落とし物と拳銃2-1
近所の中でも少し高めの中華屋に来た。
数軒隣には大手チェーンの中華料理店もあったけど楽栖華は一度ちらっと見るだけで、完全に無視して歩き去った。選んだのは外観からしてちょっと格式ばった個人経営の落ち着いた店。
俺たちは奥まったテーブル席に案内されて楽栖華は席に着くなり、勢いよくメニュー表を開いた。
ページをめくる指先が、やたらと楽しそうに跳ねる。
俺ももう一冊のメニューを手に取りながら、ふと視線を上げる。
向かいに座る楽栖華。
艶を帯びた黒髪が店内の柔らかい照明を受けて微かにきらめいている。童顔で黒一色のシンプルな服。
こうしてただ座っているだけならどこにでもいそうな、普通の女の子にしか見えなかった。
けれど不法侵入して、拳銃を突きつけた。
ついさっきまで命の生殺与奪を握っていた存在だ。
その事実がどうしても脳裏から消えない。
絶対に。絶対に、今後関わるべきじゃない。命の危険なんて、レースだけで十分足りている。
「ねぇ、ゆーせぇって、たくさん食べるほぉ?」
軽やかな声がメニューの向こうから飛んできた。
「……普通、かな。」
体重が増えにくい体質だし、特に過剰な食事制限もしていない。けど、競馬騎手として食事にはそれなりに気を遣っている。
「じゃあ、私、中華そばと餃子とエビチリ。」
「……そんなに食べるの。」
思わず聞き返した。だって体格的にも胃袋の大きさ的にも、到底一人分には思えなかった。
「餃子もエビチリも食べたいけどぉ、食べきるのは無理だからぁ、ゆーせぇに手伝ってもらうのぉ。」
理屈は通っているようで通っていないし、そもそも俺は食べるなんてひと言も言ってない。頼まれてもいない。だけど、この子には何を言っても無駄だろう。そんな予感だけは痛いほど確信できて小さく、深くため息をついた。
テーブルにやってきた店員に俺は半ラーメンを頼みながら楽栖華の中華そば、餃子、エビチリも一緒に注文した。
背筋にまだ微かに残る緊張を感じながら、これが、ほんの一時の休戦でしかないことをどこかで理解していた。
お冷を一口飲んだ楽栖華がふわりと口を開いた。
「ゆーせぇとぶつかった路地、あんまり通らない方がいいよぉ。」
雑談でもするかのようにあまりに軽い言い方だった。
「……なんで。」
警戒心を滲ませながら俺は低く問い返した。
楽栖華は、にこにこしたまま何の躊躇いもなく続けた。
「たまにぃ、私みたいなのが通るからぁ。相手の機嫌が悪かったら、こうだよぉ?」
そう言って彼女は右手を拳銃の形にして指先を俺に向けて小さく上に振った。
何気ない仕草。
その意味を理解した瞬間に背筋が、ぞわりと冷たくなる。
ゾッとした。
あの路地は人通りが少ないから近道としてたまに使っていたし、特に警戒したことなんてなかった。
けれどもし、あの日、ぶつかった相手が楽栖華じゃなかったら?もし、楽栖華の機嫌がほんの少しでも悪かったら?
