まる。次に小鳥の角度を傾け、前方に下方の光景が映った。
「下に見えるのが何だか分かる?」
「あれは……カエルム……ですか?」
操縦者が頷いたことは、リリスの推測を正解に導いた。
二人の前方。機体の遥か下には、巨大な物体が浮かんでいた。更に物体より下には黒い雲が延々と広がっている。
宙に静止したあの物体は、リリスたちが住む飛行艇カエルム。
ドーム上の透明なフィルターに覆われていて、目を凝らせば、中に生活感溢れる都市が見える。
「もっと下にあるのは…………黒雲ですよね」
「そうだ。あれが僕たち小鳥の操縦者の標的。この世界で一番の災害といわれるものだよ」
重力を発生する謎の災害、黒雲。
冥界の王を冠するのは何の比喩なのか。リリスはその辺りを良く知らなかった。ただ、小鳥が天使に似た翼を生やすことと無関係ではない、と考えている。
「感想はどうだい?」
「――さ」
「…………さ?」
リリスは叫んだ。
「最高です!」
感動を幾度も綴るリリスを眺め、操縦者は微笑を浮かべた。
それを察して、遠慮気味に感謝を伝える。
「あ、ありがとうございます! こんな私を小鳥に乗せてくれて……。お詫びと言って何ですが」
「うん?」
「私をちびと呼んでいいですよ」
「…………吊り合ってない、よね?」
苦笑いを浮かべながら、彼は顎を片手で擦る。先程、銀色の頭が強打した箇所だった。
「別にお礼なんていいよ。気まぐれだったんだし。……大丈夫、馬鹿になんてしてないから」
リリスの表情が幾分和らぐ。自分が哀れだ、という理由で乗せたのではないと知ったからだ。曖昧な同情は貰う本人も辛い。二人はその事実を無言で通じ合った。
「まだ序の口だ。もっと、長く飛んでみよう」
そうして、蒼い空に小鳥が飛んでいった。
灰色の機体は光の尾を引き続ける。
それらを妬むようにして、黒い雲は不穏な音を鳴らしていた。
【4th Flight】
カインドによる優雅な飛行をしばらく堪能した頃。
リリスはこんな言葉を聴いた。
「操縦してみる?」
狭い機内、リリスの耳からその誘いはすぐに出て行った。間近で誘われた為、頭から瞬く間に出てしまう。
それを留めんと、操縦者はもう一度尋ねた。
「だから、君が操縦してみるかい?」
「…………はい!?」
リリスの無邪気な瞳がカインドへと訴えかける。
――何を、どうやって。
という、分かりきった質問が脳内の外まで漏れて、巡回するのを感じた。実際に、リリスの呟きが口から漏れていた。
疑問を聴いたカインドは、丁寧な口調で答える。
「天使階級がなくても不可能じゃないさ。僕が操縦桿を握ったまま、君が手の上から動かす。そうすれば、簡単にできるだろ?」
そもそも、天使階級は小鳥の起動に関与するだけだ。操縦にはパイロットの技術が最も関係する。その点から考えれば、リリスにも可能である事は明らかだった。
「…………」
恐る恐る伸びる、リリスの小さな手。
その指先が、カインドの手の甲に触れた。ぴく、とリリスの方が震えるが、即座に落ち着く。
やがて隙間なく操縦者の手に重ねた。
「やらせて……ください……!」
「いいよ」
青年の手はリリスよりも大きかった。自分が平均より幾分小さいとは知っていながら、触れていると緊張があふれ出してくる。
リリスは負けじと強く握った。
「私の手で……動かしてみたいです。本当によろしいのですか?」
「遠慮はしなくていいよ。ここからは、君の手で、飛ぶんだ」
「――はい!」
二つの手が重なる操縦桿が、前に押し倒された。
最初は方向転換程度の軽い操作だった。
カインドの指示によって操縦する内、リリスは次第に慣れていった。自立して上昇等の飛行もこなしてゆく。その様子を見て、カインドが感心したように呟く。
「へえ。意外と飲み込みが早いね」
「これでも小鳥関係のアニメは漏らさず見ています!」
「多分……いや、絶対に関係ないと思う。執念深いのが幸いしたね」
「どういう意味ですか!?」
小さく憤慨するリリスが後頭部でカインドの胸を叩いた。どん、と痛そうな音が聞こえた。
