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落とし物と拳銃1-4

女の子が俺の腹の上にすとんと座り込んだ。

軽いけれど腹部にかかるその小さな重さよりも、ずっと重苦しいものが俺を押し潰していた。


突きつけられた黒い銃口は今もなお白く細い指にしっかりと握られている。引き金ひとつで俺の命が吹き飛ぶ。その現実が呼吸をするたびに喉を締め付けた。


「お兄さん、騎手ってやつなんでしょぉ?」


ふわりとした間延びした声が降ってきた。

どうしてそんなことを訊く?

混乱する頭で考える暇もなく、俺は反射的に小さく頷いた。


怖くて逆らえなかった。

それに逆らったらどうなるかわからない。命を握られている以上、選択肢なんてなかった。


「やっぱぁ、お馬さんって可愛い?私、見たことないんだよねぇ。」


またしても脈絡のない問いかけ。

何を考えているのか全く読めない。 でも頷くしかない。俺は、また小さくこくりと首を縦に振った。


頼むから、もう終わりにしてくれよ、用は済んだんだろ。財布も返したし、口止めもしたし、もう、俺には興味がないだろう。 だから、どうか…この得体の知れない恐怖から早く解放してくれ。


「ふふっ。お兄さん、汗すごいよぉ?」


茶化すように笑いながら女の子は俺の胸の上に拳銃を置いたまま首を傾げた。

銃口は俺の顎下にぴったりと向いている。


もし、この小さな指がほんのわずかでも動いたら俺は間違いなく即死する。


背中がじっとりと汗で張り付いているのを感じる。

呼吸が浅く、胸がひくひくと震えていた。


「大丈夫だってぇ、殺したりしないからぁ。」


のんきな声で女の子はふにゃっと笑って、そのまま拳銃をパーカーの中にしまい込む。

緩やかに、慎重に、目の前から凶器が消えていった。


「はぁっ……はっ…。」


肺が急に空気を取り戻した。崩れるように、深く、深く呼吸する。まるで何日も息を止めていたかのように空気が喉の奥に流れ込んでくる。


助かった。

まだ、生きている。


安堵と疲労が一気に押し寄せる中、女の子が再び俺に話しかけた。


「ね、お兄さん。」


警戒心は消えないまま視線だけを向けた。

彼女は小首をかしげて、にこりと笑った。


「お腹すいた。」


「……は?」


思わず声が漏れた。

わけがわからない。命のやり取りをした直後に、この子はなにを言っているんだ。


ただ、ひとつだけ、はっきりわかった。

この女の子には、まともな常識なんて、最初から存在していない。


「お腹すいたんだってばぁ。」


腹の上に座り込んだまま女の子は言った。


知らねぇよ。だったら帰れよ。俺を早く解放してくれ。

心の中で毒づいた。


けれど、そんな心の叫びなんて届くはずもなかった。

女の子は動く気配を一切見せない。ぐいっと腰を揺らして体勢を直すたびに、軽いけれど確かな重みが腹にかかる。小柄な体からは想像もできない圧を俺は全身で受け止めながら固まっていた。あからさまに「だってお腹すいたし〜」「動きたくないもん〜」という雰囲気を全身から垂れ流している。


