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落とし物と拳銃1-3

トレセンのあと俺は迷うことなく、昨日ぶつかったあたりにある交番へ向かった。

財布さえ見つかれば…そう思ってわずかな望みに賭けた。


交番の中は昼間なのに妙にひんやりしていた。

カウンター越しに出てきた警官は、すまなさそうに目を伏せながら言った。


「届け物は、今のところありませんね……。」


ああ、やっぱり。


「……どうしよ。」


小さく呟いて頭を掻いた。

財布だけじゃない。中にはクレジットカードも健康保険証も何より騎手免許証まで入っている。 再発行の手続き、身分証明のやり直し、全部やらなきゃいけない。

金も、時間も、面倒ごとも、全部、これから俺の肩にのしかかってくる。


重たい気分を引きずったまま帰宅した。

玄関前に立ち、ポケットから鍵を取り出す。 いつものように鍵穴に差し込み、回そうとした瞬間違和感が走った。


回らない。

いや、少しは動くけど、重い。


眉をしかめ、力を込めてみる。

それでも手応えは鈍く、仕方なくドアノブのレバーを下ろすと、あっさりと下りた。


鍵、かけ忘れてた……?

今朝、そんなに疲れてたか?


「昨日から何やってんだよ、俺……。」


溜息をつきながらドアを押し開けた。


そして俺は立ち止まった。


玄関の土間に見慣れない靴がぽつんと置かれていた。

心臓が嫌な音を立てて跳ねて呼吸が止まる。


泥棒。


瞬間的にそう思った。

喉がひりつくほど乾く。


音を立てないように慎重に靴を脱ぐ。スリッパも履かず、廊下に足を踏み入れた。

家の中は静かだった。テレビもついていないし、生活音もない。リビングのすりガラス越しには人影は見えない。


俺は息を殺して歩いた。

リビングのドアの前まで来ると、そっとレバーに手をかける。

汗で手のひらがじっとりと湿る。


慎重に、できる限り音を立てないようにほんのわずかにレバーを下ろす。

細心の注意を払いながら、ドアを開けた。


「っっ!?」


声にならない声が喉を突いて出た。


黒づくめの女の子がそこにいた。

黒いパーカー、黒いパンツ、フードを目深に被った小柄な体。そして、その中心にいるのは、 まるで何事もなかったかのように、リビングのど真ん中に立っている女の子だった。


女の子は俺を見ると慌てるそぶりすらなく、ごく自然な動作で手を振った。


「あ、お兄さんおかえりぃ。」


呆けたような、間延びした声。高く、どこか幼さを残した響き。


言葉よりも何よりも、その、あまりにも緊張感のない態度に俺は完全に思考を停止した。

頭が真っ白になる。あまりにも場違いすぎて脳が理解を拒否していた。


「あ、私、怪しい者じゃ……。」


女の子が何か言いかけた瞬間ようやく体が動いた。


逃げろ。

そんな単純な本能だけが、俺の背中を押した。踵を返し、玄関へ向かってダッシュする。やばい。泥棒だろうが何だろうが、人の家に無断で入ってる時点でアウトだ。


背後から、のんきな間延びした声が追いかけてきた。


「ちょっと逃げないでよぉ。」


耳に届いたその声と、腰に走った衝撃がほぼ同時だった。


「ぐっ……!」


腰に何かが引っかかり、バランスを崩した。次の瞬間後頭部に鈍い痛みが走る。


気づけば俺は仰向けに倒れ込んでいた。

世界がぐるぐると回る。ぼやけた視界の向こう、俺の腰の上に小さな影が立っていた。


彼女は無邪気な顔でニコッと笑いながら俺を跨いで仁王立ちして見下ろしていた。


「逃げたり、警察に言ったら、殺しちゃうよ?」


無邪気な声だった。

まるで冗談を言うみたいに。まるで明日の天気を話すみたいに。


だけど俺の目の前に突きつけられた現実は、どんな夢や冗談よりも冷たく重かった。


白く小さな手が握っているのは、黒光りした、重そうな……拳銃。

テレビや映画の中でしか見たことがない。けど、目の前に突きつけられているそれが本物であることに疑いを挟む余地は一ミリもなかった。


喉の奥で何かが音を立てて崩れた。


フリーズした頭。動かない体。冷や汗が毛穴という毛穴から噴き出してくる。


「私、お兄さんの財布を返しにきてあげたんだよぉ?」


拳銃を握っていない方の手が、ふにゃっと笑いながら俺の視界に財布を差し出してきた。


見覚えのある、ネイビーの長財布。俺のだ。

彼女はそれを胸の前でひらひらと揺らしながら、あくまでも柔らかい声で続けた。


昨日、路地でぶつかった女の子。

あのとき拾い損ねた財布。頭の中で点と点がつながる。


「あ、中は見たけど何も取ってないからぁ、大丈夫だよぉ。興味ないしぃ。」


間延びした調子で当たり前のように言いながら女の子は俺の腹の上に財布をぽんと置いた。

柔らかく、けれど、どこかぞわりとする質量。


「ね、私のこと、誰にも言わないよねぇ?死にたくないでしょぉ?」


子供が秘密を共有しようとするようなトーンだった。でも突きつけられているのは紛れもない死だった。


息ができない。

胸が圧迫される。

喉はカラカラに乾いて粘膜同士が張り付いて声が出ない。


必死に首を縦に振った。何度も何度も。

俺は絶対に言わない。誰にも話さない。墓場まで持っていく。

絶対に。

絶対に。


そんな懇願を心の中で叫びながら、それでも声にはならないまま、ただただ必死に頷き続けた。


そんな俺を彼女は相変わらず、にこにこと笑いながら見下ろしていた。

まるで「よくできました」とでも言うように。


その笑顔がこの世のものとは思えないほど怖かった。


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