「ぐっ!」
次の瞬間、小鳥は大きく傾いた。
「にゃあ!」
実際にリリスは「きゃあ」を言いたかった。けれども、普段からの猫好きが関係して「にゃあ」が出てしまう。
ちなみに、小さい頃に買って貰った猫型フードを今でも着ることが出来た。
「ああ、ごめん。ちょっと気絶しそうになったよ。君のポニーテールにはセラミックでも仕込んであるのかい?」
「そんなこと、あるわけありませんよ!? どんな髪型ですか! ……き、金属みたいな色合いは認めますが……。今のはカインドさんが脆弱なだけです!」
「自然でその威力か。末恐ろしい」
カインドは何だか恐れていた。そんな間にも、二人が乗る機体は下方へと進む。
「ずいぶん下がってしまいましたね」
青年の相手をやめて、リリスは前を向く。上空へ戻ろうと、操縦桿と再び接触した。
「え?」
耳元に澄んだ声が飛び込んでくる。
『――早く逃げて――』
同時に脳内が真っ白に染め上がった。瞼と脳裏が連結したように、白い部屋が思い描かれる。
それは単に白い部屋ではなく、宙に白い羽も舞っていた。
――誰ですか? そう尋ねようとしたが、カインドの切羽詰った声が意識を現実に引き戻す。
「リリスちゃん! 手を離して!」
「ふえ!?」
リリスが素早く両手を退けた。何か失態をしてしまったか、と小さく縮こまる。しかし、カインドはそれを気に留めることはなかった。
「くそっ! どうしてここで……」
普段抑え目な声が、今だけ激しくなっていた。焦りが滲む口調だ。リリスも緊急事態であると自然に察する。
リリスはそれにすぐ気づいた。
前方のモニターの左下。円状の領域で、中心に緑色の丸一つがある。その周囲には、赤く点滅する広大な何かが埋まっていた。
今更ながら、機内で鳴り響く警報にリリスが気づく。初めての搭乗体験により鈍っていた感覚が、冷たく研ぎ澄まされた。
「これは……!」
リリスの双眸が驚愕で大きく開いた。
空に住む住人ならば何が起きているのか容易に察せる。円状に展開するレーダー上の赤い海は、都市型飛行艇の最大最悪の難敵だからだ。
リリスが、自然とその名を呼び上げた。
「……重力の嵐っ!」
三十年前から続く災害、『重力の嵐』。発生したら最後、高重力に全てが押し潰されてしまう。もしも飛行艇に接触してしまえば、多数の死者が出るほどだった。
それを防ぐことこそが、史上最高の飛行力を誇る『小鳥』の役割だ。
だからこそカインドとリリスは焦る。
「カエルムは安全ルートを取っているんだぞ!? それなのに、何でこんな近くで発生するんだ!」
カインドが素早く体調を確認する。操縦桿脇の操作盤を数回往復して、前方モニター下方部に数値を出現させた。
一際輝くゲージが現れた。横に細長い枠が引かれ、中に溜まった光は半分をかなり下回っている。残量、二十八パーセント。
「足りない……。こんなんじゃ、全然足りない!」
リリスの頭上で歯軋りが聞こえた。
小鳥には重力を中和する機能が付いている。しかし、それにも飛行と同じく搭載されたエネルギーが必要になるのだ。現在の残量では長時間の抑制を保持できない。最大速度で上昇しても、黒雲からは逃げ切れない高度だった。
「くそ!」
大きな手に握られた操縦桿から光が迸る。
光が機内に行き渡ると、前方のモニターにやたら長い英文が出現した。リリスはそれらを読めないが、一番重要な部分は分かった。
意識入力による起動。――黒雲抑制装置がその役目を果たし始めた。
「出力は最小。…………ちょっとごめんね。速度を最大にして、カエルムまで上昇してみるよ」
「で、でも! こんな残量じゃ全然足りませんよ?」
リリスは自分が招いた状況に責任を感じていた。表情に暗い絶望感が漂っている。
少女を諭すようにカインドは言葉を並べた。
「いや……、恐らくカエルムでもこの状況は知れ渡っているはずだ。少しだけ時間を稼げれば助かるよ」
リリスはモニターの向こう側にある景色を覗いた。何ら変わらない青空が映っている。