「財布返して、生かしてあげたんだから、ご飯くらい作ってくれてもいいでしょぉ?」


間延びした口調で当たり前みたいに言う。ニコニコしてるけど絶対笑ってない。あの拳銃を出された光景がフラッシュバックして俺は無意識に肩をすくめた。


訳がわからない。

生かしてもらった恩義に飯を作れって……そんな理屈、聞いたことない。

けど否定したらどうなるか想像するまでもない。


「……俺、料理できない。」


かすれた声で答えた。

女の子は信じられないという顔をした。


「え〜!」


あからさまに不満そうに唇を尖らせて、ほっぺたをぷくっと膨らませる。

子どもみたいに小さな体を左右にゆらゆらと揺らしながら腹の上で無言の抗議を始める。


やばい、機嫌を損ねた。

だからって料理できないもんはできないんだよ。でも、この子を怒らせたら、また拳銃が出てくるかもしれない。殺されたくない、絶対に。


冷や汗を流しながら必死に頭を回転させた。今できる最善の答えを探して絶対に機嫌を直さなきゃならない。


「デリバリーか……店に行くので、いいなら……。」


喉が張り付く感覚を無理やり押し込めてなんとか提案をひねり出す。女の子はぴたりと動きを止めて満面の笑みを浮かべた。


「それでいいよぉ〜!」


明るく跳ねるような声。さっきまで人の命を握っていたとは思えない無邪気な笑顔。

そのあまりの無防備さに逆に背筋が冷たくなる。


助かったのか、本当に。今だけは。


俺はまだ腹の上にちょこんと乗ったままの女の子を見上げながら密かに深く深く息を吐いた。


「私、楽栖華るるかって言うのぉ。」


弾むような声で名乗られた。

知らないって。 名前なんて教えられたところでこれから関わるつもりなんか毛頭ない。むしろ、一秒でも早く忘れたい。記憶から消してしまいたい。この異常な時間ごと、まるごと。


だから何も返さずに黙っていると楽栖華は、きょとんとした顔で首を傾げた。


「お兄さんは、高槻悠晴、でしょぉ?」


背筋がひやりとする。どうして名前を…そう思うより先にさっき財布を勝手に見られたことを思い出した。


あぁ、そうか……騎手免許証。

そこに名前も住所も全部載ってたんだった。


小さく力なく頷いた。


「……うん。」


たったそれだけ答えるだけでも喉が張り付いてうまく声が出なかった。

満足したように楽栖華はぱあっと表情を明るくした。


「じゃあ、ゆーせぇ。ご飯行こう!」


一気に縮められた距離感。軽く、幼く、なれなれしい呼び方。まるで、昔からの知り合いみたいに、違和感ひとつなく、俺の名前を呼んだ。

戸惑う間も与えず、楽栖華はにこにこと俺を見下ろし続けた。


動けない俺をまるで自分のおもちゃにでもするかのように。


楽栖華は、ぱさりとフードを取った。


露になった髪は、ただの黒ではなかった。深い闇のような黒に、わずかに緑の光が溶け込んでいる。夜の水面みたいに鈍く冷たい艶を帯びて、ひと筋ひと筋が滑らかに流れていた。光を受けて天使の輪を作っていた。手入れが行き届いているのが一目でわかる。どこか冷たく、清潔な光沢。


その下に覗いた顔は声の印象を裏切らないほど、幼かった。丸く整った輪郭、大きな茶色の瞳、柔らかく結ばれた唇。童顔。まさに、そう形容するしかない顔だった。


未成年か?

思わず、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。


だが、その小さな体にあの冷たく重い命令権を握る力が秘められている。それを考えた瞬間、背筋を氷の指でなぞられるような感覚が走った。


「はぁ〜、お腹すいたなぁ。」


緩んだ声と共に楽栖華はあっさりと俺の腹から降りた。立ち上がると、そのまま靴を履くために玄関へ向かう。


俺はまだ床に転がったままだった。崩れたまま動けない。膝が笑ってうまく言うことをきかない。


「ゆーせぇ、何やってんのぉ?早く行くよ?」


無邪気に笑いながら玄関から俺を見下ろしてくる。


君のせいでこうなってるんだよって叫びたかった。けど声にならなかった。

呻くようにして体を起こし、手探りでバッグを引き寄せる。膝に力を込め、なんとか立ち上がった。


玄関には楽栖華が待っていた。

段差を挟んで向き合ったその瞬間、改めて思い知らされる。


小さい。

俺の胸あたりにしか背が届かない。20センチ以上の差。けど、この小さな体に俺の生殺与奪が握られていた。その事実が改めて骨の髄まで冷たい緊張を流し込んできた。


ゾクリ、と皮膚の奥から逆流するように身震いが走った。寒さでも、暑さでもない。純粋な生存本能の警告だった。

この小柄な体に俺は支配された。命を握られた。抗うこともできず、ただ従わされている。


その現実がじわじわと胸を圧迫してくる。


「中華食べたいなぁ〜……でも、ハンバーグもいいかも〜。」


呑気な声が耳に届く。楽栖華は靴をつっかけながら玄関のドアノブに手をかけた。


俺の方には一度も振り返らない。

置き去りにされるかのような焦燥感だけが俺の足元をぐらぐらと揺らしていた。


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