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無原罪御宿の吸血鬼  作者: ごっこまん
1.χαῖρε, κεχαριτωμένη

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015 吸血鬼新生 4/4:悪女を気取っている暇なんて

 ロブ・ロイへ目がけて振り下ろされた腕が、空回りする。


 同じく、ロブ・ロイの一言を引き金にしてムーングロウが屋根から急降下し、ロブ・ロイの両肩を掴んで飛翔、必殺の一撃を回避した。


「助かった。感謝する」


「何てバカげたことを! 死ぬ気かい!?」


「いや? 自明かつさり気ない合図だっただろう?」


 あの直球な煽りのことを言っているのか。ムーングロウは愕然とした。現に咄嗟に身体が動いたものの、こんな肝を潰す思いまで計算内だと言われたようで腹が立った。


「後で反省会だ愚か者!」


 吸血鬼の拳は行き先を見失い、勢い余って壁を殴り抜いていた。


 壁の縦横に亀裂を走らせるその威力に、吸血鬼の腕がへし折れる。


 が、ロブ・ロイの姿を追って振り返る内に、時が逆戻るように再生してしまった。


「逃げらんねえよバーカ!」


 すかさず、吸血鬼は仕込んだ血の糸を引く。


 糸は商館の二階窓の奥に続いている。糸の命令に従って、部屋に待機していたナイフ使いの下半身が、自らの足で跳躍する。


 大股を開き、翼をはためかせるムーングロウと、無防備なロブ・ロイの行く手を阻む。


「俺が蹴る! 回避を!」


 ロブ・ロイの指示に、ムーングロウが応える。


 操られた下半身の落下線から急旋回で離脱しても間に合わない。


 ムーングロウに吊るされたロブ・ロイは、操られた下半身、その靴底を足蹴にする。


 思い通り。


 接触する瞬間を、吸血鬼は待っていた。操られた下半身、その切断面から血が噴射する。出血はズボンの下を這い、布地に点々と赤い斑点が浮かぶ。


 ロブ・ロイの触れた靴底から、ナイフ使いの血が伝い、脚を登っていく。


(まずい。“隠し弾”を……)


 ロブ・ロイがポーチに手を伸ばすが、既に血に覆われていた。


 地上では吸血鬼が血の糸を引き、ムーングロウの飛翔を食い止める。


 それどころか、じりじりとテグスを引くように、吸血鬼は二人を地上に引きずり降ろしていく。


「反省会を先に済ませるべきか?」


「弱気とは、君らしくないね! さっさと何とかしたまえよ!」


 そのとき、オオカミの遠吠えが夜霧に響き渡った。


   †


 屋根からアルフレッドへ飛び降りる影は半人半狼。


 口の端に泡を噴き、敵意を剥き出しながら、ヘーゼルがアルフレッドに組みついた。


「うおっ? んだよ良いとこで! どけよ! オレぁエリーだぞ駄犬!」


 エリー。ヘーゼルのそれは獣の咆哮だったが、微かにその音を含んでいる。


 エリー、エリー。ヘーゼルの瞳は濁り、何も映していない。麻酔によるせん妄で暴れているだけだ。


 エリーを呼んでいる訳ではなく、ただアルフレッドが口にした名をオウム返しする。


 エリー、エリー。


 バカなイヌが見境なく吠えるように、何度も、何度も、しつこくその名を繰り返し呼ぶ。


 その咆哮が、薄皮一枚を隔てた心の向こうにも届いた。


 心に満ちた邪悪な血に、声は波紋となって伝わり、閉じこもったエリーの耳に届く。ぐったりと、エリーは薄目を開く。


】……ヘー、ゼル?【


 アルフレッドはヘーゼルが邪魔で、手加減抜きで殴っていた。


 しかし、ヘーゼルはしつこく組みつき、ときには守るべき人の肌をも爪で裂き、裂けたそばから傷が塞がる。


 暴れている内に、はだけたヘーゼルの祭服がアルフレッドにまとわりついた。銀糸に触れるとアルフレッドの皮膚がジュッと音を立てて焼ける。


「おあぢぢぢぢぢ!?」


】熱いっ……!【


 短剣を触ったときとは違い、振り払っても祭服はたなびくだけ。焼き鏝を押し当てたかのような銀の熱さが心の奥にも伝わり、閉ざした心に満ちた血を、潮目の如く引かせた。


 上空では血の浸食が止まり、ムーングロウの飛翔力と牽引力が拮抗した。


「今の内に何とかしたまえ!」


 ムーングロウに言われるまでもなく、ロブ・ロイは足掻いて血を落とそうとしていた。


 銀に触れた熱に中てられ、エリーは弱り切った精神を奮い立たせて、朦朧とする頭でエリーが自問自答する。


 自分が犯した間違いを、悪女になると豪語してまで正当化した。


 その弱さの矛先を、ヘーゼルに向けて良いの?