しかし、足元から這いずりあがるような寒気を感じた。黒雲が、高重力を発しながら近づいてきているのだろう。
淡い光が機体を覆った。感じていた寒気も断絶される。これが高重力を中和する装置であった。
ただし、機体を覆う光る膜は、予想外に薄い。
「結構揺れるかもしれないけど……大丈夫。すぐに安全になるから」
リリスを気遣ってか、カインドが優しく言葉を投げかける。その丁寧さが、逆に仇となった。丁重に扱う程、偽る物も次第に大きくなる。
この機内がどれほど危険な状況なのか、一瞬にして理解できた。
「ごめんなさい……」
「ん?」
「私が無理を言ったせいで、こんな状況になってしまったのですよね?」
上目遣いでリリスはカインドを見上げる。
対する操縦者は、微塵の不快も見せずに笑っていた。満開でなくとも、屈託なく微笑んでいるのがよく分かる。
「君のせいではないよ。最初に誘ったのは僕の方なんだ。むしろ僕が責められるべきだ」
「でも」
「ほら、静かにしてないと危ないよ?」
謝罪は受け入れないという返事のように、小鳥内部に重力が掛かり始めた。黒雲による重力ではなく、高度上昇に伴う圧力だ。モニターに映る機体の位置を示す数値が変化している。
外の青い空が下へと流れていった。
「…………!」
速度は確実に上がってゆき、全身にかかる重力も強まっていく。その間、リリスは邪魔にならないよう無言を貫いた。
機体は何事もなくカエルムに近づく。
カインドも無事に脱出できたと安堵を吐き出そうとした。
「えっ…………?」
けれども、不意に上昇が停止してしまう。
一旦止まったと思えば、次は振動を始めた。全体が震えるような、無慈悲な微動が小鳥を襲う。
かたかたかた。かたかた。かた。――がたん!
「う……!?」
次第に大きくなる揺れに、カインドは驚愕を呻いた。
「馬鹿な……これほどの規模は、大災害以降起きていないはず…………」
「あ」
リリスが小さく声を上げた。前方のモニターには、一筋の闇が紛れ込んでいた。深い、暗黒。光を押しつぶしながら、這い上がる闇だ。
小鳥を覆っていた光が、破られようとしている。
「う、あ……」
今回、リリスは初めて黒雲を間近で見た。資料などで覗いたことはあった。しかし、実物を始めて目にした時の威圧感には抵抗しがたい。
「伏せて!」
目前の光景を理解するより早く、カインドが叫んだ。長年の勘であろうか、適切な判断をこなす。
光の出力を上げる為、彼は操作盤に手を伸ばした。
小鳥そのものの強度はかなり低い。抑制装置に頼りすぎている。これは全機体に共通する特徴だ。リリスたちが乗る機体だけ例外ということはありえない。
膜の輝きが増す寸前。
黒雲が光の膜を打ち破った。
恐怖で竦んだリリスは、身体を伏せずにその光景を見つめていた。
「くっ!」
その頭をカインドが押さえ込んだ。覆いかぶさるようにして、大きな身体が蹲る。
機体内部の明かりは全て消失して、二人は暗黒に襲われた。
目の前にあったはずの黒雲も見えない。二人を機体に打ち付ける振動が何度も起きるだけだ。
リリスは悲鳴さえ上げられず、暗闇の中で気絶した。
【5th Flight】
リリスが目を覚ました時、周囲には闇しかなかった。
「ふえ……」
第一にリリスは泣きそうになる。体があちこち痛い。数箇所を機体に打ち付けたらしかった。また闇の中で、自分のみが認識できることが怖かったのだ。
目が暗闇に慣れてくる。それにあわせて恐怖も和らいでいった。
「カインドさん……大丈夫ですか?」
真上にいるはずの青年に声をかけた。大きな身体に護られた身分だ、心配するのが当然だった。
「…………」
言葉は返ってこなかった。リリスは不思議に思って首を傾げた。
「カインドさん?」
もう一度呼びかける。
しかし、どんなに待っても返事はない。
――ぴちゃ。
そんな彼を見上げるリリスの頬に、何かの雫が垂れ下がった。
「…………!」
触り覚えのある感触だった。リリスの身体が硬直して顔にも動揺の色合いが滲む。
