75.窒素の固定化
アイルが作っていた無線機の運用方法が決まった。
無線機は、コンビナートやマリムダム、警務団の詰所やギルドに設置されたらしい。
コンビナートの無線は有り難いね。
これまで、何か有ったときには、使者がやってきていた。
それから準備してコンビナートに行くのだけれど、使者さんは、コンビナートの機械の事が詳しくないので、私は何を準備したら良いのか判らなかったりする。
現場の人と話が出来れば、場合に依っては、口頭で指示するだけで済んで、私が行かなくても良かったりする。これは大きい。
出来れば、コンビナートに行かないで、お菓子を食べていたい。
お父さんは、小型の携帯できる無線機を欲しがっている。
アイルが出来るような事を言ったんだろう。
そのためには、電子回路を小型にしたり、高性能の電池が必要になる。
前世で使われていた電池は、リチウムイオン電池か……。ちゃんと作れなければ、火を吹くな……。いや、爆発するかな。
高性能電池の保有エネルギー密度は、小型爆弾ぐらい有るからね。
うーん。作るとしたら、水素ニッケル電池ぐらいかな。これだと破損しても少し安心かな……。
まあ、何にしても、セパレータが必要だ。樹脂を作るかどうかは、まだ悩んでいる。蓄電式の電池に使うんだったら、きちんと管理できるかな。
管理できるんだったら、良いかもしれないけど……。
まあ、それほど急いでいる訳でもないだろう。
詰所に無線機が設置されて、大分便利になったみたいだし。
そもそも、こんなモノ、この世界だと超未来技術だよ。
ギルドで暴れる人は、無線機で呼ばれた騎士さん達に、直ぐに取り押さえられる。
居るんだね。
意に沿わない事が有ると暴れる人が。
そろそろ、領地で、クロムや貴金属を作れるような製錬、精錬工場を作りたいな。
電気が通ったんだったら、ヒーターが使えるようになるんだけど、抵抗体で、熱で酸化されにくい金属が必要だ。そのためには、クロムが欲しいな。
ヒーターが一般的になれば、反射炉を作って、高温で加工ができるようになる。
領民の手で、どんどん、新しいものが作れるようになるだろう。
そうすれば、私は楽になる……かな……。
うん。選鉱、製錬、精錬が出来る設備を作ろう。
色々考えて、最初は、金、銀、銅を精錬することにした。
随分と前になるけれど、鉱石探索をしたときに、領地に鉱脈が見付かった。
アウドおじさんやグルムおじさんは、とっても喜んでいたけれど、まだ、精錬は出来ていない。
鉱石のまま売っていると言っていた。
こんな辺境に、貴金属を精製できる技術を持っている人は居なかった。
領地内に、流通しているのは、僅かな銅だけで、それも、他領からの輸入品だ。
もったいない。
言ってくれれば、私が魔法で……。
……ダメだ。そんなことをしたら、私は、人間ATMになってしまう……。
やっぱり、貴金属の精錬工場が必要だ。
幸い、既に電気がある。これなら、鉛とか水銀を使わないで、高純度の銅や銀は精製できる。
金は……。精製した残りがどうなっているか次第かな。
この領地で大量に見付かっている鉱石は、黄銅鉱だ。銅と鉄と硫黄が主成分の鉱石だ。
色が金色をしている。
この領地の黄銅鉱には、かなりの分量の銀と金が含まれている。
どうやって、精錬するかは決まっている。
ただ、不足する素材を考えなきゃならない。
電解精錬するには、硫酸銅水溶液が、つまり硫酸が必須になる。
硫黄は、黄銅鉱から取れるけれど、二酸化硫黄だから、酸化しないと、硫酸にはならない。
酸化するには、普通は、酸化バナジウム触媒を使うんだけど。
バナジウムを触媒で使うには、バナジウムを精錬しないとならない……。
硝酸で酸化するという手があるんだけど、この場合には、硝酸を作らないとならない。
銀の電解精錬では、硝酸銀を使うから硝酸が必要だ。つまり、硝酸は必須だな。
ただ……。硝酸か……。
硝酸を簡単に得るためには、硝酸塩の鉱石が有れば良いんだけど、金属硝酸塩は全て水に良く溶ける。
鉱石で得られるのは、かなり特殊な状況が必要なんだよね。
地球には、チリ硝石という都合の良い鉱石が有った。
硝酸ナトリウムの鉱石だ。
極端な乾燥条件に無いと、雨水に溶けて無くなってしまう。
だから、普通は存在しない。
だから、この領地には無い。
この領地は、アトラス山脈の東側で、海からの湿った空気が山脈に吹き寄せていて、大量の雨になるような気候条件だ。