 それが、心を尽くして助けようとしてくれた人に対する仕打ちで良いの?


 アルフレッドがヘーゼルの猛攻を受けて、ついによろめいた。


「このダボが! あっぢ! 良い加減、降りやがれ! さもなきゃ――」アルフレッドの手刀がヘーゼルを襲う。「――死ね!」


 手刀が直撃する寸前、朦朧とするエリーの脳裏に、ナイフ使いのおぞましい死相が浮かび、ヘーゼルに重なった。


】ダメ!【


 血の底から浮上し、エリーの声が強く、アルフレッドの頭を揺さぶった。手刀が解けて、代わりに威力の死んだ張り手がヘーゼルの首を打つ。


】ヘーゼルに手を出すな! この人殺し!【


 薄皮越しに見えた姿は、ヘーゼルに似ても似つかない半人半狼。けれども、ほんの少し毛深くなったところでエリーにはわかる。


 エリーを呼ぶあの声はヘーゼルだ。


 エリーの猛りが内側から意識の薄皮を焦がし、現実の感覚が仄かに戻った。


 アルフレッドが苛立つ。


「うるせえ! 悪女らしく一暴れしてやろうっつったのはテメエだろうが! その覚悟がどんな結末になるかも見せてやった! テメエはそれを受け入れただろうが! 文句言われる筋合いなんざねえ!」


 エリーは一瞬、喉を詰まらせた。意志が揺さぶられ、取り戻しかけた身体の支配権が離れてしまう。


「そうだろう! オレたちの邪魔するこいつも敵だ!」


 その隙を縫って、アルフレッドはヘーゼルを殴って払い落とす。


 ヘーゼルに一蹴り見舞って、人狼の巨体を壁に叩きつける。衝撃で壁に亀裂が走る。


】ヘーゼル!【


 自分の罪で悩んでいる暇はない。追撃するアルフレッドに逆らって、エリーは身体を支配を奪おうと足掻いた。


「しつけえぞテメエ! 腹ぁ括れ! 何もかも利用して捨ててやるとか、悪女になるとかつったのはテメエだぞ!」


】違う!【


 突然、アルフレッドが自分で自分の顔を殴った。アルフレッドが驚愕に目を見開く。


 捨て鉢になって、悪女を気取ったのは、エリーの弱さだ。


 軽率な選択がもたらした結果に怖気づき、心を、身体を怪物に明け渡したのも、エリーの弱さだ。


 けれども、ヘーゼルまで手にかけるのは話が違う。


 怖いから、弱いからと、今ここでまた逃げたら、今度こそ本当に取り返しのつかないことになってしまう。


(この女ぁ……!)


