72.託児所
「あのぅ。ニケさん。」
領主館で働いている若い女性文官が私の研究室を訪ねてきた。
この人、態々研究所まで足を運んできたんだ。
多分、昔から居る文官の人だよね。なんとなく見覚えがある。
このところ、領地の業務が増加したことがあって、文官さんたちの人数が増えている。
新しく入ってきた文官の人の多くは知らない。
日本のお役所みたいに、制服が有る訳ではないので、文官の人かどうかすら分らない。
侍女さんは、制服があるんだよね。だから、侍女さんでは無いという事だけは分る。
そんな訳で、領主館に居る女性の人は、皆文官の人だと思っている。
きっと間違っていないだろうけど、セキュリティ面で、問題がありそう……。
「はい、何でしょう?」
なんか、遠慮がちに声を掛けてきた人が萎縮しないようにと思って、思い切り笑顔を作って応えてみた。
「あっ。あのぅ。少し相談がありまして……。」
ん。何だろう。鎮痛剤は、市販されるようになって、配布はもうしていない。
それに、文官さんの給料なら、全然問題無く買える金額だと思う。
「相談ですね。私が相談に乗れるようなことなら良いのですけど……。」
笑顔を絶やさないようにして応える。
「実は、私、仕事として、領都内の人達の生活状況を調べているんです。」
文官の女性の名前は、ジュリイさんと言う。
今の、領都マリムの住民の生活について説明してくれた。
今の、領都マリムで生活している人の大半は、移民だ。
2年程前のマリムの人口は2万人ぐらいだったので、今の9万人に届こうかという人口からすると、増えた分は、ほとんど移民の人たちだ。
古くから住んでいた人の家庭は、両親や、祖父母や、曾祖父母が同居している場合が多い。何代もマリムに住んでいるのだから、当然そうなる。
日本みたいに核家族になるなんて考えがそもそも無い。
親の面倒を見ることは当然だし、子供が生れれば、引退した老人が子供の面倒を見る。そして、若い働き盛りの夫婦は共働きをして家計を支える。
独立した子供が結婚して、子供が出来たら、祖父母、曾祖父母、あるいは親戚を頼って、幼い子供の面倒を看てもらう。
そんな生活のしかたが普通だ。
ところが、若い世代の移民の人達が増えた。
マリムでは、仕事は選り好みしなければ幾らでもある。
他領では食うや食わずの生活をしていたのに、マリムでは働きさえすれば食うのに困らない。
生活が安定すれば、異性と結婚をしようとか、子供を作ろうとかを考える。
そして、実際、この1年で結婚したカップルは、とても多い。
生れる子供の増加率は、人口の増加率に匹敵している。
移住してきた人は、皆結婚して、子供を作ったのか……?
あっ。増加率だね。実人数じゃないのか。
ところが、移り住んで間も無い若い夫婦の場合、もともと手に職が無くて流れて来ている上、マリムの仕事は、他領には無いものが多い。食うのに困らないと言っても、見習い程度の給与しかもらえない。
そして、その移民の人たちには、頼れる親戚が居ない場合が多い。
そうなると、働くことのできない母親がとても多くなり、経済的に困窮する。
それに追い討ちを掛けている訳ではないが、赤ん坊の死亡率が劇的に下がっている。子供を世話する母親の数がとても多くなった。
「そして、問題なのは、人口が増えているのにもかわわらず、労働人口が全然増えない事なんですよ。
最近では、移民で増える人口と、生れる子供で増える人口が拮抗していたりします。
そうなると、子供が生れることで、働き手が全然増えないんです。」
なるほどね。
結婚するカップルの増加とか、子供人口の増加とか、子供の養育のために労働人口が減少するとか……私が生活していた日本では考えられない事態だ。
そして、それを引き起しているのは、まちがいなく私達だね。
何かを改善すると、別な問題が起きるって訳だ。
「それで……。ここからが相談なのですが……。神々の国では、こういった場合、どうしていたんでしょうか?」
おっと。神々の国の事を教えて欲しいって、もう、私達は、神の国の使徒確定なのか?