頬を指で擦って、雫の正体を確かめる。
リリスが目を凝らして指先を見つめた。暗闇より濃い色合いに、嫌な予感を感じ取る。
「っ!」
急いで手を正面に伸ばした。不幸中の幸いか、操縦桿はカインドが握ったままだ。小鳥の操作は可能であった。
知識を元に内部の照明をつける。
振り返った先で見えたのは、頭から血が大量に流れているカインドの姿だった。
「カインドさん! 起きてください、カインドさん!!」
「……ぅ」
必死な呼びかけに、青年は意識を取り戻した。流血で閉じた片目は開けずに、もう片方でリリスを見た。
初めに浮かべたのが、淡い微笑だった。とても、怪我人だと思えないほどの優しい、不安を全く感じさせない笑みだ。
「は、ははは。ごめんね…………、ちょっと気絶していたみたいだ……」
偽りようがなく、重傷だった。それでも彼は微笑みかける。受け取る側のリリスは、何も言い返せなくなった。
「あ~、いてて……。ほら、大丈夫だよ。すぐに抜け出す……から」
そう呟いて、カインドは操縦桿を握りなおした。掌から光があふれ出し、機体中に広がってゆく。包んでいた光の膜がより輝いた。
「まいったな……ここまでの災害は初めてだよ」
紅い雫が座席に何滴も跡を作る。リリスはその痕跡を追って、カインドの傷の程度を知った。
素人ではあるが、重傷であることは簡単に知りえる。さっきから出血も止まっていない。視線も何処か朦朧としていた。
これ以上の飛行は危険だ、とリリスが押し止める。
「……駄目だ。せめて、君だけは…………」
「でも、そんな怪我では」
「大丈夫……だか……ら…………」
そこでカインドの意識は途切れてしまった。
操縦桿に手を触れたまま、無言に帰す。
「――――っ!」
同時に機内の照明が一段階暗くなった。操縦者の意識が途絶えた為か、心許ない光だけが点灯している。
「カインド……さん」
薄暗い席に、リリスが気弱に呼びかける。しかし、彼が答えることはない。
――どうしよう。
胸中の呟きが反映したように、周囲は暗く囲まれていた。真っ黒な黒雲はこの小鳥を食いつぶそうと懸命に迫り来ている。
対して防ぐ術は一つもない。
今はまだカインドが張った光の膜が作用している。
「それももう長くはありませんね……」
リリスが見つめる先。光は闇によって押し込められていた。球状の膜がその形を歪めている。
もしも黒雲に触れたならば、この機体は一瞬で砕け散るはずだ。そう推測するリリスの心を、恐怖が駆け抜けていった。
「ふ……にゅ……」
――まずはこの状況を維持することです。カエルムで黒雲発生が察知されているならば、すぐに救助が来るでしょう。
涙を堪え、心中の整理を済ませるリリス。
そんな儚い希望はすぐに消え去った。
「え」
正面モニターの左下。レーダーが映る箇所だ。そこには高度も同時に示されていた。
その値が、カエルムとあまりにもかけ離れていたのだ。
先程の大きな振動により、この機体は下方へ引きずられていた。今も高度は減少しており、黒雲が下降しているようである。
「これじゃ……気づいてもらえない」
今度こそリリスの涙腺は崩壊した。
ほろほろ、と両頬に熱い涙が垂れてゆく。それを理解しておきながら、リリスは拭かなかった。
細い喉から漏れる嗚咽を、自分でも情けないと思っていた。
「うえええ……」
心に反して声が大きくなる。泣かない、という選択肢は見当たらなかった。
「嫌です……。こんな、こんな所で……」
零れる涙を拭いながら、リリスは自分が出来ることを探した。しかし、小鳥を操縦できないリリスでは、何も見当たらなかった。
「ひっぐ……。また、何も出来ない」
暗い座席にリリスが一人蹲る。
その脳裏にはある光景が浮かび上がっていた。一人の男性が、自分を見下ろして笑っている。そんな中、幼い自分自身はそれをただ見ていることしかできなかった。
大切な人だった。
だから、護りたい。そう願っても、リリスには飛び立つ為の資格がなかった。翼がないから、同じ悲劇を愚かにも繰り返す。