】こんなこと、私、したくない!【


 ナイフの餌食になりかけて、アルフレッドの力を求めたのは、エリーだ。


 その弱さが悔しくて、エリーは自分の顔を殴る。


】私は崖から落ちたってピンピンしてて!【


 死ぬくらいなら悪女のように振る舞ってやろうと開き直ったのは、エリーだ。


 一瞬でもそんな勘違いをした自分が嫌で、エリーは自分の顔を殴る。


】寝起きでヘーゼルを引っぱたくくらいガッツがあって!【


 現実に、エリーは全ての敵を捻じ伏せる力を手に入れた。


 だったら、自分の弱さをねじ伏せてやろうと、エリーは自分の顔を殴る。


】初対面だろうと良い人は褒めて! 気遣いもできる!【


 けれども、そんなものがなくったって、ヘーゼルはずっと――本当に短い間でしかないのに、ずっとだったと思えるほど、優しく連れ添ってくれていた。


 ヘーゼルにまで危害が及ぶなら、こんな力、いらない。


 自分を殴って、罰を与えて、与えて、反省するまで与えまくって、許しを請うまで力を揮ってから捨ててやる。


】偉くて可愛い美人のエリーなのよ!【


 今なら自信を持って言える。


】悪女を気取っている暇なんて、ない!【


「テメエがどう思おうが知らねえよ!」アルフレッドが牙を剥く。「殺し屋連中も、誰も、テメエの弁明になんざ耳を貸さねえ! 人狼の小娘だって、テメエが悪党だって知ったらテメエを切り捨てるに決まってる! テメエが信じられんのは、この世でオレだけなんだよ! 現実を見やがれ!」