でも、この世界の常識が分っているかというと、全然分っていない自信がある。
色々聞いてからじゃないと、見当違いのアドバイスをしかねないね。
「事情は、わかりました。ちょっと色々教えてもらっても良いですか?」
それから、色々と聞いていった。
助手さん達も、質問の場に加わってきた。
子供が出来たときに、赤ちゃんを育てるのが、女性だという理由は、授乳させるために、父親ではムリだということ。
そりゃ、そうだよな。粉ミルクなんて無いしな。
粉ミルクか。
砂糖が有れば作るんだけど……。
まだ、砂糖が見付からない。
どこかにサトウキビなんて無いだろうか……。
シュガーメープルでも良いんだけど……。
探しているんだけど、見付かってない。
仕事場に赤ちゃんを連れて行けない理由は、幼児の死亡率が高いことが常識のこの世界では、1歳にならない赤ちゃんを外に連れ出すことが無いのでムリ。
今は、状況が良くなってはいても、お母さんとしては、不安だ。お腹を痛めて、やっと生れてくれた我が子を失なうことを恐れている。
それも分る。こればっかりは、心情的な問題だから、すぐに変わらないだろう。
臨月になると、体が思うように動かないので、職人仕事をしている女性は、出産より大分前に仕事が出来なくなってしまう。
そして、1年以上、仕事を離れる女性は、勤めていた場所を辞める他ない。
出産休暇とか、育児休暇なんて……無いんだよね。
でも、せっかく習得した技術を持った女性が辞めざるを得ないのは、損失だよ。どうにかならないんだろうか……。
お産で、お母さんが亡くなってしまって、父子家庭になったらどうするのかを聞いた。
その場合は、死産になった家庭に引き取られるか、養子に出すみたいだ。
お父さんだけで、赤ちゃんを育てるのはムリだという認識だ。
神殿に捨てられる赤ん坊も多いようだ。
あくまでも、知っている範囲の支援策として伝えてみる。
ただねぇ。やっぱり神の国の知識だということになるんだろうなぁ。
それは、誤解なんだけど……。誤解を解くことはムリなんだよね。
とりあえず、日本に有った、制度や施設を説明してみる。
託児所や、出産、育児の際の有給休暇、期間を定めた給与保証。
どれも、施設としても、制度としても馴染みは無いみたいだ。
普通にそうだよね。
「託児所ですか?それは何でしょう?」
働く両親が、幼い子供を預けておける場所だと説明しても、なぜ、そんなものがあるのか説明が上手くできない。
特に、病気で死んでしまう可能性が高い赤ん坊を預るなんて、親族でもなければやらないだろう。
ふと、先日司教に会ったことを思い出した。バンビーナさんとカリーナさんに、神殿だったら預ってくれるんじゃないかと話してみた。
「そうですね。最近は、病気で駆け込む人が減ったと聞いていますし、薬のお陰で、長期に入院している子供も減っているみたいです。」とカリーナさん。
「今は、主に看護を行っていた修道士の手が空いているかもしれないですね。
相談してみましょうか?」とバンビーナさん。
ジュリイさんは、後日、バンビーナさんとカリーナさんと神殿で具体的な話をすることにした。
「それで、有給休暇ですか?それは何なんでしょう?」
うーん。有給休暇って何で有ったんだっけ?便利な制度だと思っていたけど……。
確か日本では、法律で決まっていたよね。「労働者の権利だ」みたいな事も言われたけど。
でも、米国には無かったな。
産休も、日本には有ったけど。
これも、米国では……聞いたことが無かったな……。
お産をした人は直ぐに復職していた。
大体、結婚もしてなかったし子供なんて居なかったから、良く分らないよ。
この世界での給与がどうなっているのかを聞いてみた。
基本的に日給なので、休んだらその分は支払われない。
病気になったり、怪我をしたりした場合は、雇い主が見舞金を払うこともあるが、普通は無い。
まあ、それも当然と言えば当然だよな。働いていない人に、お金を払う理由より、お金を払わない理由の方が説明は簡単だ。
結局上手く説明できなかった。
ただ、経験を積んだ人が、病気や怪我や出産で職を離れてしまうことを防ぐことができることは理解してもらえたみたいだ。
商業ギルドや工房ギルドと相談してみることになった。
でも、もともとの課題は、出産したお母さんが働けるようにすることだから、とりあえずは良いのか。
それより、託児所だね。神殿で実施してくれると良いんだけど。
三人に任せておけば良いよね。私が相談に加わることは無いだろう。
三日ほど経った日に会議室に呼ばれた。
うーむ。
何で……私は……ここに……居るんだ?
これは、託児所の設立の相談だよね。
どう見ても、託児所に預けられる側だぞ……私は。
結局、前世での制度を説明するために、打合せの場に引き摺り出されてしまった。
私が直接話した方が受けが良いらしい。
アウドおじさんとグルムおじさん、ダムラック司教も同席している。
なぜ、お父さんが居るのか、訳が分らん。
最近は女性の騎士も増えていると言っていた。なるほど、無関係という訳でもないのか。
しかし、アウドおじさんとお父さんと司教さんは仲が良いな。冗談を飛し合っている。この後、飲みに行くらしい。
お父さんが居るのは、それが理由のような気がしてきた。
仕方が無いので、私と助手さんとで趣旨説明をすることにした。
以前実施した疫学調査の結果で、生まれて半年から1年の赤ちゃんの死亡率がとても高かったこと。
最近の薬の効果。上下水道を整備したことで、死亡率が激減している状況などをバンビーナさんとカリーナさんに説明してもらう。
私は、前世の記憶による施設の構成を説明する。
早くお母さんに復職してもらうためには、赤ん坊を預ってもらう場所が必要なことと、それが神殿が実施していれば安心に繋がることを説明した。
結局、領地で、廉価で神殿に場所を貸し出して、託児所を作ることが決まった。
授乳に関しては、授乳可能な女性を雇うなどして対応することになった。
これは、粉ミルクを作れば、かなり楽になるんだろうな。
そして、出産休暇の制度も合せて設定された。
神の国の制度ということで、そのまま通ってしまったみたいだ。
出産から1ヶ月の休暇とその時の給与保証がギルドの後押しで決まった。
この事が口コミで、周辺の領地に伝わったのか、さらに移民による人口の増加と出生率が増加した。




