4.アイテール・アトラス(アイル)
激しい痛みとともに、覚醒した。
声がまともに出ない。呼吸が苦しい。
体に力が入らない。
目が良く見えないし、音も良く聴こえない。
あれは、事故だったんだよな。
突然、制御電流値が跳ね上がって、周りが真っ白に見えた。
あわてている杏樹の顔を思いだす。
あれから、どのぐらい意識が無かったのだろう。
杏樹は無事だっただろうか。
とても気になるのだが、声はまともに出ないようだ。聞くこともできない。
口に当てられた柔らかいものから流動食を飲まされる。
何度目かの流動食を飲まされたときに、漏らしてしまったようだ。
足を持ち上げられて、処置される。
かなり酷いケガをしてしまったみたいだ。
体が思った通りに動かない。
試運転は、問題無く終了するはずだった。
あれは一体何だったのだろう。
何かが、爆発したのだろうか。
慎重に、機能確認して最終試験に臨んだ。
プラズマ流も安定していた。
周波数を少しずつ上ていって、あのタイミングで突然全てが振り切れていた。
爆発する様な兆候は全くなかった。
サーバーに保存したあるはずのデータを解析してみないと……。
と考えているうちに、気を失ってしまった。
次に目が覚めたときに、持ち上げられて、柔かな吸い口から流動食を摂取した。
なんだか随分と大きな仕掛けだな。
介護様のロボットだろうか。
首が自由に動かない。
一体どれだけの怪我なのだろう。
プラズマの周回周波数を上げている途中であの現象が発生した。
あの周波数で、装置全体が崩壊したのだろうか。
共鳴現象という単語が頭に浮んだ。
力が掛る部分は、杏樹が協力してくれた樹脂のお影で、破壊強度の余裕があった筈だ。
それに金属やセラミックスと違って、樹脂ならば、特定周波数と共鳴することもなかった筈。
そこらへんの構造計算は十二分に行なっていた。Q値の高い振動数は無かった……。
また、気を失なっていたみたいだ。
ヤバいな。意識を保っていることが難しい。
それにしても、杏樹には申し訳ないことをしてしまった。
一瞬で意識が飛んでしまったので、あの後どうなってしまったのか解らない。
きっと巻き込まれてしまっただろうな。
杏樹はどこに居るのだろう。
怪我をしていないだろうか。
試運転のあとで、イタリアンレストランでプロポーズする予定だった。
指輪も用意していた。
予約の取消をしていないから、違約金を取られるのだろうか。
そう言えば、指輪は、持ち込んだ鞄の中だった。
爆発で紛失してしまっているかもしれない……。
また、気を失なった。
とにかく、体を直してからだ。
とりあえず生きてはいるし、考えることもできている。
当面あれこれ考えるのを放棄した。
その後、介護ロボットらしきものに持ち上げられては、流動食を飲み、漏らしてしまったものを処置してもらい、ただひたすら体を直すためと考え、寝て過した。
少しずつ、目が見えてきた。人の声も判別できる状態になった。
ここに居る人は、何を話しているのだ?
