落とし物と拳銃2-2
箸を置いた楽栖華が手を合わせた。
「ごちそうさまでしたぁ。」
間延びした声と共にぺこりと小さく頭を下げる。
その動作は拍子抜けするほど素直で食事前と後の挨拶だけは、きちんと身についているらしかった。
この子はどこまで普通でどこから異常なんだ。
そんな疑問を抱きながら俺も箸を置いた。
結局、エビチリはほぼ楽栖華に独占されて餃子は俺のほうが多めに食べる羽目になった。
まあ、どうでもいい。
さっさと会計して、ここから離れたい。
俺は伝票を手に取り、レジへ向かうと楽栖華も当然のように後ろをついてきた。
「あ、これも買って〜。」
楽しそうな声と共に楽栖華がレジ横に積まれていたキャラメルを一箱、ひょいと差し出してきた。勝手に。
「……すみません。これも一緒で。」
小さく息を吐きながら俺はキャラメルを受け取り、店員に渡した。
支払いを済ませ、テープが貼られたキャラメルの箱を彼女に手渡す。
「ありがと〜。」
にっこり笑った楽栖華は店を出るまでのわずかな間に箱を開け、早速キャラメルをひと粒口に放り込んだ。
店を出ると外はすっかり夜だった。街灯のオレンジ色がアスファルトを濡らし、ビルの隙間に冷たい風が通り抜けていく。
楽栖華は、ほとんど触れ合うくらいの距離まで俺のそばまで歩み寄った。
小柄な体を仰ぐようにして下から俺を覗き込む。
「それじゃ、今度からは気をつけなよ〜。人間、あっさり死んじゃうんだからぁ。」
囁くような声。
ふわりとキャラメルの甘い匂いが鼻を掠めた。
視線を下ろすとそこには無邪気さしかなかった。この目だけ見れば、拳銃なんて持っているようには到底思えない。
「わかってると思うけどぉ、言っちゃダメだからねぇ?私のことぉ。」
柔らかく笑いながら楽栖華は右手を銃の形にして、ぐっと俺の胸……心臓の位置に押し当てた。
爪が食い込む。一気にあのとき突きつけられた本物の銃口の感触が蘇り、喉の奥から冷たいものが逆流してきた。
「……絶対、誰にも言わない。」
体の芯まで冷えきった掠れた声で、やっと返す。
楽栖華は気にすることなく、にこにこと笑った。
「よくできましたぁ。」
満足そうに頷くと一歩だけ後ろに下がり、フードを被った。
顔の半分が闇に隠れる。
「さよーなら、ゆーせぇ。」
最後にそう言い残して楽栖華は夜の闇に音もなく溶けるように姿を消した。まるで最初から存在していなかったかのように。
俺は震える手を静かに握りしめながらしばらくその場から動けなかった。
家に帰り着いた途端、膝から力が抜けそうになった。
玄関の扉を閉め、ロックをかけた音を聞いた瞬間、堰を切ったように全身から緊張が抜けていくのがわかった。
壁にもたれかかりながら、深く、深く息を吐く。
どっと押し寄せる、疲労。背中から脚にかけて重だるさがまとわりつき、足首から下が鉛みたいに動かなかった。
安心。
無事に家に戻ってこられた。まだ生きている。
それだけで、喉の奥が熱くなりそうだった。
けれど恐怖も同時に蘇った。
楽栖華。
緑の光を湛えた黒髪、童顔、無邪気な声。その裏に潜んでいた、命を躊躇いなく奪える冷たさ。
思い出すだけで心臓がじわじわと締め付けられるようだった。
拳銃の冷たい口径が顎の下に触れたあの感触。爪の先で心臓に押し当てられたあの圧迫感。
あれは忘れられるわけがない。
一生あの感覚は消えない。
理屈じゃない。生存本能に刻み込まれた、確かな恐怖。
もう絶対に関わらない。
二度と……あんな世界とは交わらない。
何度も心の中で繰り返しながら俺は力ない足取りでリビングへ向かった。
何もしたくなかった。何も考えたくなかった。
ただ今は、この扉の向こうに誰もいないことを必死に確かめながら呼吸を続けていた。
誰もいないことを確認してソファに倒れ込んだ。
背中にクッションの柔らかさを感じた途端、体から重力が抜けたみたいに深く沈み込んだ。
天井をぼんやりと見上げる。
視界に映るのは、いつもと変わらない自分の家。けれど心の中には今までにない異物がこびりついていた。
静かだ。誰もいない、何の気配もしない。ただそれだけのはずなのに耳の奥では、いつまたドアが開くんじゃないかっていう疑念がずっとざわついている。
楽栖華の顔が脳裏に焼き付いて離れない。あの、無邪気に笑って、無邪気に銃を向けたあの顔。
手の中にあったキャラメルの甘い香りと、その指先に隠れていた、容赦のない「死」。
背筋を撫でるように寒気が這った。
あんな奴がこの街にいる。何事もなかったみたいに普通の女の子のふりをして、人混みの中に紛れ、誰かの隣を歩いている。
その事実だけでこの街の空気が妙に薄っぺらく感じた。
「……マジで、何だったんだよ。」
天井に向かって独り言が漏れた。情けないくらいかすれた声だった。
腕を目の上に乗せて強く目を閉じる。暗闇の中でも楽栖華の顔だけが、やたらとはっきりと浮かび上がった。
生きて帰れたことは運が良かっただけだ。
あのとき彼女の機嫌がほんの少し違ったら俺はもう、こうしてここにはいなかった。そう思うと喉の奥にじわりと鉄の味が広がった。
「二度と……絶対、関わらねぇ。」
固く心に誓う。
もうあんな世界には踏み込まない。あんなものとは二度と交差しない。
そう強く思っているのに、あの無邪気な声が耳の奥に焼き付いて離れない。
さよーなら、ゆーせぇ。
あの最後の一言だけが夜の静けさの中にいつまでも反響していた。