同じように、水に溶けやすい炭酸ナトリウム鉱石が有ったので期待していたんだけどな……。
ただ、炭酸ナトリウムが、見付かった場所は、マリムに近い、アトラス山脈の南側だ。
そこに無ければ、期待できない。
無いもの強請りをしてもしかたないんだけど、窒素を固定化するのは……。
ハーバー・ボッシュ法か……。
この反応は、300気圧、500℃という、とんでもない反応条件が必要になる。
今のこの世界では有り得ないよ。
さらに、反応に高圧の水素を使うため、大抵の金属は、脆化する。
よく、こんな反応で合成したものだ。
硝酸は、火薬の原料になる。戦争には必須の素材だ。
まあ、そうじゃなくても、肥料に使われるので、人類に必須の素材なんだけど。
他の方法に変わることもなく、人類は、この条件で、大量のアンモニアを生産していた。
ハーバー・ボッシュ法は、空気からパンを作ったとまで言われている。ノーベル賞になっている有名な反応だ。
その所為もあって、反応機構については、詳細に調べられている。
この反応では、窒素1分子と水素3分子から、アンモニア2分子が生成される。
反応自体は、発熱反応だ。
何も無ければ、反応する条件さえ合えば、自発的に進むような反応だ。
ただ、極めて強く三重結合している窒素分子を原子状態の窒素に分解させるのが、難しい。
窒素を分解するのには、触媒を使っても高温が必要になる。
この高温が、反応の進行に悪影響する。
この反応自体が、発熱反応なので、高温だと、アンモニアが分解して、窒素と水素になってしまう。
そのため、とんでもない高圧にして、無理矢理反応の平衡条件をアンモニア側にズラしている。
高圧にすれば、窒素と水素の合計4分子より、アンモニア2分子の方に平衡がズレる。
結局のところ、触媒で、如何に窒素の分解に必要な活性化エネルギーを下げられるかがキモという訳だ。
活性化エネルギーを下げられる触媒があれば、反応温度を下げる事が出来て、圧力もそれほど上げないで済む。
そこで、魔法だ。
上手く行くかどうかは判らないけれどね。
実は、超伝導材料を作ったときに考えたことがある。
私の魔法を使うと、原子レベルで最適化した触媒が作れるんじゃないかと思った。
幸い、ハーバー・ボッシュ法は、詳細に研究されている。どういったメカニズムで、窒素が分解して、水素と反応しているのかは、かなり詳しく知られている。
私が読んだ論文の中には、原子レベルで触媒表面の窒素の振舞いを観察したものまであった。
地球でもこの高圧高温条件を緩和できればと考えていた。まあ、当然と言えば当然だよ。
という訳で、ハーバー・ボッシュ法の触媒を開発する。
これが出来れば、アンモニアが合成できて、硝酸が合成できて、硫酸が合成できる。
そして、電解精錬で、高純度の鉛と銀を得ることができる。
硝安(硝酸アンモニア)や、硫安(硫酸アンモニア)といった合成肥料も作れる。
うーん。完璧だ。
触媒が出来たらだけどね……。
という事で、貴金属精製プロジェクトを立ち上げることにした。
最悪、触媒開発に失敗したら、アイルに頼んで、反応容器を作ってもらおう。
ちなみに、この世界での、金、銀、銅の精錬方法を助手さん達に、確認してみた。
金は、天然の砂金を集めて使っている。極僅かに、銀を取った残りから金が採れることがある。
銀は鉛といっしょに鎔かして銀を得る。
灰吹き法かな。これだと、金が有っても、合金になってしまうんじゃないかな。
銅はこの領地の鉱石と同じ黄銅鉱を使って得ている。黄銅鉱を加熱すると、銅が出来る。
これも、金や銀が有っても合金になってしまうんだけど……。
勿体無いと言うか、知らなきゃ仕方が無いと言うか……。
助手さん達に、貴金属類の精鉱、製錬、精錬の方法を一通り説明した。
「すると、そのアンモニアというものを作るのが必要なんですね。」
とジオニギさんが確認してきた。
「なんか、知っている方法と全然違ってますね。」
とキキさん。
「でも、電気が有るからこの方法なんですよね。」
とカリーナさん。
「そうです。電気があるので、この方法を採ります。この方法だと、dWW/100以上の純度の銅と銀が得られます。」
純度を聞いて、助手さん達は、驚いていた。純度を上げる方法なんて知られていない。
合金かどうかなんて、判らないから仕様が無い。
「金は、どうなるんですか?」
とギウゼさんが聞いてきた。
気になるよね。
「銅と銀を精錬した残りが金なんですけどね。他にも白金とかテルルとかが含有されているかもしれないです。
