029 死線を潜り抜けた後に②:守ったもの
エリーは涙を拭いて、目元に赤みを残し、助産師の顔に戻る。
「その、安静にしなくても大丈夫なんですか? お乳をあげるのは、少し待った方が」
からりとスペイが苦笑する。
「ソーマ先生にも言われたね、それ。でもさ、一番乗りは譲れないよ」
「でも……」
赤ちゃんを抱いているだけでも、スペイは大儀そうだった。
「そんな景気の悪い面しないどくれ。安心おしよ。後はしばらく、よそのお母さんたちにお願いするつもりだからさ」
大量に失血したスペイは、本人が自覚している以上に疲弊している。
本人も理屈では理解しているのだろうけれど、生まれたばかりの我が子を人の手に委ねるのは、理屈抜きで心配で寂しいものだ。
まだエリーには実感の湧かないことだ。でも、そこはかとなく不安に感化された気になって、ついお腹を撫でてしまった。
改めて見ると、スペイは何て小さな背中をしているのだろう。
それでいて、この背中なら赤ちゃんを元気に育ててくれるだろうという、根拠のない信頼さえも感じる。
授乳のひとときを少しでも長く過ごそうと、スペイは我が子を慈しんでいた。
じゅおっ、じゅおっ、と力強い哺乳力で、いつまでも聞いていられそうだ。
「大飯食らいはあんたに似たんだね」スペイが軽口を叩く。
「機会を逃さないしたたかさは、お前似だな」ロバートが小言で返す。
早朝の静けさに夫婦が肩を寄せ合い、しばらく命の音だけが流れる。
「死にかけたときさ」ぽつり、とスペイが呟く。「怖くも何ともなかったんだよ。拍子抜けってか、魂抜けてたからわかんないんだけど」
笑えない冗談だ。けれども場が冷えるというよりは、自然とその奥にある真意に耳を傾けていた。
「今は――」洟をすする音。「今みたいに、この子を抱けなくなっていたかも、この子がぷくぷく動いてるところ見れなかったかもって思うと……今更、すごく、怖くて」
悪寒に襲われてかたかたと震える肩を、体格頼もしくロバートが黙って抱擁する。
スペイは夫の胸板に首を預けて、赤ちゃんに顔を見られないように夫の服を濡らした。
(これで良かった、のかな)
いたたまれなくなって、エリーは無意識に服の上からペンダントを手繰る。
スペイが助かったのは運が良かったからだ。
スペイだけではない。土壇場で露術が使えるようになっていなければ、ラムシング村の人々がアルフレッドの毒牙にかかっていた。
スペイが助かったことは素直に嬉しい。けれども、安易な方法に頼ったエリーには、自分の手柄のように喜ぶ資格などない。
「エリーさん」嗚咽混じりにスペイが絞りだす。「この子に会わせてくれて、ありがとう」
喜ぶ資格はないかもしれないけれども、スペイは助かった。それだけで充分だ。
三者三様、大人の事情に頓着せず、赤ちゃんは母乳に夢中である。
そうこうしている間に、スペイの乳がすっからかんになったらしい。
赤ちゃんはまだ吸おうとしている。
「――ふふ。あーあー、この子ったら、本当に惚れ惚れする飲みっぷり」
落ちこむのもバカらしいと開き直って、スペイは赤ちゃんを抱き直し、もう片側を吸わせようとした。
「おい、少し加減した方が」さすがにロバートが止めに入った。
「機会を逃さない性質だからね」
したり顔でスペイは言い返す。
「それよりあんた、ほら」
「あ、ああ。そうだったな」
促されたロバートが気を引き締めてエリーに向き直り、咳払いをする。
「その、何だ。これはアルフレッドに向けてなんだが……」
ギクリとした。エリーはアルフレッドの背負う罰も肩代わりすると約束していた。
その矢先にロバートから厳めしく切り出されると、緊張で身を固くしてしまう。
けれども、一向に言葉の続きが出ない。ロバートは腕を組み、勿体ぶるように、悩ましく唸り、身をよじるばかりだった。
「なあ、本当にあんな奴に頼むのか?」
嫌々振り返って、恐る恐る妻に確認する。
「一度決めたことに何をうじうじ躊躇してんだい! 男ならスパッと言いな!」
クマの猛るが如く、スペイの大音声が早朝の屋敷を揺るがす。
ヘーゼルが寝ぼけながら飛び起きる。ロバートは勿論、エリーもたまげた。
頭を振って思い直す。今はこの光景を守れただけで良しとしよう。
これだけ元気を取り戻しているなら、スペイは安心だ。
「エリー!」
起き抜け一番、ヘーゼルに負ぶさるように抱きつかれ、エリーはよろめく。
「良かった! 目え覚まさなかったらどうしようかと思って、自分、じぶんー……!」
「ヘ、ヘーゼル、やめっ……舐めっ……!」よだれと嬉し涙でエリーは溺れそうになる。
「こらっ! 降りなヘーゼル! あんたはいつもいつも気遣いが後回しなんだから!」
「でもよお、姉ちゃーん」嗚咽混じりのヘーゼル。
「でもじゃない! 降りなきゃぶつよ!」
姉の雷が怖く、感情の行き場を失ったヘーゼルが、しおれたように洟をすすってエリーから降りた。
閑話休題である。
それにしても、これだけの大騒ぎが起きても夢中で乳を吸う赤ちゃんの大物感が凄まじい。
お父さんは肩身を縮めて、姉妹喧嘩にも怯えているのに。
「ほらあんた! ちんたらしない!」
「わかった、わかったよ」ロバートが襟を正す。「アルフレッド、聞こえているか。あんたにこの子の名前を決めて欲しいんだ」
「え?」【は?】
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【すこれ】
真っ当な幸せ描写がお好きな人ってどのくらいいるんですかね。
作者は影あってこそ光が強調されると信じているので曇らせ抜きでは読めないです。
とりま、幸せ好きな人は今からこの作品をすこれ。