「嫌です……そんなの」
黒雲が小鳥を揺らしていた。
恐怖が心臓を締め付ける。リリスは重圧を噛み締めながら、涙を流し続けた。
小さい身体を精一杯に丸めて、嗚咽を漏らす。
その直後。
『――諦めないで――』
震える泣き声に、美しい声が混じった。先程と同じ声である。
「……誰、ですか?」
これは恐怖のあまりに聴こえる空耳だろう。リリスの思考はやけに冷めていた。
『――貴方に翼はあるわ――』
「つばさ?」
『――そう、この暗闇を抜ける為の翼――』
リリスが苦笑した。
この極限状態の中で、今も小鳥に関する空耳が聴こえるのだ。情熱の位を自分で実感した。
「私にそんなものはありません」
『――あるわ――』
「だって……だって、天使階級が」
『――そうじゃないでしょう? その階級は所詮後付でつけられたもの。貴方の背中に生えているものとは全く違うわ――』
とくん、とリリスは胸の奥底が震えた気がした。
空耳に釣られて、思いが塗り替えられてゆく。暗闇を越えて、声から伝わる白い部屋を染めて、一面の色が情景として見えてきた。
混じりけ無しの、蒼い空。
幾度なく願望を打ち上げた蒼天が、目の前に広がっている。
「あ」
無意識に細い腕が操縦桿へと伸びた。
その先に蒼い空はない。けれども、そこへ辿り着く為の手段はある。
『――ここにあるのは恐怖ではないわ。後ろにいる彼も、貴方に眠る可能性を感じ取ったのよ。さあ、もう飛べるでしょう?――』
指先に生暖かい温度が触れる。カインドの名残だ。すぐに消えてしまいそうだった。気絶した本人も同じなのかもしれない。
――一緒に飛んでみない? カインドはそう聴いてきた。
「嘘つきです……」
まだカインドしか飛んでいないではないか。
「今度は、私の番です」
イメージが神経に奔流し始めた。膨大な想像と思考が掌へ集まるのを感じる。そして、操縦桿から光が流れ出た。
「文句を言ってやります。……私を子供扱いしたことと……」
リリスは座席に寄りかかる青年を一目見つめる。
そして、前方に視界を戻して叫んだ。
「私がまだ飛んでいないことに!」
暗闇に無数の光が走った。
少女の目前に十二本の白線が浮かぶ。
黒雲に覆われた機体。それを更に包むようにして、純白の翼が眩い光を帯びた。
徐々に咲き開き、十二枚の翼を展開する。
「私だって、本当は飛べるんですっ!」
光が、闇を切り開いた。
【6th Flight】
鈍った頭に、視覚が情報を突き刺してくる。
カインドが血で染まった瞼を重く開いた。
――溢れる光。
「う……」
思わずカインドの目が狭まった。
急に飛び込んできた光の量に驚いたのだ。目が光芒に慣れるのを待って、カインドは広がる景色を受け入れた。
暗かったはずの座席内が輝きで満ちている。
その中で唯一影を造る背中があった。
とても小さい背中に、青年は震える口調で呼びかけた。
「リリス……ちゃん?」
名を呼ばれた少女が、顔をカインドの方に向けた。
「カインドさん」
「――っ」
リリスを超えた先に広がる光景を見て、カインドは言葉を失った。
闇が白く塗り替えられていた。
純白の闇。輝きを放って溢れる世界に、穢れを残すものは何一つない。黒き存在までも見当たらない。あるのはただ光だけだ。
「これは?」
自らにも降り注ぐ光の雨を眺めながら、カインドは呆然と呟いた。自分が気を失うまで、かなり危険な状況下にあったのだ。それが今や純潔な輝きの中にいるではないか。
カインドは何が起きているか全く理解できなかった。
「……あ!?」
自分の指一本一本を照らす光に、カインドがある事実を見つけた。己の手が操縦桿から離れているのだ。これでは黒雲を中和する為の膜は張れない。
「大丈夫です」
青年の不安を感じたように、リリスが優しく告げた。
「この小鳥は、決して墜ちたりしません」
彼女の言葉をきっかけに、光で出来た画面が変貌する。
すぐ近くに、薄い闇の壁が出現した。
「黒雲……? でも」
……遠い。いや、何かに遮られている!