その時には、少し考えますけど、まずは、この方法で精錬した結果次第ですね。」
「でも、このアンモニアを作るところが、難しそうですね。こんなに圧力を上げるのは、ムリじゃないですか?」
とヨーランダさんが聞いてくる。
「だから、ここで使う触媒を探すのが重要になります。」
なんとなく納得してくれたみたいだ。必要な機材や確認のための方法を伝えた。
夕刻になって、夕飯の後で、アウドおじさん、グルムおじさん、お父さんに、貴金属の精錬設備を作ることを告げた。
アウドおじさんや、グルムおじさんは、これまでに無いぐらい、大喜びだ。お父さんも。
領主館の文官でも、騎士でも必要な人員があったら、無条件で使ってくれて良いと言われた。
なんか、ガラスの時と似ているな……。
一応マテリアルバランスを考えて、助手さん達に説明した方法を話してみる。
・次亜塩素酸塩を作るときに無駄に捨てていた水素を使って窒素を固定化するプラント。これがキモだね。
・アンモニアの酸化プラント。
・銅鉱石の精鉱と製錬、精錬プラントここで、粗銅が作れる。
・粗銅から電解銅を作る電解精錬プラント。
・銅を取り出したスラグから、銀を取り出す電解精錬プラント。
・二酸化硫黄回収と硫酸の製造プラント。
・大量に出る残滓の処理プラント。
細かな説明は、理解してもらえたか……不明だ。
金はどうするのか聞かれたよ。
そりゃ聞くよね。
鉱石の状態や含まれている不純物の状態を確認してからだよ。
状況によっては、青酸を使うことになるかもしれない。出来れば避けたいけど……。
様々な鉱石を運んでもらうためにはエクゴ商店に協力してもらわないとならない。
最近、エクゴ商店は、採掘関連の事業を手広くしている。
鉄やガラスで原料鉱石を押さえる旨みを知ったみたい。
鉱石を持ってきてもらうのに、多用したからなぁ。
コンビナートの管理をしているボーナ商店。
ここは、新たなプラントが出来たら、漂白剤プラントから水素を貰うのと、電力とか蒸気ラインとかで、調整しないとならない。
アセトアミノフェンを作ってくれている、コラドエ工房。
ここは、硫酸と硝酸のユーザーだ。精錬を手伝ってくれるかもしれない。
コラドエ工房の人とは会ったことはないけれど、使えるのなら、使おう。
なんか、領地の総力戦みたいになっているな。
そんなこんなを説明して、本格的に取り組むことになった。
業者さんたちとの調整は、グルムおじさんと助手さんにお願いすることにする。
今回作るのは、銅、銀、金だ。何を作るのかの説明なんか要らない。
私が説明する必要も無い。
アイルも、おじさん達からの依頼で全面協力してくれることになった。
触媒の試験を行なう前に、付帯装置をアイルに作ってもらった。
今回の製造実験では、アンモニア、二酸化硫黄、窒素酸化物などの有毒ガスが発生する。
実験装置は気密性に十分注意するつもりだけれども、万が一漏れた場合に備えて、防毒マスクを作っておくことにした。
木炭を粉々にした炭粉を準備した。
アンモニア用には炭粉とゼオライトを混ぜた。
二酸化硫黄と窒素酸化物用には、さらに水と酸化カルシウムを混ぜた。
それらをアルミニウムの容器に詰める。
区別がつく様に、二酸化硫黄の缶にはオレンジ、アンモニアの缶には緑に染めた紙をはりつけておいた。
アルミニウムの缶は、アイルが底と上面の両面プルトップ付きの缶詰にしてくれた。上下がツナ缶のプルトップみたいな缶だ。
これを使用するときに、両方開けてガスマスクに装着する。
缶を密着して装着できるガスマスクをゴムで作った。
アンモニアと二酸化硫黄には、独特の刺激臭があるので、助手さんとカイロスさんには、微量発生させて臭いを覚えてもらった。
次は、合成したアンモニアを冷却して液化するための冷凍機。
ピストン式のレシプロコンプレッサーをアイルに作ってもらった。
そして、ステンレス製のパイプの中に冷媒のアンモニアを詰めた。
アンモニアガスを圧縮して、発生する液化したアンモニアの気化熱で、対象場所を冷却する。
冷媒のアンモニアは、私が魔法で作った。
最後に作ってもらったのは、触媒能力を確認するための試験装置だ。
まず、原料の窒素と水素の混合気体を作る装置だ。
水素は水酸化ナトリウム溶液を電気分解して作る。それを水洗して二酸化炭素を除去した空気と混ぜる。
余分な酸素は、ステンレスパイプの中に白金の粉末を入れ、それを加熱した。その中に、酸素を含んだガスを導入することで、酸素は完全に水素と反応して水になる。