】うるさい! ヘーゼルはそんな人じゃない! 私はもう誰も殺さない!【


「叫ぶしか能のねえ腰抜けが……! 今はオレの番だ! すっこんでろ!」


 散々殴られているアルフレッドだが、所詮は小娘の不慣れな拳だ。腰が入っていない。腕一本奪い返されたところで、アルフレッドを止める力はない。


 苦しそうにうずくまるヘーゼルの頭を狙い、足を振り上げる。


 足が踏み下ろされる瞬間、エリーの拳が目を狙う。


 狙いが逸れて、足は地団駄を踏む格好となり、水面を叩く。水飛沫が上がる。


「テメエが出る幕はもうねえんだよ! 鬱陶しいぞ!」


 ヘーゼルにアルフレッドの害意が向けられれば向けられるほど、エリーの拒絶が強まり、アルフレッドの動きを鈍らせる。


 エリーのささやかな抵抗が、ヘーゼルに猶予を与えた。


 体力の戻ったヘーゼルは俊敏に起き上がり、再びアルフレッドを力任せに拘束する。


 偶然、そのタイミングにエリーの拳も直撃した。


 二人のがむしゃらな腕力が重なった瞬間、ロブ・ロイたちを拘束する血の糸がぷつんと切れた。


「あっクソ」


 アルフレッドは咄嗟に糸を繋ぎ直そうとする。


 だが、糸を通して操作していた血の量はそう多くない。


 少ない血をやりくりして網目状に展開し、ロブ・ロイたちの全身を覆う寸前、血が命を失ったように網の形は崩れ、ナイフ使いの下半身諸共落ちてくる。


 その隙にムーングロウは全力で羽ばたき、その姿は霧の上へ霞んでいった。


 水面に血と死体が落ち、赤色が揺蕩った。


「ああー、勿体ねえ!」


 血を台無しにされた怒りで、吸血鬼がヘーゼルの拘束を力尽くで解く。


 殴り倒し、首を足で踏みにじり、絞める。足の下で、ヘーゼルがしつこく暴れている。


】その汚い足をどけなさい!【


 頭の中でエリーが騒ぐ。片腕がアルフレッドの意に反して拳を握り、再び頬を殴りだす。


「るせぇつってんだろ!」


 アルフレッドは自らの、エリーの頭に掌底の連打を見舞った。


「つーか!」


 側頭が砕ける。


「テメエの!」


 眼球が飛び出す。


「足だろうが!」


 どれだけ自傷しても血は動じず、エリーの脳組織だけがゼラチンのように揺すぶられた。


】うっ!? あ、れ? ううん……?【


 エリーの意識が途切れ、静かになった廃墟に、アルフレッドの息遣いだけが残る。


「殺し屋が逃げた途端にデケえ面すんじゃねえよ、クソビビリ女が」


 飛び出た眼球をはめ直す。


「どいつもこいつも、これからってときに水を差しやがって」


 アルフレッドはムーングロウの消えた先を見据えた。


 邪魔は入ったが、お楽しみを先送りするのも嫌いではない。


 面白くなってきたとばかりに笑顔が裂けた。


 血の糸はまだ視線の先に続いて、吸血鬼の指を引いている。


 糸が切れた後、咄嗟に繋ぎ直そうとしたのは、無駄ではなかった。


   †


 霧の向こうに崖肌が見えた。ロブ・ロイとナイフ使いが降下のために使った綱が揺れている。


 この上で待つ仲間と合流し、速やかに撤退する。


 ムーングロウは谷風を翼で捉え、上昇する。


 だが、上背を摘まんで引かれたような感触があった。


 フクロウらしく首を背中に反転させると、ムーングロウの背中にごく小さな赤いノミがいた。


 ノミから赤い糸が伸びて、緩んでは張りつめる。まるで釣り糸だった。


 ノミが羽毛を掻き分けて潜っていった。


 今、この空を飛べるのは、ムーングロウだけ。


 ふ、と目を細める。


「遺言はカーディナルに預けているからね」


 ロブ・ロイの耳元で囁く。


 返事を待たずに、ムーングロウは勢いをつけ、ロブ・ロイを綱のところへ投げた。


 ロブ・ロイは利き腕を痛めていたが、辛うじて綱を掴み、腕全体に綱を絡ませる。


 何事かと空を振り仰ぎ、ムーングロウの姿を探す。


 その瞬間、ムーングロウの全身を無数の血の棘が貫いて、短い断末魔を谷に響かせた。


 ムーングロウは、見えざる手にさらわれるかのように奈落の底へ消えていった。


 その姿が見えなくなっても、しばらくロブ・ロイは霧の奥に目を凝らしていた。


 だが、やがて直前の摩擦で破れた手袋に血と痛みを握り、黙々と崖を登り始めた。


   †


 霧の下、アルフレッドが手首の傷に血の糸を飲ませるようにして、釣った大物を引きずり降ろす。


 厚い霧の帳を破り、白い霧の尾を引いて、巨大な鳥影が頭上に落ちてきた。


 充分に引きつけた瞬間に、舌なめずり。


 吸血鬼は腰を捻って溜めた拳を、ムーングロウの胴へ目がけて突き上げた。


 直撃。落石の如き轟音で、ムーングロウの胴体を衝撃波が貫いた。


 衝撃が出口を求めてムーングロウの身体中を暴走し、内側から破裂して、空に血と羽根を噴く。


 肉体に見合わない腕力の反動が、エリーの肉体を襲った。


 腕から肩にかけてムーングロウの重量に押し負けて、骨と筋肉が破裂する。殺しきれなかった衝撃が足腰を伝わり、踏みにじっていたヘーゼルをも貫く。


 抵抗していたヘーゼルが硬直し、力が抜けていく。


 衝撃の余波が、水面に波紋を作った。


 吸血鬼はムーングロウの血を抜き、肌から食らって、吸い殻をぞんざいに投げ捨てる。


 遅れて、血と檜皮(ひわだ)色の羽根の雨が降る。


 一戦終えた爽快感に浸り、アルフレッドは恍惚とした吐息と共に両手を広げて、振り注ぐ血を浴びた。


 血の雨が止み、羽根の雨が残る。


 じっと手を見る。握り拳だった形がひしゃげて、ヒガンバナのように咲いている。


「こんぐらいのことでぶっ壊れやがって……脆すぎんだろ。鍛えとけよガリガリ女が」


 人間であれば重傷だが、吸血鬼が一振りすれば、元の形に戻る。


「使い方を考えねえと。治すだけで無駄に血を使っちまう。厄介な身体だ」


 再生した手の具合を確かめる。


 拳を手の平に打ちつけつつ、面倒な気持ちと、遊び時間が伸びた微かな喜びが芽生えるのを実感した。


「……一頭、逃したな」


 すぐに追いついてやる。


 吸血鬼が崖方面へ一歩踏み出したとき、異変を察知した。足を止めて気配を探る。


 水がざわめいている。


 ムーングロウを討った余波はとっくに消えていた。それとは別の波が起きている。


 水のざわめきはさざ波となり、渦となって柱を成し、アルフレッドの行く手に立ち塞がった。


 水柱の頂上に、人影が立っている。


 楯を足場にし、水柱を徐々に低くするにつれて、露わになったその姿は、白地に銀の刺繍の祭服。


 雷雲を模した銀仮面に、雨粒と落雷のチェーンヴェールを垂らした、覆面の女だった。


「バカ弟子め~……」


 少し気取った、遊びのある口調で、渦巻く水の中心に、露出した地面に足を降ろす者。


 その名は。


「アタシの酒を盗るなんて、良い度胸だね~?」


 護律官ミキ・ソーマが、吸血鬼など居ないかのように、その足元に沈むヘーゼルを見下ろしていた。

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