小さな機体を潰そうとしていた黒雲は最早無効化されていた。カインドによるものではない、別の誰かによって光の膜が張られているのだ。
青年はそれに該当する人物を見つめた。
幼い顔つきで、カインドを見上げる少女。小鳥が好きだが、天使階級がないので乗れないと騒いでいたリリス。平均より幼すぎる、作業服を着たリリス・エレフセリア。
彼女が、乗りこなせない筈の小鳥を動かしていた。
「カインドさん。私、本当は飛べるんですよ!!」
その頬は涙で濡れている。しかし、浮かぶ表情は歓喜に微笑むものだ。
少しだけ紅い頬に、涙の雫がきらりと輝いた。
【7th Flight】
都市型飛行艇カエルムは騒然としていた。
すぐ下方に、天敵である黒雲が接近しているのだ。逸早く気づいた司令部はルートから脱線しようと試みた。けれども、ある小鳥がその黒雲に巻き込まれたことで難しくなってしまう。
最終的に、遭難した小鳥を見捨てる事例も考えられた頃。
それは起こった。
黒雲に一つの穴が開いた。
そこから光が漏れる。
カエルムに住まう者達は恐怖の目でそれらを見つめた。
漏れ出す光は真上を目掛け積み重なってゆく。
――光の頂点。
十二枚の翼を掲げた小鳥が蒼天を泳いでいた。
人々は暗闇の底から帰還した機体を前に言葉を失くす。暗闇から抜け出した小鳥の背中に生えていた翼の本数が類い稀なる存在の登場を意味していたからだ。白い一翼が六つで計十二本。空の住人が知る中で最大の数だ。また、その翼を生やせる階級は圧倒的な力を持つことで知られていた。飛行と重力中和に一切のエネルギーを使用しない、制限も束縛もない真の自由な操縦者。
世界に数人、カエルムでも二人目となる最高位。
伝説の天使階級『大天使階級』の登場だった。
十二枚の翼は光の軌跡を描く。少女の飛行を確かに記録するように、蒼い世界に道筋を残していった。
リリスは己の思いで重力を飛び越え、蒼い空を自由に飛びまわる。
この日、この空、この瞬間。
蒼天に“光の航空路《AIRLINE》”が刻まれた。
灰色の機体の中。
そこで二人は共に操縦桿を握っていた。
「そう……その調子だ。このまま上昇するよ」
「は、はい!」
今度は立場が逆転して、リリスの手の上にカインドが重ねている。こうすることで、リリスの操縦は安定を維持していた。
自分達が安全な状況に戻ったことを知り、リリスが安堵の息を吐いた。
次に、目の前に広がる蒼い空を視界に置いた。
――何かが変わった。
心の中で少女は実感する。蒼い空を前にして、自分が生まれ変わったようだった。
「空を飛ぶって……なんて素晴らしいんでしょう」
背中から笑みが零れる音がする。
「死にそうな目に逢ったのに、そう言えるんだね」
「……ご、ごめんなさい」
「何で謝るんだい?」
高度の上昇を弱めて、リリスは気弱な声音で呟いた。
「私のせいで……カインドさんが大怪我を」
当の本人は肩を竦めた。飛行に輝いていた瞳を曇らせるリリスを見下ろし、気楽そうに語りかける。
「さっきも言ったけど、何一つ君の責任じゃないよ。……それよりも、今は君を祝福しよう」
リリスが瞳を瞬かせる。何のことだろう、と疑問が表情に出ていた。
青年はそんな顔を微笑みで眺めながら、現在の操縦者である少女に祝福を投げかけた。
「……おめでとう。君はもう自分の翼で飛べるんだ。それは本当に誇らしいことだよ」
その言葉にリリスは最大の誠意を持って答える。
「――――はいっ!」
十二枚の翼が縦横無尽に空を駆け抜けてゆく。
濃淡の空に描かれる一筋の光。
純白の羽が、幾つも散りばめられていった。
【8th Flight】
リリスが覚醒してから一週間が経った頃。
銀色のお下げを揺らして、一人の少女が病室を訪れた。
「……おや」
病室の中心。個人部屋のベッドの上で、その青年はこちらを見上げて微笑んでいた。
「久しぶりだね、リリスちゃん」