ガス中の水は、冷却して取り除いた後で、乾燥剤を使って完全に除去する。
このガスを冷凍機とは別に作ったレシプロコンプレッサーを使って圧力容器の中に詰めていく。
大体、20気圧ぐらいになった。
大体準備が出来たので、助手さんたちにお願いして、実際の反応装置を組み上げてもらった。
私が作る触媒は、空気に触れるとマズいかもしれないので、ステンレス製のカートリッジの中に詰める。その両端をアルミ箔で塞いで置く。
それを反応装置にセットして、気密を破って、反応の状態を確認することにする。
反応ガスの圧力を10気圧に減圧して、加熱した触媒カートリッジに通す。
アンモニアが発生するかどうかを確認する。
ガスを冷凍機を通して、液体のアンモニアが発生しているかを確認すれば良い。
アンモニアが微量の場合には、無視だ。
多少でも出来ていれば、臭いで分るけれどね。
まず、鉄粉で試してみたが、当然、アンモニアは皆無。
まあ、予想通りだ。
順次、鉄に電子供与性のエレメントを加えていく。
アルカリ金属を加えてみる。カリウムは少しだけ優秀だった。
カリウムは、地球の触媒でも加えられていたな。
極微量のアンモニアが得られた。臭いがするので判る程度だけど。
次は、アルカリ土類金属。これはダメだった。
白金族の金属類。ロジウムだけは少しだけ反応したみたいだ。極微量だけれども。これも臭いだけだ。
次は、金属水素化物。これは強力な還元剤だ。
水素化バリウムで好成績。これは強力な還元剤だ。少し多めのアンモニアが得られた。
なんか、昔、文献で読んだことがあるな。結果は知らないけど。
他の水素化物、ルイス塩基など色々混ぜて実験してみた。結局水素化バリウムが一番良さそうだ。
あとは、魔法で、触媒の原子配置を調整する。
窒素は、鉄の結晶の111面で反応すると考えられている。純鉄は、500℃以下だと、α構造なので、体心立方格子構造だ。
111面であれば、鉄表面は、六角形の頂点と中心に鉄が有る。
その裏に、バリウムと水素を配置する結晶をイメージする。これがサンドイッチ構造で無限に続いている。
どうも結晶が出来ない。
イメージしても、それが実現困難な構造だと、魔法が発動しない。
これまで、魔法で色々物質を作ってきて解ったことだけど、魔法で作り出せないということは、実現できない構造という事だ。
原子半径が鉄とバリウムでは大きく違う。鉄の原子半径は、140pm。一方バリウムは、215pm。
これじゃ結晶は作れないな……。
鉄の結晶面を考えて、バリウムの原子半径と合いそうな結晶面を探してみる。
100面だと285pmか。これだったら結晶が作れるかな?水素もあるし。
ということで、111面の裏側に、三角錐の出っ張りを作る。その面は、100,010,001面だ。そこにバリウムと水素を格納する。
その裏に、三角錐の出っ張りがある鉄を合わせて……。
結晶構造がかなり大きくなったけど、何とか出来た。
まあ、あの化け物みたいな超伝導結晶と比べると、どうということも無い。
アンモニアを作るのは問題無くできる。少し加圧するだけで、窒素と水素からアンモニアができる。室温でも反応するよ。吃驚だ。
炭素があると……。シアンが出来たりしないよね……。
一酸化炭素を使って確認しておく。
こっちは魔法を使って確認。大丈夫みたいだ。
シアンが出来ないのは、原子配列のサイズの所為かな……。水素で還元される所為かな……。反応温度が低い所為かもしれない……。
前世の実験設備のように、真空装置内で、分子の挙動を確認する方法が無いから、反応機構の詳細は分らないけど、まあ良いか。
プラントを作るときのために、ここまで実験した内容を、助手さんたちに手分けしてもらって記録してもらった。
空気から純窒素を得るためには、酸素を酸化反応で完全に消費してしまえば良い。最近は、鉄をグラインダーで削ることが多くなっていて、鉄粉が簡単に手に入る。
空気中で鉄粉に塩を混ぜたもの加熱して酸素を取り除くことができた。
地球で、食品に入っていた、脱酸素剤の応用だよ。
付帯して発生する二酸化炭素は水で洗浄して除いた。
アルゴンなどの、希ガス元素を、取り除くのはムリだな。
まあ、それほど空気の中には含まれていないから、しばらく運転して問題になったら考えよう。
これで、アンモニアの製造のメドが立った。
次は、オストワルト法によるアンモニアの酸化だ。