聞いたこともない言葉を話している。
目の方は、まだ、焦点を合わせることができずにどこもかしこもぼやけている。
近くに焦点が合い始めて、自分の体が少し見える。
包帯でぐるぐる巻きにされていると思っていたら、包帯はどこにもない。
やけに、手足の長さが短かくないか。
手首と足首が太すぎるだろう。
病院に居るのだと思っていたのだが、どうやらここは病院ではないらしい。
介護ロボットと思っていたのは人間だった。
どれだけ大きいんだ。
流動食と思っていたのは、母乳だったみたいだ。
それにしても大きな胸だな。杏樹はこれほど大きくなかったはずだな。
と思ったところで、不謹慎なことを考えていると、自分を戒めた。
とにかく、何がどうなっているのだろう。全く理解不能だ。
まともに声が出ないので、今の状況を聞くこともできない。
落ち着いて、合理的な答をみつけなければ。
まず、オレの体は、どう見ても乳児の体だ。
だとすると、巨人の中に居るのではなく、オレが小さくなっているのだろう。
ここが病院でないのだとすると、オレは赤ん坊に生れ変ったと考えるのが妥当だ。
いや、いや、いや、それは有り得ないだろう。
もし、その仮定が正しいとして、何故、恭平だった時の記憶があるんだ。
仮にあの時死んでしまったら、記憶も消えて無くなっているはず。
魂なんてものが有るかどうか解らないし、生まれ変わる前の記憶を持って生れ変るという事例は殆ど無い。ダライ・ラマの例があるが、あれは本当なのだろうか。
そういう訳で、絶対無いかと言えば、証明できないので判らない。
普通に考えて、確率的に無いと言って良いはずだ。
その時、「閉じ込め症候群」という単語が浮んだ。
脳に大きな障害がなくても、意識が戻らないことがある。
そのとき、外界と遮断されたままになった人は、脳が創造した世界に閉じ込められてしまうのだ。
オレは、かつて魂があるのか無いのかなどと考えていた。そのため、生まれ変わったというシナリオの夢の世界のなかに居るんじゃないか。
そう思うと何だか納得できた。
そうであれば、本来の体との繋がりを見付けて、早いところ意識を取り戻さないとならない。
意識不明で何十年も過している人の話は聞いたことがある。
それだけはゴメンだ。
それから、意識の有るときには、周りで話している言葉を聞くことを心掛けた。
チンプンカンプンだ。
オレの脳内に、こんな言語の記憶が有るというのは信じ難い。
外国の病院に収容されて、周囲の声が無意識に聞こえているのかもしれない。
ただ、聞いたことのある外国語のどれとも似ていない。
少なくとも英語でもフランス語でもロシア語でもないな。
フランス語は、数学や物理の文献が多いということで、大学のときに第二外国語で少しカジっている。ロシア語も似たようなものだ。文書だけなら何とか読める。まあ、大して知っている訳じゃあないんだけれど。
中国語やタイ語などの響きとも違っている。
まあ、全ての言葉を知っている訳がないので、知らない国の知らない言葉を聞かされているのだろう。
本体のオレは一体どこに居るのだろうか。
どうやら、声を出すことが出来そうだ。日本語で『ここは、どこ?杏樹はどこにいる?』と聞いてみた。
側に居た女性が吃驚した表情をして、どこかに行ってしまった。
時を置かずに、何時も母乳をくれる女性と一緒に戻ってきた。
再度、日本語で、『ここは、どこ?杏樹はどこにいる?』と聞いてみた。
母乳をくれる女性がニコニコして、オレを抱き上げて、何か言っている。
うーん、全く話が通じない。
日本語はダメだな。
どういう状況か分らないが、ここで話されている言葉を覚えないとダメなのだろう。
そう思っていたら、男性がやってきて、二人でかわりばんこに抱き上げて、なにか言っている。
この二人が両親という設定なのだろうか。
抱き上げられて、あやされて、何か言われてが、エンドレスループになりかかっていた。二人がしきりに言っている「アイテール」という単語を口に出してみた。
二人は満面の笑顔になった。
男性が「アウド、アウド」と繰り返し言うので、それを言葉にしてやると、男はオレを抱えたままグルグル回りだした。
危ねぇよ。やめてくれ。
今度は女性がそれに割り込んで「フローラ、フローラ」と連呼し始めた。それも口に出して言ってやると、俺を挟んで二人が抱き付いて、おれの頬にキスをし始めた。
これは一体どういう状況なんだ。
しばらくの間、二人にもみくちゃにされ。ようやく満足したのかオレが居る部屋から去っていった。なにやら嬉しそうに会話をしていたよ。
一人になって、今のは一体なんだったのかと思う。
最初、しきりに呼び掛けていた単語は、ひょっとするとオレの名前だろうか。
男性が連呼していたのは父親の名前、女性が連呼していたのは母親の名前ってところか。
なるほど。
生れて間も無い自分達の赤ん坊が、何やら言葉を口にしている場に居合せた。そして、赤ん坊が自分の名前や両親の名前を鸚鵡返しに言えば、それは喜ぶだろう。
しかし、このシーンをオレが脳内で創造するってどういう事だ。
オレが生れた頃の両親とのやりとりを記憶していたのだろうか。
そんな事は全く覚えていないと思うのだが。
言葉を口に出してからは、周りの女性達が話しかけてくる。
こちらとしても、言葉を覚えるつもりだったので都合が良い。
しばらくすると、何となく意味が分り始めた。
単語はその都度説明を聞かないと分らないけれど、文法はフランス語に近いみたいだ。
一体どこの言葉なのだろう。