「元気ですか……カインドさん?」
おずおずと病室の扉からリリスが顔を出していた。両手には果物が詰め込まれたバスケットがある。
「お見舞いに来てくれたの? 別にそれほど重傷じゃないんだけどな」
「……でも、私のせいで」
リリスが主張しながらカインドに近づいた。ベッドで上半身を起こしている彼は、座る為の椅子を近くから引き寄せる。苦笑しながら、その椅子に座ることを少女に勧めた。
「それよりも退屈していたところだったんだ。君の近況でも聴かせて貰えないかな?」
カインドの屈託がない微笑みを見て、リリスは彼の体調の良さを知る。
「……はい」
この度、リリスは整備学校から転校することになった。正式に小鳥操縦の学園に転入するのだ。
様々な騒動があったのだが、ようやく万事よく収まりそうだった。
リリスはそれらを話し終えて、一旦区切りをつける。
「ははは。君ももう少ししたら僕の後輩になるのか」
「一週間後に登校を始めますよ」
「そっか……。僕の退院はもうちょっと後になっちゃうね」
己の包帯を指差して、ベッド上の青年は少し残念そうに笑う。頭に何重もの包帯を巻いた痛々しい姿だ。
「……ん? どうしたんだい?」
リリスの瞳は自然と曇っていた。カインドの怪我は自分が原因だ。後ろめたさが自分を攻め立ててくる。
「…………」
そんな責任感がリリスを俯かせて無口にしてしまう。
――そこに伸びるカインドの手。
「ま、良かったじゃないか」
銀色の頭が撫でられるのを少女は感じた。なでなで、と掌が髪の毛を泳ぎ回る。
「カ、カインドさん!?」
頬を紅潮させたまま視界を上げる。見えてくるには、相も変わらず携えられた微笑だ。
「君は天使階級に目覚めた。……それに、僕も君に感謝したいんだ」
「え?」
リリスはカインドが瞳の色合いを寂しげに変えたのを見る。
「……僕は、最近空を飛ぶことが憂鬱だったんだ。感覚の麻痺、とでも言うかな。とにかく、小鳥に乗る意義が自分の中で彷徨っていたんだ」
でも、と青年は少女を見つめて繋げた。
「そんな時、楽しそうに小鳥の整備をする君を見つけた」
「私……ですか?」
「そうだ。君を見ていると、幼い頃に空に憧れていた自分を思い出してね。君と一緒に空を飛べば……もっと鮮明に思い返せるかなって考えていたけど。それ以上だったよ」
リリスの頭上にある掌が再び一往復する。
カインドは少女の髪を撫でながら、慈しみ溢れる笑顔を見せた。
「君と一緒に飛べて楽しかったんだ」
少女はその言葉を深く抱きしめて、彼に小さく尋ねてみた。
「――また―――飛ん――か」
「何か言った?」
真っ直ぐ双眸を向けて、リリスは再び呟いた。
「また、私と飛んでくれますか?」
頭上の掌が一度停止する。
短いようで長い時間をかけて、カインドが答えた。
「ああ」
病室に一陣の風が吹く。
カーテンが白い病室内でそよぎ、外の匂いを中に招き入れる。入り口の向こうには一面の空が広がっていた。
リリスは、そんな空へ、頭を撫でる青年へ、精一杯の笑顔を浮かべる。
「ありがとうございますっ」
窓の外に広がる蒼天。
今日も、小鳥達が空高く飛び回っていた。
【1st Record Fin】
どうも、初めまして。華野宮緋来です。この小説を読み終えたとき、さりげなく空を見上げてもらえると幸いです。昔のリメイクものなので、ちょっとおかしな点がたくさんあると思います。また、連載ものなので伏線が幾つか張ってあります。できる限り早めに続編を出したいと思っています。一応、この作品は学園ものですが、今回は一切そのような雰囲気にはなりませんでした。次回からは学園の話も入ってくる予定です。
――ちなみに作中では私の知識不足のせいで難読な部分がかなりあります。すいません、もう少し基礎知識をきちんと身につけておこうと思います。しかし、何か惹かれる部分がありましたら、ぜひ読み続けてほしいです。