今ごろ俺はこの世にいなかった。
現実味のない想像が嫌にリアルな生々しさで脳裏に広がる。血の匂い、地面に崩れ落ちる感触、冷たくなる体温。
一瞬で呼吸が詰まりそうになる。
「ぶつかったのが私でよかったねぇ?」
楽栖華は相変わらず無邪気な声で笑った。
どの口が言うんだよ、俺に拳銃を突きつけておいて。
そう思った。心の中で何度も繰り返した。
だけどあの時、ぶつかった後にちゃんと謝って、荷物を拾ってくれた楽栖華だったから。初めから、撃ち殺すつもりで動いていなかったから。
俺は今、ここで、まだ生きているのかもしれない。
そんな、微かな考えが胸の奥にひっそりと浮かんだ。
無理矢理飲み下すようにして俺はお冷を一口喉に流し込んだ。
頼んだ料理が次々とテーブルに並べられていった。
白い湯気と立ち上る香ばしい匂い。一皿ずつ丁寧に運ばれてくるのは、さすが高めの店だけあって見た目からしてきちんと作られていた。
「いただきまぁす。」
楽栖華は運ばれた中華そばに顔を輝かせると箸を持ち、さっそく食べ始めた。
「ん〜、美味しぃ。」
一口食べた瞬間満足そうに目を細める。
その仕草を横目で見ながら俺は少しだけ驚いていた。
食べ方は意外と綺麗だった。箸使いも無駄にこぼしたりせず、音を立てることもなく。
さっきまで拳銃を突きつけてきた女とは、とても思えない。
俺も半ラーメンをすする。
さすが個人経営の店だけあってエビチリのエビは大きく、餃子も中の具がぎっしり詰まっていて味も間違いなく本物だ。
ここ、また来てもいいかもしれない。普通に友達と楽しい気持ちで警戒心なんて持たずに。
今みたいに、いつ拳銃が出てくるかわからない相手と肩を張ったまま食べるんじゃなくて。
「胃が落ち着いてくぅ。やっと食べれたぁ。」
嬉しそうに笑いながら楽栖華はエビチリに箸を伸ばす。気づけば、皿の上のエビはもう半分以下になっていた。
……さっきまで、どれだけ空腹だったんだ。
ちらっと視線を向けたのに気づいたのか楽栖華は何の躊躇いもなく言った。
「朝から昼過ぎまでぇ、山に死体埋めてたからさぁ、お腹すいたんだよねぇ。」
「ぶっ!?」
口に含んでいた水を盛大に吹き出した。気道に入りかけてむせて慌てて手元のナプキンを引き寄せ口元を押さえた。楽栖華は軽く眉を寄せながら落ち着いた動きでナプキンを取ると飛び散った水をテーブルから拭き取っていった。
「やだぁ。きたないよぉ、ゆーせぇ。」
小言を言うトーンも間延びしていて妙に力が抜けていた。
……いやいやいや。
俺はナプキン越しに口元を覆ったまま固まった。
死体。山。埋める。
今、確かにそう言った。脳内で繰り返して意味を飲み込むたびに血の気が引いていく。
聞かなかったことにしよう。俺の空耳だ、幻聴だ。この空間ごと全部幻だったんだ。
心の中で必死にそう唱えながら目の前で平然とエビチリを頬張る楽栖華を俺は直視できなかった。
でも、俺の反応なんて楽栖華はこれっぽっちも気にしていなかった。
目の前で水を吹き出してむせ返っている俺なんて存在しないかのように彼女はマイペースに食事を進めていく。中華そばをずずっと啜り、餃子をぱくりと頬張り、エビチリの皿をほとんど独占する勢いで箸を動かしていた。
ふわふわとした笑顔。つやめく緑の黒髪が肩にかかり、その下で無邪気に咀嚼を繰り返している。
その無垢な仕草と、さっきまで話していた内容のギャップがどうにも現実感を伴わない。
俺はすり減る神経を必死で持ち堪えながら、ラーメンに箸を伸ばした。とりあえず、さっさと食べて終わらせよう。さっさとこの時間を切り上げて何事もなかったかのように日常に戻ろう。
そして誓う。
もう、あの路地には近づかない。絶対に。どんなに遠回りになろうと雨が降ろうと風が吹こうとあの路地を通ることは二度とない。
命は、ひとつしかない。競馬で十分、危ない橋は渡っている。それ以上こんな意味不明なリスクを背負う必要なんかどこにもない。
そして、もうひとつ。
今、目の前で中華そばを啜っているこの女……楽栖華。
こいつとも絶対に二度と関わらない。どんな偶然が重なっても、どんな理由ができたとしても。命を握られた記憶は絶対に忘れられないから。
俺はそう心に刻みながら無理やり麺を啜った。
熱いスープが喉を滑っても冷えた背筋はどうしても温まらない。




